【想い出の引き出し】
「カレーパンとメロンパンの思い出」
小学一年の時だった。その日は隣の席の女の子Kさんと日直で、学級日誌を放課後までかかって書いていた。
一緒に日直だったKさんは勉強が出来て真面目で几帳面で、何事もとことんやらないと気が済まない性格で、学級日誌一つにしてもいい加減は許さず、丁寧に色鉛筆を使って絵まで描いていた。いつまでたっても職員室に持って行かないので、担任のH先生が心配して教室に見回りに来た。誰もいなくなった教室に二人残って学級日誌を丁寧に書いている様子を見て「まだやっていたのか? そんな丁寧に書かなくてもいいんだよ。これでパンでも買って食べなさい」とポケットマネーから二人にいくらかづつお金をくれた。二人は学校の裏のパン屋に駆けて行き、私は何にしようかと迷った挙げ句、Kさんが買ったカレーパンとメロンパンをその時初めて買って食べた。そのおいしかったこと! 以来、カレーパンとメロンパンが大好きになった。
「野菜の落とし物」
小学二年の頃だった。S君とM君という男の子二人と道草をしながら帰った。すると、道の真ん中に野菜がひと山置いてある。何でこんな所に野菜が置いてあるのか少し不思議に思い、三人でどうしたらよいものかあれこれと考えた末に「落とし物だから交番に届けよう」と三人で手分けして最寄りの交番に持って行った。その交番までは少し距離があったので、交番に着いた頃にはその野菜はすっかりしおれていた。でも、お巡りさんは「ありがとう」と苦笑しながら言った。私たちは「善いことをした」と満足していた。
「音楽のM先生」
小学六年の時に赴任してきた新任の音楽教師M先生は、私には絶対怒らない、とてもやさしいおにいさんみたいな 先生だった。けれど、男の子や他の女の子(それも私をいじめている子)にはかなり厳しく、注意する時はかなり恐い先生だった。M先生は私と廊下ですれちがうと、これ以上ないというほどのとろけそうな笑顔をくれた。私は、私にはやさしいM先生が好きだったけれど、私だけ怒られないというのは、何か贔屓されているみたいで、他の子のイジメに遭いそうでいやだった。そんな理由で、私がM先生に対して“おとなしいイイコ”をやめて少しばかり先生に反発して言うことをきかないコになったら、M先生は以前のようには私にニッコリしなくなった。今思うのに、「私はM先生の〈好みのタイプの女の子〉だったのかな?」なんて。M先生とは、二年ほど前から季節便りの交換をするようになった。その先生も今年還暦を迎えられる。
「S先生のこと」
小学四年の頃のこと。お弁当を持って来るのを忘れた男の子に、担任のS先生は自分の昼食用に持参したイタリアスティックパン(当時かなり流行っていた神田S軒のスナッククラッカー風の細長カリカリパン)を何本か分けてあげた。他の子も「ボクも」「私も」ということになってしまい、S先生は「それなら今度の日曜日、皆で先生の家に遊びにおいで。このパンをたくさん用意しておくから」というわけで、クラスのほぼ全員で先生のお宅に伺うことになった。日曜日、S先生の家の庭にはテーブルがしつらえてあり、奥様お手製のおにぎりやたくさんのごちそうと、皆のお目当てであるイタリアスティックパンが用意されていた。皆でおにぎりやたくさんのごちそうを食べた。もちろんスティックパンもバリバリと食べた。食事の後は近くの広場に行って、ドッジボールや鬼ごっこをして遊んだ。青空の下、皆で食べたイタリアスティックパンはとてもとてもおいしかった。
授業中のある日、先生が質問をした。「1メートルは?」生徒たちが皆で声を揃えて答えた。「100センチ!」
もう一つ先生が聞いた。「10メートルは?」生徒たちが再び声を合わせて答えた。「1000センチ(せんせんち)(先生ん家)!」
先生は「先生の家はそんなに小さくないよ(笑)」と言って皆を笑わせた。
「クラスで好きな男の子」
小学六年の頃、クラスの女の子の間で「クラスの男の子で誰が好き?」と言い合った。私も皆にせっつかれて言わざるを得なかった。ほんとはN君という子が好きだったけれど(N君は勉強ができ、けどガリ勉じゃなくカッコよくて、色浅黒い精悍なスポーツ少年だった)N君はある女の子と公認みたいになっていて言い出せず、Y君という男の子の名前を言った。Y君は優秀で児童会の会長みたいなことにはたいてい推されるという子で、真面目でやさしくて。Y君の名前を言ったのは、私をいじめる男の子が多い中、Y君は私をいじめなかったし、やさしかったからで、ほんとに好きだったわけじゃない。でもそのことがY君の耳に入ってからというもの、私に冷たくなったように思えた。
「初恋の人・家庭教師のI先生」
私の初恋。それはたぶん小学校四年の時。ぜんぜん勉強しない娘を心配して、親は家庭教師をつけることにした。ある日、祖父の知り合いの息子で、国立C大学一年のI青年が私の家庭教師としてやって来た。彼は当時の大学生としても珍しく、詰襟の学生服を着て通って来た。別に『体育会』系だったわけではなかった。
内向的で人見知りの激しい私は、なかなか彼と打ち解けることが出来ずに殆ど喋らなかった。そのくせ自分の我だけは通すというわがまま娘だったから、彼をしばしば困らせた。わがままはどんどんエスカレートしてゆき、ある日「ごめんなさい」が言えずにむくれた。ダンマリを決めこんで彼の言うことも聞かなかった。ついに彼はキレてしまい、怒って何も言わずに帰ってしまった。いつもは勉強が終わると親に声をかけてから帰って行ったものだった。その時は親に何と説明したらよいのか、もうどうしてよいのかわからず、途方に暮れた。今まで私のどんなわがままにも寛容で、やさしかった先生があんなに怒って、まさか本当に黙って帰ってしまったことに対して、哀しいやら困るやらで涙が出てきた。
