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まさおレポート

ショーペンハウワー「意志と表象としての世界」ニヒリズムからの脱却 その1

はじめに

ゲーテ、ワーグナー、ニーチェそして夏目漱石、芥川龍之介、鈴木大拙に影響を与えているというショーペンハウワーを読んでみた。ところで何故ショーペンハウワーという、当今誰も注目しない人物に興味を持ったのだろうか。

かつてバリに滞在していて夕刻になるとプールでひと泳ぎし、その後しばらく同じプールに漬かっている人たちと歓談することを習慣としていたが、それで知り合ったスペイン人の男性になにかのきっかけで仏教に対する見方を伺ったところ、人生は苦だとのまさにニヒリズムととらえていたことに少なからず驚いた。確かに生老病死の四苦や一切皆苦がブッダの教えだが日本の仏教に親しんできた多くの人々も同様にニヒリズムといわれると驚くのではないか。しかしおそらく欧米では大学や書物で仏教を勉強するとそうなるのだ。そしてその理解は私などがぼんやりと考えていた仏教感よりも実はかなり本質に迫っているのではないか。

ニヒリズムは虚無主義で、世界や人間の存在には価値がないとする哲学でありペシミズムは悲観主義、厭世主義で世界は悪と悲惨に満ちたものだという人生観で原因と結果みたいなもので実は同じだろうと考えていたが実は大きく異なっているようだ。ショーペンハウワーのニヒリズムは即ペシミズムに向かうものではなく一旦はニヒリズムに沈み、そこから脱却するといういわば大乗仏教の無明と、それからの脱却である空の思想に近いものをおぼろげながら志向しているように思う。そのヒントがショーペンハウワーの「共苦」ではなかろうか。

欲望のさらに奥にある無明を取り払うとどうなるのか。欲望のさらに奥にある無明を取り払えば悟り、涅槃、如来に至る。言葉にすればシンプルなこのテーマを釈迦は説いた。このシンプルなテーマは宗教よりもむしろ方法論といってもよい。このテーマが釈迦仏教として伝搬し大乗仏教という一大解釈革命とさらに見解のことなるさまざまな宗派を生んだ。

欲望は自覚しない底にある欲望もあれば志など自覚され肯定される欲望もある。自覚しない底にある欲望を仏教では無明と呼び、ショーペンハウワーは意思と呼んで、両者はともにこれらを人間の苦悩の原因としこれらを滅し去ることで安定を得ようとした。なんとよく似ていることだろう。

しかし仏教がニヒリズムのままであればインドのみならず中国、日本でも受け入れられることは難しかったのではないか。インドで仏教が廃れヒンドゥに席巻されたのはまさにこのニヒリズムの故ではなかろうかと考えている。商業が発展し現世を肯定する人々にはそのままでは受け入れがたい。大乗思想が興り最終的に日本で生き延びた。ショーペンハウワーもニヒリズムに浸りながらも共苦というキーワードでニヒリズムの先に必然的に来るであろうペシミズムを回避しているように思える。

夏目漱石も「文芸の哲学的基礎」でショーペンハウワーに触れていて相当な影響を感じる。鈴木大拙、宮元啓一などの著作も合わせて理解の参考にしながら、はたしてうまく考えがまとまるものかどうかと危惧しながら書き進めてみた。

なおショーペンハウワー「意志と表象としての世界」の引用はhttp://soqdoq.com/symposion/page/5/ を参考にさせていただきました。

ショーペンハウワーのニヒリズム

「意志と表象としての世界」は1818年、ショーペンハウワーが30歳のときに書かれた。彼は仏教的思想の持ち主といわれる。彼のニヒリズムのどこが仏教的なのか、単なる東洋崇拝からくる錯覚かあるいは日本の仏教学者よりも本質を的確に捉えているのか。それにしてもショーペンハウワー、「意志と表象としての世界」で凄まじいニヒリズムとペシミズムを記している。

これはキリスト教の原罪の教えであり、ヴェーダの中核、ウパニシャッドの、tat tvam asi梵我一如という教えである。また、ウパニシャッドの教えを生きて最後に報酬として得られるのは、「汝は二度と生まれ変わらなくてよい」ということである。

