カフェが好き、それにも劣らず散歩が好き、
そして散歩とくれば、デジカメを携帯する、決してケータイは携帯しない。
まあ、散歩のぼく的スタイルでありますがね。
ケータイというのかスマフォというのか、その区別も分からない、
そして、ポッケもんゴーというのですか、運転手が運転中にそのポッケもんゴー
なるものを運転中もやっていて、ついに小学生をひき殺したと言う悲惨な事故。
もはや、「莫迦もんゴー」というべき許されざる交通犯罪である。
ここではその判断は避けますが、
そんな危険は、つまり車を運転しながら前を見ないでゲームに熱中するよな
馬鹿者が運転する車がそこいら辺を走っている可能性は予測できたはず。
車の運転席に乗ったらケータイもゲームも一切出来ないようにすればよいのに・・・
それは技術的に出来るのだとか聞いたが。
お話は変わりまして、散歩と写真についてである。
( 拙のブログの話題は、希望のある楽しく愉快なものに限りたい。)
デジカメがどんなに進化しても、写真を撮る人サマが感じたままにシャッターを切って
自分で撮った写真、とはじめていえるのですね。つまり撮る人の脳の何かの反応として、
おお、これはいい、とか美しいなどとカメラのシャッターを切るのですよね。
動画のようにだらだら撮り流して、おっ、この1枚は静止画としても面白そう、などと
1枚の写真に加工することも可能でしょうが、そこには作者の意思が感じられません。
もちろん偶然性によって面白い写真が上がってくるということもぼくは否定いたしません。
そのためには、何倍もの失敗作が必要で、それだけその人は努力したのだと思うのです。
何という公平なメデイアでしょうか、写真というものは・・・
努力の量に比例して、成果が出る。
いいカメラを持っても、全然撮らないでカメラ自慢ばかりする人種は昔からいましたね。
お金持ちのライカ自慢など、耳にタコが出来るほど多く聞きます。
ぼくは思うのです、昔のカメラでも、シャッターを多く押した人のほうが
より面白い写真を撮る可能性は高いのではないか、と。
情熱だけで面白い写真は撮れないかもしれませんが、何か情熱の濃さが人を感じさせる、
ぼくに言わせれば 「面白い写真」を撮る可能性がある、と思います。
時々、アサヒカメラ や 日本カメラ という歴史のある写真雑誌を読んで刺激を受けるのも良いでしょうね。
以下に載せる写真は、決して「面白い写真」の例ではなく、一つの試みとかその結果の失敗作例としてみていただければ幸いです。
写真・文 石郷岡まさを