彼が家庭教師として来るようになって一年ほど過ぎた頃から、近所に住んでいる、日頃からよく遊んでいた三つ違いの従兄弟が、私と一緒にわが家で勉強をするようになった。その従兄弟は小学校低学年のため、帰りが早く、一足 先にわが家に来て私が帰宅するまでの間、家庭教師の彼と遊んでいた。楽しそうに親しく話す二人を「私とはあんなに親しくしてくれないのに」と少しばかり嫉妬した。家庭教師の彼がその時なぜか無性に憎らしく思えた。ほんとは家庭教師の彼が好きだった。親しくしたかった。けれど素直になれず、わがままを言って困らせた。それはきっと彼に振り向いてもらいたいと思う気持ちの裏返しだったのかもしれない。
蛇足ではあるが、宿題の算数プリントで、私がだした答えを彼は違うと言って書きかえさせた。けれど、私の答えで合っていた。そこが出来ていれば百点だった。
「私と高校野球」
近頃の私は歳(?) のせいか、高校野球よりもプロ野球へと興味が移行しつつあり、ひと昔前のように熱中できない。とは言え、毎年この季節になると一日中、高校野球中継をつけっ放しにしている。それも甲子園の全国大会のみならず、地区予選からUHF局で見てしまうのである。
こんな私ではあるが、中学生の頃は野球というものに対して全くといって興味がなかった。私をここまで野球好きにさせたのは『東海大相模高校』の存在であった。当時一年生だった原、津末、村中…といった各選手をマスコミや女の子たちはこぞって彼らを追いかけた。ミーハーの素質充分の私も躍らされた。ただ、私は「原くん」ではなくて、一年上の「森くん」、そのまた一つ上の「杉山さん」のファンであった。その後、森くんが東海大学へ進学したことにより大学野球にも夢中になった。六大学、東都大学、首都大学リーグと、神宮や川崎球場へと日参したものである。当時の「原くん」人気の凄さを知っている私としては、引退少し前のめっきり影の薄くなった原選手にどこか寂しいものを感じた。(アンチ読売の私ではあるが) というわけで、現在も東海大学系の高校を応援してしまう私である。
今は高校球児に対して、憧れやスター的存在として見ることができなくなった。私にとってスター的存在だった高校球児の最後の選手は『横浜高校』の「愛甲さん」であり、『早稲田実業』の「荒木くん」、『東邦高校』の「バンビ坂本くん」だった。「同級生の男の子」だった高校球児たちがいつのまにか「弟」になっていた。それが今では「甥っ子」というか「息子」というか。嗚呼! 歳月の恐ろしさよ。
球児たち 今では遠き過去になり わが身の歳をふと振り返る
「ロストラブ」
「ファンとしてならいいんですけど…。あんまりしてくれると他の人の手前もあるから」いい気になってあなたのことを追いかけていたら遂にこんなことを言われた。あなたが優し過ぎたから、いつでも温かく迎えてくれたから、他の人たちが私のことを冷やかしていたから、彼女気取りでいた。幾通もの手紙、誕生日には手作りのクッション、バレンタインデーにはありったけの気持ちとチョコレート、風邪で寝込んだ時には気休めのカセットテープとチューリップの花、手作りのサンドイッチまで差し入れした日もあった。そして最後のプレゼントはクリスマスの手編みのマフラー。電話も何回かかけてくれた。「中村雅俊と石川さゆりの歌が好き。聞いていてあー、終わったなという歌よりも詩がいい歌が好き」と言っていた人。私も中村雅俊の歌は好きだったから石川さゆりの歌を一所懸命に聞いて石川さゆりの歌も好きになっていた。短大の授業が終わった後にグラウンドや神宮球場へ駆けつけた。二年まではいい球を投げていたのに四年のシーズンはベンチから外されてしまった。「こんなこと言うべきことじゃないんですけど、僕には結婚すべき人がいるんです」これが最後の言葉になってしまった。一番初めの手紙を書いた時にはこんな日が訪れるなんて思ってもいなかった。どうして返事をよこしたの?「電話番号を教えてください。写真ください」と書いてきたの?年下のくせにその気にさせておいて奈落の底に突き落すなんてひどい。でもなぜか恨みなんて憎しみなんてこれっぽっちもなかった。あまりにあなたが優し過ぎたから。憎めたら、嫌いになれたらよかった。年下は好みでないはずなのに、あなたが好きだった。せめてあなたが卒業するまで見つめていたかった。あなたがスター選手ならば、こんな悲しい思いをしなくてすんだのに。だって見つめるだけで充分だったから。それ以上のことなんか望まなかった。
あとがき
先日、二人連れのおばあさんが「いくつになってもお友だちっていいわね」と話しながら歩いていた。それを傍で聞いていた私は、何だかとてもハッピーな気分になれた。
あの頃、私にも「はなわクン」や「まるおくん」、「はまじ」、「みぎわさん」に「たまちゃん」…「先生」がいた。今ではすっかりオジサン、オバサンになってしまった(?) 同級生たち。外見は変わっても、心の中には『あの頃』の気持ちをずっと持ち続けていきたい。このエッセイを『あの頃』の皆に捧げます。
想い出の引き出し Ⅱ
「ワンサイデッドラブ」
