あまり、食べることに関しては、人さまの前で言わないように気を付けている。そのつもりである。が、小説家や作家のエッセイでどこのお蕎麦がおいしいとか、コーヒーがうまいなどというくだりを読むことは楽しいことである。
ぼくは1980年代の初めまでサラリーマンだった。小中学生の教材の編集をしていたのだ。
サラリーマンなんだけれど、並みのサラリーマンで終わるつもりはなかった、様な気がする。
植草甚一というヒップなおじさんが大好きになった。モダーンジャズから映画評論、海外の雑誌などにどっぷりつかって生きたいと思ったのもこの、愛称JJおじさんから相当影響を受けたからと思われる。それでも、東京は小網町で生まれ育った植草JJおじさんの、少年の頃食べたお菓子やなにやらの食べ物のおいしかったこと、等といわれてもぼくには分からなかったなあ。1923年の関東大震災にやられるまでは小網町の、つまり東京一の洒落た街の、羽振りの良い木綿問屋の息子であった甚一少年は震災後がらりと変わってしまったと自ら告白されるのであった。味覚の思い出とはきわめて個人的なものだろうからぼくには分からないのも無理はないが。それでもおよそ90年後の3・11以降の現在の日本で、震災をチョッピリ受けたこのぼくも、まったく「けち臭い」人間になってしまったような気がする。そんな共通点を見つけて喜んでいるJJファンのぼくも,これだけは似ないほうが良かったかもねえ。
さて、植草JJおじさんの大変ほめる喫茶店、新宿、京王デパート内のコーヒー店コロンバンを訪ねて見たのは、サラリーマンも最後の頃だったか。白い空間で不思議な店だったが、なぜか安らげたなあ、そんな思い出がある。もちろんコーヒーは美味しかった。植草JJおじさんも愛読した池波正太郎のエッセイからは、お蕎麦の神田まつやを知った。老舗のこの店に友人を連れて行ったとき、このブルース大好きの友達はとても喜んでくれたっけなあ。
フリーのカメラマンになろうと思う、とこの友人に相談した時、「好きならやればいいよ」
と言われたのが、ついこの間のような気がする。あれからたっぷり30年という時間が流れたというのに。
1980年代初め、植草甚一氏が亡くなった直後あるマーケットで、ニューヨークをコンパクトカメラで撮った写真がいっぱい入った1冊のアルバムを買い求め、ぼくはフリーカメラマンになったのだった。
エッセイ 石郷岡まさを
ぼくは1980年代の初めまでサラリーマンだった。小中学生の教材の編集をしていたのだ。
サラリーマンなんだけれど、並みのサラリーマンで終わるつもりはなかった、様な気がする。
植草甚一というヒップなおじさんが大好きになった。モダーンジャズから映画評論、海外の雑誌などにどっぷりつかって生きたいと思ったのもこの、愛称JJおじさんから相当影響を受けたからと思われる。それでも、東京は小網町で生まれ育った植草JJおじさんの、少年の頃食べたお菓子やなにやらの食べ物のおいしかったこと、等といわれてもぼくには分からなかったなあ。1923年の関東大震災にやられるまでは小網町の、つまり東京一の洒落た街の、羽振りの良い木綿問屋の息子であった甚一少年は震災後がらりと変わってしまったと自ら告白されるのであった。味覚の思い出とはきわめて個人的なものだろうからぼくには分からないのも無理はないが。それでもおよそ90年後の3・11以降の現在の日本で、震災をチョッピリ受けたこのぼくも、まったく「けち臭い」人間になってしまったような気がする。そんな共通点を見つけて喜んでいるJJファンのぼくも,これだけは似ないほうが良かったかもねえ。
さて、植草JJおじさんの大変ほめる喫茶店、新宿、京王デパート内のコーヒー店コロンバンを訪ねて見たのは、サラリーマンも最後の頃だったか。白い空間で不思議な店だったが、なぜか安らげたなあ、そんな思い出がある。もちろんコーヒーは美味しかった。植草JJおじさんも愛読した池波正太郎のエッセイからは、お蕎麦の神田まつやを知った。老舗のこの店に友人を連れて行ったとき、このブルース大好きの友達はとても喜んでくれたっけなあ。
フリーのカメラマンになろうと思う、とこの友人に相談した時、「好きならやればいいよ」
と言われたのが、ついこの間のような気がする。あれからたっぷり30年という時間が流れたというのに。
1980年代初め、植草甚一氏が亡くなった直後あるマーケットで、ニューヨークをコンパクトカメラで撮った写真がいっぱい入った1冊のアルバムを買い求め、ぼくはフリーカメラマンになったのだった。
エッセイ 石郷岡まさを
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