一生は苦難や災難に支配されている。自殺する人もいるくらいである。短さが生の最も善いところではないだろうか。人間の至上の罪は、生まれてきたことなのだ。

最期には必ず死との闘いに敗北する。人生は難破を目指して、岩礁と渦巻きに満ちた海を航海することである。

絶え間無い苦痛が人間の本質だから、逆に何をしても苦痛の総量は変わらないということを認識すれば、心は慰められる。苦痛は偶然に左右されない必然だ。

ショーペンハウワーのペシミズム

不断の生への努力によって苦痛が生まれる。

貪り食う動物の喜びと、今まさに貪り食われている側の動物の苦しみを足してみたまえ。世界には苦痛のほうが多いことが容易に判るだろう。

国家や刑法によって不正が根絶されても、次には国家間の戦争がやってくるし、戦争が根絶されれば地球全体で人口過剰が起こる。その結果の恐るべき悪禍は、今のところ大胆な想像力の持ち主にしか思い浮かべることは出来ない。

人間は苦痛と退屈の間を往復する振り子運動だ。さらに生殖の義務と、外敵とが人間を脅かす。

苦悩を追い払うことは出来ない。苦悩は絶えず形を変えてやってくる。性衝動、愛、嫉妬、羨望、憎悪、不安、名誉心、金銭欲、病気…。

非常な歓喜を覚える人は激しい苦痛も味わわなければならない。これは、一度に受け取れる歓喜や苦痛の容量が、その人の精神的感受性により一定だからである。

非常な歓喜や苦痛は、現在的なものではなく、未来の先取りによる。言い換えれば、それは誤謬や妄想である。

ダンテの神曲の地獄篇は、どの世界から材料をとってきたのだろうか?この世界である。どんな楽天家でも、外科手術室、監獄、拷問室、奴隷小屋、戦場、処刑場と連れ回せば、世の中について悟るだろう。ダンテの楽園には祖先や恋人や聖者ばかりで、純粋な歓喜が描かれていないのは材料が無かったためである。

持続的な幸福はあり得ない。なぜかと言うと、幸福とは「苦痛が無いこと」だからである。だから、幸福や目標を達成しても、享楽によっても、単に苦悩や願望から解放されただけである。むしろそこには退屈がやってくるのだ。苦痛が積極的なのに対し、幸福は消極的である。だからこそ長続きする幸せなどというものはあり得ない。絶え間なく苦痛が生まれることは人生の本質だからである。

積極的な幸福が存在しないことは、どんな詩も劇も、幸福を得ようとして格闘し努力し戦闘するさまを描くだけで、永続的で円満な幸福それ自体を描くものではないことからもわかる。主人公が幸福を探り当てるや否や、幕を下ろしてしまうしか、文学にできることは無いのである。また永続的な幸福を描こうとした芸術、例えば田園詩、牧歌は、退屈である。

初期仏教の永遠のニヒリズム

初期仏教で四聖諦が説かれた。これが釈迦の出発点であり到達点でもあるといって差し支えないだろう。人生は苦であり、その苦の原因が欲望のさらに奥に控えた無明であり、その無明を八正道の修行で得られた智慧によって取り払うことで、悟り、涅槃、如来に至る。

苦諦 - 一切は苦であるという真理
集諦- 苦には原因があるという真理
滅諦 - 苦は滅するという真理
道諦 - 苦を滅する道があるという真理

しかも初期仏教のニヒリズムは一回限りの人生の話ではない。輪廻でいわば永遠のニヒリズムなのだ。宮元啓一「インド哲学七つの難問」では輪廻説が確立すると同時に、輪廻からの永遠の脱却を求めるさまが記述されている。

因果応報思想に論理的に支えられて、紀元前8世紀ごろに、インドの宗教、哲学の前提となる考え方として確立された。・・・輪廻説が確立すると同時に、輪廻からの永遠の脱却、つまり解脱を求める人々が現れ、出家となり、さまざまな宗教、哲学を唱えた。「インド哲学七つの難問」p112

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