東京中央YMCAの主事だったYさんに『グレープ』のレコードを貸した数日後、「友達が借りたいと言っているので」と嘘までついて電話をした。本当はYさんに会いたい淋しい口実で、土曜日の夕方に新宿東口改札で待ち合わせの約束をした。せめてほんの少しお茶くらい一緒にと思ったのに、彼はレコードを手渡して「急いでいるから」とそれで終わり。相手の迷惑も考えずに手紙や電話。そんな時だけはやたらと積極的だった。Yさんはフランス語ができるというので、短大時代にフランス語の宿題を教えてもらおうとYさんのいる事務所を訪ねた。Yさんに「フランス語の宿題をみてください」と言ったら彼は「Tさんもフランス語ができますよ」と事務所に同席している少し年輩のT主事のほうに話を向けた。T主事は私に「Yくんに教えてもらいたいんだよね」と言ってくれたけど、何やかやとはぐらかされて、Yさんにフランス語を教えてもらうことは結局のところなかった。
人形劇サークルの作業中に手の甲を少し切ってしまい血が止まらなかったので、マーキュロクロム(赤チン)をYさんに塗ってもらった。その時の指の感触がしばらくは消えなかった。
「ワンサイデッドラブ②」
YMCA人形劇サークルの仲間だったお寺の住職Kさん。傷つくのがいやで胸の内に秘めていた片想い。その後何年か経ち、お互いすでに結婚してもう“時効”だと思い、Kさんに片想いしていたことを仲間たちに送っている『おしゃべり通信』という便りの中で何気なく告白した。その後どうということもなく、今でもお互いに季節便りのやりとりは続けている。Kさんは「太田裕美の歌は男を思っている歌ばかりで好きだ」と言っていた。私も太田裕美の歌は好きだったから趣味が同じみたいで嬉しかった。ある日、サークルのみんなで食事をした時に席がKさんの向かい合わせになり、ドキドキとした。向かいの席で食事をするのが嬉しい反面、何となく恥ずかしいような気分だった。
YMCAのサークルでは“キャンプネーム”というニックネームのようなものをメンバーそれぞれにつけて、その名で呼び合うのだが(年齢、職業などさまざまなのでお互いを呼び易いように)、Kさんの“キャンプネーム”が私の提案した「梅吉」に決まった時は嬉しかった。
偶然ではあるが、家に「うめ吉」という名の犬のぬいぐるみがある。
「『不二家』とデパート大食堂」
私たちが子どもの頃、その当時の子どもたちの外食施設と言ったら、『不二家』とデパートの大食堂であった。特に、銀座六丁目の『松坂屋』向かいと数寄屋橋交差点の『不二家』は当時の子どもたちにとって光り輝やいていた。入り口には“ペコちゃん・ポコちゃん”がいて、店への出入りの際には必ず、その人形の頭をたたくのが子どもたちのしきたりになっていた。ところで、“ポコちゃん”人形がいなくなったのはいつからだろう。今から思えば大したことのない料理だけど、当時はメニュー選びにとても迷った。食事の後のデザートも“ペコちゃんサンデー”やら“プリンアラモード”やらと目移りした。デパートの大食堂にしても、休みに家族とそこで食事をする時はワクワクしたものだった。そこはまるで夢の国。デパート大食堂の特別なメニュー、それはチキンライスの上に日の丸の小旗が立ちプリンが付き、おまけにおもちゃやお菓子まで付いたお子様ランチ。テーブルの上にはかならずお茶の入った土瓶、その周りには湯飲みが重ねて置いてあった。今ではそんな置きっぱなしのものは「何かが混入しているんじゃないだろうか」と気持ち悪がって誰も手をつけたがらないだろう。何とも哀しく寂しい世の中になったものだ。今ではほとんどが姿を消したデパートの大食堂。少しだけ大人になった生意気盛りの頃は、やたらそういう場所がダサく思えていやでしかたなかった。気取ったおしゃれなレストランがよかった。子どもの頃はみんなが大好きな場所のはずだったのに。デパートの大食堂も不二家の“ペコちゃん・ポコちゃん”も。
「趣味いろいろ」
今までにいろいろな趣味(習い事)の教室へ通った。
油絵…これは少し続いたが、自分には絵の(美術的な)才能・素質がないことがわかった。自分の描いた絵を見ては自己嫌悪に陥った。絵を描くのは好きで描きたいのだが、小学生でももっとまともな絵を描くというような、幼稚園児が描くような絵になってしまう。まして、絵画教室という所は、「初心者クラス」などと言っているのに、来ている人たちはちっとも“初心者”ではない。皆、スラスラ描いていて、上手なんだもん。
料理…『東京会舘クッキングスクール』に数年通っていた。フランス、中国、日本料理、お菓子、カクテルとあった。が、ほとんど「食べに行っている」という感じで家ではあまり役立たないものが多かった。結局、ああいうものはあくまでも「食べに行く」料理なんだ。東京会舘の料理を家でまともに作っていたら材料費と時間がかかって大変だ。ただ、メニューにフランス語で書かれている料理やお菓子の名、どういうものかは何となくわかる。それは収穫だ。東京会舘のシェフが講師で、助手の若い男(体育会系で硬派っぽくてカッコよかった)がアシストしてくれた。
その他に、『マダム・チャン』の中国料理教室にも行っていた。ここの料理は材料費・時間共、“家庭向き”のものが多かった。
人形作り…ぬいぐるみや抱き人形を作る教室。これはけっこう長く続いた。人形劇をやっていただけのことはあり、人形たちに息を吹きこみ、創造する喜びが好きなのだ。プレゼントにもできる。けれど、朗読サークルのテープ図書の吹き込みに追われ、人形作りという時間のかかることはできなくなった。
カリグラフィー…これはNY在住中に通っていたクラス。どうせ習うのなら“NYっぽいアートな”ものがいいと、これを始めた。『カリグラフィー』とは“西洋書道”で、グリーティングカードなどに書かれている花文字風のアート書体。始めたら奥が深く、楽しい。「私のカリグラフィーはNY仕込み」なのだ。ただ、今でも各王(皇)室の国賓招待状などに使われている“カパープレイト”という優雅な書体は難しくてなかなか上手く書けない。ワープロばかり使っているが、グリーティングカードはカリグラフィーの手書きにしたい。が、近頃は書くために用具を出したりと準備が億劫になり、ほとんど書いていない。
