貧乏カメラ10余年。30年のカメ漫だらだら石ちゃん散歩の半分近くは、ゆる貧ライフ。
うまくいっていたのは、10年くらいか。それでもそんな10年は中流の下の下の下。ああ、懐かしき80年代。21世紀の今は、子ども時代の貧しかった日本によく似てきたなあ、ああ日本が貧しかった頃、1950年代にぼくは小学生だった。あの頃日本人は豊かであった、貧乏だけれど豊かであった、これ逆説的にきこえますか?多くの人は生活苦にあえいでいたが,こころは豊かであったなあ。「三丁目の夕日」という西岸良平の漫画の世界の時代を、リアルに生きてきたものだなあ。電気などそんなに大量に使うこともなかった。皆さん、ケータイ電話を持つこともなかったし、家に帰ると、エアコンもなければ、大型のテレビもない、ぼくの家に初めてテレビが入った頃は、たしか小学5年生。いえ、もう少し早かったかなあ。家族でみんな緊張して、町内の電気屋さんがセットしてくれたテレビジョンの、そういったのだ、カバーの緞帳、映画館によくあるでしょ、その緞帳のミニミニ版を兄が厳かに開けてテレビの画面に見入ったっけなあ、家族そろって。何の番組を見たんだろう?モノクロの画面で、動く画面ということに、少年はびっくりした。母は、歌舞伎かなんかの演劇を好んで見たようだったし、姉たちは歌謡曲の、流行歌といったかなあ当時は、いっぱい流れる歌番組に早くも夢中のようだった。父はラジオで浪曲や落語を聞いていた。ぼくが、テレビ番組でいちばん夢中になって見たのは、「赤胴鈴之介」か。少年雑誌の付録に何冊もついてくるマンガでも夢中になったが、テレビでは、実写版というのだろうか、かっこいい男の人が赤胴鈴之介だったのだ。ちょっと漫画の顔と違っていたが、映画でも何回も見たほど夢中だったね。テレビ番組で今でもはっきり覚えているのは、あれは夏休みだったのか、マブチモーター社提供の工作番組、これはテレビの前にちょこんと座り、本当に食い入るように見たっけ。三遊亭小金馬、今の金馬師匠が司会で、なんとも子供のぼくの夢を広げてくれました。父も母も決して暮らしは楽なほうではなかったと思うのだが、何しろ8人の子どもを食わせてきたのだから、それだけで驚いてしまう。貧乏でも明るかった。これから、以後だんだん豊かになってゆく日本の高度経済成長を実感できるモノの豊かさを身をもって体験する前兆があった。モノが豊かになって心が貧しくなって、とは言うまい。でも、1960年代に、戦慄するべきサイコパスの犯罪や、親が子を殺す、また逆に子が親を殺すなどという悲劇的なニュースはそんなに見なかったと思う。いじめられて自殺するなどというニュースもあったのだろうが、見た記憶がない。それでも1960年代の以前から、原子力の平和利用という名目の下、原子力発電、原発は企画されていたのだった。3・11よりおよそ半世紀も前に。デジャビュー、セピア色の光景をだらだら心の散歩、してみました。
エッセイ 石郷岡まさを
うまくいっていたのは、10年くらいか。それでもそんな10年は中流の下の下の下。ああ、懐かしき80年代。21世紀の今は、子ども時代の貧しかった日本によく似てきたなあ、ああ日本が貧しかった頃、1950年代にぼくは小学生だった。あの頃日本人は豊かであった、貧乏だけれど豊かであった、これ逆説的にきこえますか?多くの人は生活苦にあえいでいたが,こころは豊かであったなあ。「三丁目の夕日」という西岸良平の漫画の世界の時代を、リアルに生きてきたものだなあ。電気などそんなに大量に使うこともなかった。皆さん、ケータイ電話を持つこともなかったし、家に帰ると、エアコンもなければ、大型のテレビもない、ぼくの家に初めてテレビが入った頃は、たしか小学5年生。いえ、もう少し早かったかなあ。家族でみんな緊張して、町内の電気屋さんがセットしてくれたテレビジョンの、そういったのだ、カバーの緞帳、映画館によくあるでしょ、その緞帳のミニミニ版を兄が厳かに開けてテレビの画面に見入ったっけなあ、家族そろって。何の番組を見たんだろう?モノクロの画面で、動く画面ということに、少年はびっくりした。母は、歌舞伎かなんかの演劇を好んで見たようだったし、姉たちは歌謡曲の、流行歌といったかなあ当時は、いっぱい流れる歌番組に早くも夢中のようだった。父はラジオで浪曲や落語を聞いていた。ぼくが、テレビ番組でいちばん夢中になって見たのは、「赤胴鈴之介」か。少年雑誌の付録に何冊もついてくるマンガでも夢中になったが、テレビでは、実写版というのだろうか、かっこいい男の人が赤胴鈴之介だったのだ。ちょっと漫画の顔と違っていたが、映画でも何回も見たほど夢中だったね。テレビ番組で今でもはっきり覚えているのは、あれは夏休みだったのか、マブチモーター社提供の工作番組、これはテレビの前にちょこんと座り、本当に食い入るように見たっけ。三遊亭小金馬、今の金馬師匠が司会で、なんとも子供のぼくの夢を広げてくれました。父も母も決して暮らしは楽なほうではなかったと思うのだが、何しろ8人の子どもを食わせてきたのだから、それだけで驚いてしまう。貧乏でも明るかった。これから、以後だんだん豊かになってゆく日本の高度経済成長を実感できるモノの豊かさを身をもって体験する前兆があった。モノが豊かになって心が貧しくなって、とは言うまい。でも、1960年代に、戦慄するべきサイコパスの犯罪や、親が子を殺す、また逆に子が親を殺すなどという悲劇的なニュースはそんなに見なかったと思う。いじめられて自殺するなどというニュースもあったのだろうが、見た記憶がない。それでも1960年代の以前から、原子力の平和利用という名目の下、原子力発電、原発は企画されていたのだった。3・11よりおよそ半世紀も前に。デジャビュー、セピア色の光景をだらだら心の散歩、してみました。
エッセイ 石郷岡まさを
本当にありがとうございます。