陶芸…都内の教室に十年近く通っている。その前に個人の教室に二年近く通っていたから“陶芸歴”は年月だけでは長い。NY在住中にも数ヶ月、『TKNY(NY陶芸教室)』(“DKNY”をもじった?) というクラスに通っていた。
ただ、技術がついてこない。「才能・素質がないのかな」と思ってみたりもするが、“好き(自分に合っている)”ということは否めない。陶芸はもちろん、先生たちも好きなのだ。通い始めた頃からの(好みのタイプ)I先生は、好き好き大好き。 途中から加わった二人の若い先生も、Fくんはクールでちょっと硬派でカッコいい。Mクンは笑顔がVery×2カワイイ。 つまり、焼き物作りの楽しみが“日本”くらいの大きさだとすると、先生たちに会う楽しみの大きさは“アメリカ”くらいなのだ。ただ、私は“手びねり”なので“ロクロ”とちがい、ぶ厚くて縄文土器みたいになってしまう。でもそれは「世界にたったひとつの器」
ちなみに、私の陶芸の“最終目標”は自分の骨壷(なんてね)
「あの頃のアイドル」
中学、高校の頃、アイドルと言えば“新・御三家”と呼ばれていた郷ひろみ、野口五郎、西城秀樹がA級で、伊丹幸雄、城みちる、あいざき進也などがB級だった。でも私はその頃からそういったアイドルよりも、石坂浩二、竹脇無我、志垣太郎、などといったシブい俳優が好きだった。小学校の低学年の時、山本學・大空眞弓出演の『愛と死をみつめて』を学校から帰るなり部屋に閉じこもり、タオル片手に泣きながら見ていた。その頃から山本學さんが好きだったという超オジコン。小学生の頃はG・Sブームで、ザ・タイガースやテンプターズといった長髪グループに皆キャーキャー言っていたが、私はといえば、ワイルドワンズ、ビレッジシンガーズ、パープルシャドウズといった短髪グループのほうが好みであった。
チェリッシュの「白いギター」のヒットで、白いフォークギターがたまらなく欲しかった中学生の頃。
「初恋の味はカルピスの味」
初恋の人というものはほぼ九十九%結ばれないものだから、想い出は限りなく美しく、どんな宝石よりも輝いて見えるのです。いつかどこかで再会した時、お互いに素敵になっていても二人はけっしてフリンの仲にはなれない、なってはいけないのです。だって初恋は“カルピスの味”だもんね。初恋はいつまでも美しく、あくまでもさわやかでなければいけないのです。
「ウグイス嬢経験」
短大を卒業後の一年間、『東京六大学野球連盟』というところへM大学野球部OBのコネで潜り込み、試合のある時だけ神宮球場へ行き、放送室でスコアをつけたり、汚れたボールとニューボールを交換して、放送室の金網の下にある小さな窓から控え選手に手渡すということをしていた。それだけではなく、ウグイス嬢というものまで経験してしまった。ウグイス嬢はその年、当番大学の放送研究会に在籍する女子学生が担当することになっていた。ところが、その日は連絡ミスで係の学生が遅れてきたために、その係の学生が来るまでの繋ぎを私がやることになった。試合開始前の先発メンバーと審判のアナウンスと試合が始まって1イニングの選手の呼び出しアナウンスをした。そこで係の学生が到着したために交代した。本当はもっとやりたかった。残念であった。
その時のマイクに向かって喋る快感が忘れられずに、朗読録音テープ図書の吹き込みボランティアを始めてしまったのである。
「YMCAサークルの思い出」
YMCAの『キンダーグループ』というサークルの毎年恒例行事であった、武蔵増子にある母子寮の子供たちとのサマーキャンプでは、子供たちの消灯後に行われるリーダー会では必ず酒があった。キャンプ後には日を改めて“打ち上げ”を神田の居酒屋で行った。同じくYMCAの『人形劇サークル』では一度、合宿する場所(たいていは『早稲田奉仕園』とか『富坂セミナーハウス』という所で行っていた)が取れずに、メンバーの一人がお寺の住職さんなので、彼のお寺を借りることになった。夜も更けて本堂から併設の保育園に場所を移し、そこで酒盛りをした。彼が家から日本酒の一升瓶を持ってきて、一升瓶からコップに注いで呑んだ。(何かスゴイ) 翌日、保育室が酒臭くなっていた。日曜日だからよかったけれど。
前述のキンダーグループでは、武蔵増子の母子寮を訪問した帰りの電車の中で缶ビールを二、三人で廻し呑みをしたこともあった。YMCAでボランティアをしている人はみんな真面目で聖人君子みたいに思われているかもしれないけれど、そういうことはぜんぜんない。YMCAのブランチ(事務所)のスタッフからして酒好きが多かった。私は「お酒なんて呑めない」という風に見えるようで、たいていの初対面の人は「呑めるの?!」と驚くようである。
YMCAの人形劇サークル及びキンダーグループでは、呑みに行って先に帰る時は「気をつけてね。また来週」という感じだったが、同じくYMCAの『カムレッド』というESSみたいなサークルでは、必ず誰かメンバーの男性が駅まで送ってくれた。K大学出身の人は切符まで買ってくれた。流石にK大。
YMCAの仲間とは合宿やキャンプの時でも、一つの部屋でワイワイとやっていてそのうち夜も更けるとそのままそこで雑魚寝してしまう。誰も何とも思わなかった。そんな不思議な関係が当たり前だった。
あとがき
『想い出の引き出し』続編です。こうしてみると、つくづく「記憶力がすごいなぁ」と我ながら感心しています。自分のことは結構、覚えているものなのですね。そう、忘れてしまいたい〈過去のイヤなこと〉や消してしまいたい〈あの日の一言〉までも、しっかりといつまでも……。あー、ヤダヤダ!
心はいつまでも繋がっていようね。みんな大切な友達だから。
素直な心の天使になりたい。天使のように生きてみたい。でも、天使にはなれない自分が哀しい。
「カレーパンとメロンパンの思い出」
小学一年の時だった。その日は隣の席の女の子Kさんと日直で、学級日誌を放課後までかかって書いていた。
一緒に日直だったKさんは勉強が出来て真面目で几帳面で、何事もとことんやらないと気が済まない性格で、学級日誌一つにしてもいい加減は許さず、丁寧に色鉛筆を使って絵まで描いていた。いつまでたっても職員室に持って行かないので、担任のH先生が心配して教室に見回りに来た。誰もいなくなった教室に二人残って学級日誌を丁寧に書いている様子を見て「まだやっていたのか? そんな丁寧に書かなくてもいいんだよ。これでパンでも買って食べなさい」とポケットマネーから二人にいくらかづつお金をくれた。二人は学校の裏のパン屋に駆けて行き、私は何にしようかと迷った挙げ句、Kさんが買ったカレーパンとメロンパンをその時初めて買って食べた。そのおいしかったこと! 以来、カレーパンとメロンパンが大好きになった。
「野菜の落とし物」
小学二年の頃だった。S君とM君という男の子二人と道草をしながら帰った。すると、道の真ん中に野菜がひと山置いてある。何でこんな所に野菜が置いてあるのか少し不思議に思い、三人でどうしたらよいものかあれこれと考えた末に「落とし物だから交番に届けよう」と三人で手分けして最寄りの交番に持って行った。その交番までは少し距離があったので、交番に着いた頃にはその野菜はすっかりしおれていた。でも、お巡りさんは「ありがとう」と苦笑しながら言った。私たちは「善いことをした」と満足していた。
「音楽のM先生」
小学六年の時に赴任してきた新任の音楽教師M先生は、私には絶対怒らない、とてもやさしいおにいさんみたいな 先生だった。けれど、男の子や他の女の子(それも私をいじめている子)にはかなり厳しく、注意する時はかなり恐い先生だった。M先生は私と廊下ですれちがうと、これ以上ないというほどのとろけそうな笑顔をくれた。私は、私にはやさしいM先生が好きだったけれど、私だけ怒られないというのは、何か贔屓されているみたいで、他の子のイジメに遭いそうでいやだった。そんな理由で、私がM先生に対して“おとなしいイイコ”をやめて少しばかり先生に反発して言うことをきかないコになったら、M先生は以前のようには私にニッコリしなくなった。今思うのに、「私はM先生の〈好みのタイプの女の子〉だったのかな?」なんて。M先生とは、二年ほど前から季節便りの交換をするようになった。その先生も今年還暦を迎えられる。
「S先生のこと」
小学四年の頃のこと。お弁当を持って来るのを忘れた男の子に、担任のS先生は自分の昼食用に持参したイタリアスティックパン(当時かなり流行っていた神田S軒のスナッククラッカー風の細長カリカリパン)を何本か分けてあげた。他の子も「ボクも」「私も」ということになってしまい、S先生は「それなら今度の日曜日、皆で先生の家に遊びにおいで。このパンをたくさん用意しておくから」というわけで、クラスのほぼ全員で先生のお宅に伺うことになった。日曜日、S先生の家の庭にはテーブルがしつらえてあり、奥様お手製のおにぎりやたくさんのごちそうと、皆のお目当てであるイタリアスティックパンが用意されていた。皆でおにぎりやたくさんのごちそうを食べた。もちろんスティックパンもバリバリと食べた。食事の後は近くの広場に行って、ドッジボールや鬼ごっこをして遊んだ。青空の下、皆で食べたイタリアスティックパンはとてもとてもおいしかった。
授業中のある日、先生が質問をした。「1メートルは?」生徒たちが皆で声を揃えて答えた。「100センチ!」
もう一つ先生が聞いた。「10メートルは?」生徒たちが再び声を合わせて答えた。「1000センチ(せんせんち)(先生ん家)!」
先生は「先生の家はそんなに小さくないよ(笑)」と言って皆を笑わせた。
「クラスで好きな男の子」
小学六年の頃、クラスの女の子の間で「クラスの男の子で誰が好き?」と言い合った。私も皆にせっつかれて言わざるを得なかった。ほんとはN君という子が好きだったけれど(N君は勉強ができ、けどガリ勉じゃなくカッコよくて、色浅黒い精悍なスポーツ少年だった)N君はある女の子と公認みたいになっていて言い出せず、Y君という男の子の名前を言った。Y君は優秀で児童会の会長みたいなことにはたいてい推されるという子で、真面目でやさしくて。Y君の名前を言ったのは、私をいじめる男の子が多い中、Y君は私をいじめなかったし、やさしかったからで、ほんとに好きだったわけじゃない。でもそのことがY君の耳に入ってからというもの、私に冷たくなったように思えた。
「初恋の人・家庭教師のI先生」
私の初恋。それはたぶん小学校四年の時。ぜんぜん勉強しない娘を心配して、親は家庭教師をつけることにした。ある日、祖父の知り合いの息子で、国立C大学一年のI青年が私の家庭教師としてやって来た。彼は当時の大学生としても珍しく、詰襟の学生服を着て通って来た。別に『体育会』系だったわけではなかった。
内向的で人見知りの激しい私は、なかなか彼と打ち解けることが出来ずに殆ど喋らなかった。そのくせ自分の我だけは通すというわがまま娘だったから、彼をしばしば困らせた。わがままはどんどんエスカレートしてゆき、ある日「ごめんなさい」が言えずにむくれた。ダンマリを決めこんで彼の言うことも聞かなかった。ついに彼はキレてしまい、怒って何も言わずに帰ってしまった。いつもは勉強が終わると親に声をかけてから帰って行ったものだった。その時は親に何と説明したらよいのか、もうどうしてよいのかわからず、途方に暮れた。今まで私のどんなわがままにも寛容で、やさしかった先生があんなに怒って、まさか本当に黙って帰ってしまったことに対して、哀しいやら困るやらで涙が出てきた。
彼が家庭教師として来るようになって一年ほど過ぎた頃から、近所に住んでいる、日頃からよく遊んでいた三つ違いの従兄弟が、私と一緒にわが家で勉強をするようになった。その従兄弟は小学校低学年のため、帰りが早く、一足 先にわが家に来て私が帰宅するまでの間、家庭教師の彼と遊んでいた。楽しそうに親しく話す二人を「私とはあんなに親しくしてくれないのに」と少しばかり嫉妬した。家庭教師の彼がその時なぜか無性に憎らしく思えた。ほんとは家庭教師の彼が好きだった。親しくしたかった。けれど素直になれず、わがままを言って困らせた。それはきっと彼に振り向いてもらいたいと思う気持ちの裏返しだったのかもしれない。
蛇足ではあるが、宿題の算数プリントで、私がだした答えを彼は違うと言って書きかえさせた。けれど、私の答えで合っていた。そこが出来ていれば百点だった。
「私と高校野球」
近頃の私は歳(?) のせいか、高校野球よりもプロ野球へと興味が移行しつつあり、ひと昔前のように熱中できない。とは言え、毎年この季節になると一日中、高校野球中継をつけっ放しにしている。それも甲子園の全国大会のみならず、地区予選からUHF局で見てしまうのである。
こんな私ではあるが、中学生の頃は野球というものに対して全くといって興味がなかった。私をここまで野球好きにさせたのは『東海大相模高校』の存在であった。当時一年生だった原、津末、村中…といった各選手をマスコミや女の子たちはこぞって彼らを追いかけた。ミーハーの素質充分の私も躍らされた。ただ、私は「原くん」ではなくて、一年上の「森くん」、そのまた一つ上の「杉山さん」のファンであった。その後、森くんが東海大学へ進学したことにより大学野球にも夢中になった。六大学、東都大学、首都大学リーグと、神宮や川崎球場へと日参したものである。当時の「原くん」人気の凄さを知っている私としては、引退少し前のめっきり影の薄くなった原選手にどこか寂しいものを感じた。(アンチ読売の私ではあるが) というわけで、現在も東海大学系の高校を応援してしまう私である。
今は高校球児に対して、憧れやスター的存在として見ることができなくなった。私にとってスター的存在だった高校球児の最後の選手は『横浜高校』の「愛甲さん」であり、『早稲田実業』の「荒木くん」、『東邦高校』の「バンビ坂本くん」だった。「同級生の男の子」だった高校球児たちがいつのまにか「弟」になっていた。それが今では「甥っ子」というか「息子」というか。嗚呼! 歳月の恐ろしさよ。
球児たち 今では遠き過去になり わが身の歳をふと振り返る
「ロストラブ」
「ファンとしてならいいんですけど…。あんまりしてくれると他の人の手前もあるから」いい気になってあなたのことを追いかけていたら遂にこんなことを言われた。あなたが優し過ぎたから、いつでも温かく迎えてくれたから、他の人たちが私のことを冷やかしていたから、彼女気取りでいた。幾通もの手紙、誕生日には手作りのクッション、バレンタインデーにはありったけの気持ちとチョコレート、風邪で寝込んだ時には気休めのカセットテープとチューリップの花、手作りのサンドイッチまで差し入れした日もあった。そして最後のプレゼントはクリスマスの手編みのマフラー。電話も何回かかけてくれた。「中村雅俊と石川さゆりの歌が好き。聞いていてあー、終わったなという歌よりも詩がいい歌が好き」と言っていた人。私も中村雅俊の歌は好きだったから石川さゆりの歌を一所懸命に聞いて石川さゆりの歌も好きになっていた。短大の授業が終わった後にグラウンドや神宮球場へ駆けつけた。二年まではいい球を投げていたのに四年のシーズンはベンチから外されてしまった。「こんなこと言うべきことじゃないんですけど、僕には結婚すべき人がいるんです」これが最後の言葉になってしまった。一番初めの手紙を書いた時にはこんな日が訪れるなんて思ってもいなかった。どうして返事をよこしたの?「電話番号を教えてください。写真ください」と書いてきたの?年下のくせにその気にさせておいて奈落の底に突き落すなんてひどい。でもなぜか恨みなんて憎しみなんてこれっぽっちもなかった。あまりにあなたが優し過ぎたから。憎めたら、嫌いになれたらよかった。年下は好みでないはずなのに、あなたが好きだった。せめてあなたが卒業するまで見つめていたかった。あなたがスター選手ならば、こんな悲しい思いをしなくてすんだのに。だって見つめるだけで充分だったから。それ以上のことなんか望まなかった。
あとがき
先日、二人連れのおばあさんが「いくつになってもお友だちっていいわね」と話しながら歩いていた。それを傍で聞いていた私は、何だかとてもハッピーな気分になれた。
あの頃、私にも「はなわクン」や「まるおくん」、「はまじ」、「みぎわさん」に「たまちゃん」…「先生」がいた。今ではすっかりオジサン、オバサンになってしまった(?) 同級生たち。外見は変わっても、心の中には『あの頃』の気持ちをずっと持ち続けていきたい。このエッセイを『あの頃』の皆に捧げます。
想い出の引き出し Ⅱ
「ワンサイデッドラブ」
東京中央YMCAの主事だったYさんに『グレープ』のレコードを貸した数日後、「友達が借りたいと言っているので」と嘘までついて電話をした。本当はYさんに会いたい淋しい口実で、土曜日の夕方に新宿東口改札で待ち合わせの約束をした。せめてほんの少しお茶くらい一緒にと思ったのに、彼はレコードを手渡して「急いでいるから」とそれで終わり。相手の迷惑も考えずに手紙や電話。そんな時だけはやたらと積極的だった。Yさんはフランス語ができるというので、短大時代にフランス語の宿題を教えてもらおうとYさんのいる事務所を訪ねた。Yさんに「フランス語の宿題をみてください」と言ったら彼は「Tさんもフランス語ができますよ」と事務所に同席している少し年輩のT主事のほうに話を向けた。T主事は私に「Yくんに教えてもらいたいんだよね」と言ってくれたけど、何やかやとはぐらかされて、Yさんにフランス語を教えてもらうことは結局のところなかった。
人形劇サークルの作業中に手の甲を少し切ってしまい血が止まらなかったので、マーキュロクロム(赤チン)をYさんに塗ってもらった。その時の指の感触がしばらくは消えなかった。
「ワンサイデッドラブ②」
YMCA人形劇サークルの仲間だったお寺の住職Kさん。傷つくのがいやで胸の内に秘めていた片想い。その後何年か経ち、お互いすでに結婚してもう“時効”だと思い、Kさんに片想いしていたことを仲間たちに送っている『おしゃべり通信』という便りの中で何気なく告白した。その後どうということもなく、今でもお互いに季節便りのやりとりは続けている。Kさんは「太田裕美の歌は男を思っている歌ばかりで好きだ」と言っていた。私も太田裕美の歌は好きだったから趣味が同じみたいで嬉しかった。ある日、サークルのみんなで食事をした時に席がKさんの向かい合わせになり、ドキドキとした。向かいの席で食事をするのが嬉しい反面、何となく恥ずかしいような気分だった。
YMCAのサークルでは“キャンプネーム”というニックネームのようなものをメンバーそれぞれにつけて、その名で呼び合うのだが(年齢、職業などさまざまなのでお互いを呼び易いように)、Kさんの“キャンプネーム”が私の提案した「梅吉」に決まった時は嬉しかった。
偶然ではあるが、家に「うめ吉」という名の犬のぬいぐるみがある。
「『不二家』とデパート大食堂」
私たちが子どもの頃、その当時の子どもたちの外食施設と言ったら、『不二家』とデパートの大食堂であった。特に、銀座六丁目の『松坂屋』向かいと数寄屋橋交差点の『不二家』は当時の子どもたちにとって光り輝やいていた。入り口には“ペコちゃん・ポコちゃん”がいて、店への出入りの際には必ず、その人形の頭をたたくのが子どもたちのしきたりになっていた。ところで、“ポコちゃん”人形がいなくなったのはいつからだろう。今から思えば大したことのない料理だけど、当時はメニュー選びにとても迷った。食事の後のデザートも“ペコちゃんサンデー”やら“プリンアラモード”やらと目移りした。デパートの大食堂にしても、休みに家族とそこで食事をする時はワクワクしたものだった。そこはまるで夢の国。デパート大食堂の特別なメニュー、それはチキンライスの上に日の丸の小旗が立ちプリンが付き、おまけにおもちゃやお菓子まで付いたお子様ランチ。テーブルの上にはかならずお茶の入った土瓶、その周りには湯飲みが重ねて置いてあった。今ではそんな置きっぱなしのものは「何かが混入しているんじゃないだろうか」と気持ち悪がって誰も手をつけたがらないだろう。何とも哀しく寂しい世の中になったものだ。今ではほとんどが姿を消したデパートの大食堂。少しだけ大人になった生意気盛りの頃は、やたらそういう場所がダサく思えていやでしかたなかった。気取ったおしゃれなレストランがよかった。子どもの頃はみんなが大好きな場所のはずだったのに。デパートの大食堂も不二家の“ペコちゃん・ポコちゃん”も。
「趣味いろいろ」
今までにいろいろな趣味(習い事)の教室へ通った。
油絵…これは少し続いたが、自分には絵の(美術的な)才能・素質がないことがわかった。自分の描いた絵を見ては自己嫌悪に陥った。絵を描くのは好きで描きたいのだが、小学生でももっとまともな絵を描くというような、幼稚園児が描くような絵になってしまう。まして、絵画教室という所は、「初心者クラス」などと言っているのに、来ている人たちはちっとも“初心者”ではない。皆、スラスラ描いていて、上手なんだもん。
料理…『東京会舘クッキングスクール』に数年通っていた。フランス、中国、日本料理、お菓子、カクテルとあった。が、ほとんど「食べに行っている」という感じで家ではあまり役立たないものが多かった。結局、ああいうものはあくまでも「食べに行く」料理なんだ。東京会舘の料理を家でまともに作っていたら材料費と時間がかかって大変だ。ただ、メニューにフランス語で書かれている料理やお菓子の名、どういうものかは何となくわかる。それは収穫だ。東京会舘のシェフが講師で、助手の若い男(体育会系で硬派っぽくてカッコよかった)がアシストしてくれた。
その他に、『マダム・チャン』の中国料理教室にも行っていた。ここの料理は材料費・時間共、“家庭向き”のものが多かった。
人形作り…ぬいぐるみや抱き人形を作る教室。これはけっこう長く続いた。人形劇をやっていただけのことはあり、人形たちに息を吹きこみ、創造する喜びが好きなのだ。プレゼントにもできる。けれど、朗読サークルのテープ図書の吹き込みに追われ、人形作りという時間のかかることはできなくなった。
カリグラフィー…これはNY在住中に通っていたクラス。どうせ習うのなら“NYっぽいアートな”ものがいいと、これを始めた。『カリグラフィー』とは“西洋書道”で、グリーティングカードなどに書かれている花文字風のアート書体。始めたら奥が深く、楽しい。「私のカリグラフィーはNY仕込み」なのだ。ただ、今でも各王(皇)室の国賓招待状などに使われている“カパープレイト”という優雅な書体は難しくてなかなか上手く書けない。ワープロばかり使っているが、グリーティングカードはカリグラフィーの手書きにしたい。が、近頃は書くために用具を出したりと準備が億劫になり、ほとんど書いていない。
陶芸…都内の教室に十年近く通っている。その前に個人の教室に二年近く通っていたから“陶芸歴”は年月だけでは長い。NY在住中にも数ヶ月、『TKNY(NY陶芸教室)』(“DKNY”をもじった?) というクラスに通っていた。
ただ、技術がついてこない。「才能・素質がないのかな」と思ってみたりもするが、“好き(自分に合っている)”ということは否めない。陶芸はもちろん、先生たちも好きなのだ。通い始めた頃からの(好みのタイプ)I先生は、好き好き大好き。 途中から加わった二人の若い先生も、Fくんはクールでちょっと硬派でカッコいい。Mクンは笑顔がVery×2カワイイ。 つまり、焼き物作りの楽しみが“日本”くらいの大きさだとすると、先生たちに会う楽しみの大きさは“アメリカ”くらいなのだ。ただ、私は“手びねり”なので“ロクロ”とちがい、ぶ厚くて縄文土器みたいになってしまう。でもそれは「世界にたったひとつの器」
ちなみに、私の陶芸の“最終目標”は自分の骨壷(なんてね)
「あの頃のアイドル」
中学、高校の頃、アイドルと言えば“新・御三家”と呼ばれていた郷ひろみ、野口五郎、西城秀樹がA級で、伊丹幸雄、城みちる、あいざき進也などがB級だった。でも私はその頃からそういったアイドルよりも、石坂浩二、竹脇無我、志垣太郎、などといったシブい俳優が好きだった。小学校の低学年の時、山本學・大空眞弓出演の『愛と死をみつめて』を学校から帰るなり部屋に閉じこもり、タオル片手に泣きながら見ていた。その頃から山本學さんが好きだったという超オジコン。小学生の頃はG・Sブームで、ザ・タイガースやテンプターズといった長髪グループに皆キャーキャー言っていたが、私はといえば、ワイルドワンズ、ビレッジシンガーズ、パープルシャドウズといった短髪グループのほうが好みであった。
チェリッシュの「白いギター」のヒットで、白いフォークギターがたまらなく欲しかった中学生の頃。
「初恋の味はカルピスの味」
初恋の人というものはほぼ九十九%結ばれないものだから、想い出は限りなく美しく、どんな宝石よりも輝いて見えるのです。いつかどこかで再会した時、お互いに素敵になっていても二人はけっしてフリンの仲にはなれない、なってはいけないのです。だって初恋は“カルピスの味”だもんね。初恋はいつまでも美しく、あくまでもさわやかでなければいけないのです。
「ウグイス嬢経験」
短大を卒業後の一年間、『東京六大学野球連盟』というところへM大学野球部OBのコネで潜り込み、試合のある時だけ神宮球場へ行き、放送室でスコアをつけたり、汚れたボールとニューボールを交換して、放送室の金網の下にある小さな窓から控え選手に手渡すということをしていた。それだけではなく、ウグイス嬢というものまで経験してしまった。ウグイス嬢はその年、当番大学の放送研究会に在籍する女子学生が担当することになっていた。ところが、その日は連絡ミスで係の学生が遅れてきたために、その係の学生が来るまでの繋ぎを私がやることになった。試合開始前の先発メンバーと審判のアナウンスと試合が始まって1イニングの選手の呼び出しアナウンスをした。そこで係の学生が到着したために交代した。本当はもっとやりたかった。残念であった。
その時のマイクに向かって喋る快感が忘れられずに、朗読録音テープ図書の吹き込みボランティアを始めてしまったのである。
「YMCAサークルの思い出」
YMCAの『キンダーグループ』というサークルの毎年恒例行事であった、武蔵増子にある母子寮の子供たちとのサマーキャンプでは、子供たちの消灯後に行われるリーダー会では必ず酒があった。キャンプ後には日を改めて“打ち上げ”を神田の居酒屋で行った。同じくYMCAの『人形劇サークル』では一度、合宿する場所(たいていは『早稲田奉仕園』とか『富坂セミナーハウス』という所で行っていた)が取れずに、メンバーの一人がお寺の住職さんなので、彼のお寺を借りることになった。夜も更けて本堂から併設の保育園に場所を移し、そこで酒盛りをした。彼が家から日本酒の一升瓶を持ってきて、一升瓶からコップに注いで呑んだ。(何かスゴイ) 翌日、保育室が酒臭くなっていた。日曜日だからよかったけれど。
前述のキンダーグループでは、武蔵増子の母子寮を訪問した帰りの電車の中で缶ビールを二、三人で廻し呑みをしたこともあった。YMCAでボランティアをしている人はみんな真面目で聖人君子みたいに思われているかもしれないけれど、そういうことはぜんぜんない。YMCAのブランチ(事務所)のスタッフからして酒好きが多かった。私は「お酒なんて呑めない」という風に見えるようで、たいていの初対面の人は「呑めるの?!」と驚くようである。
YMCAの人形劇サークル及びキンダーグループでは、呑みに行って先に帰る時は「気をつけてね。また来週」という感じだったが、同じくYMCAの『カムレッド』というESSみたいなサークルでは、必ず誰かメンバーの男性が駅まで送ってくれた。K大学出身の人は切符まで買ってくれた。流石にK大。
YMCAの仲間とは合宿やキャンプの時でも、一つの部屋でワイワイとやっていてそのうち夜も更けるとそのままそこで雑魚寝してしまう。誰も何とも思わなかった。そんな不思議な関係が当たり前だった。
あとがき
『想い出の引き出し』続編です。こうしてみると、つくづく「記憶力がすごいなぁ」と我ながら感心しています。自分のことは結構、覚えているものなのですね。そう、忘れてしまいたい〈過去のイヤなこと〉や消してしまいたい〈あの日の一言〉までも、しっかりといつまでも……。あー、ヤダヤダ!
心はいつまでも繋がっていようね。みんな大切な友達だから。
素直な心の天使になりたい。天使のように生きてみたい。でも、天使にはなれない自分が哀しい。