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こんばんは!中小企業診断士のあお先生こと青木公司です。
本日3つ目のブログです。
今回の大震災で津波に襲われた宮城県東松山市。
そこに僕は少年時代すんでいました。
当時は宮城県矢本町といいました。
今は亡き父が航空自衛隊だったため、その転勤で愛知県の小牧市から転勤で移り住みました。
矢本町は海が近いとのことでしたが、青木は自衛隊の官舎に住んでいて、広大な基地をはさんで向こう側に海があったため、海の近くに住んでいるという印象はありませんでした。
松島基地は日本最高のパイロット達で構成される曲芸飛行隊、ブルーインパルスが所属しており、東北エリアの超重要拠点であるため、とても大きな基地がありました。
青木の住んでいる官舎は4階建ての官舎が10連くらい(確か)あり、それ以外にも元米軍がいた時の平屋の家もあり、青木は最初、米軍の使っていた平屋の家に入り、その後、4階建ての官舎に入りました。
とにかく、子供達が多く、いくらでもある官舎の空き地で野球をやったりどろ警をやったり、Sけんをやったり、メンコをやったり、コマをやったり。
また、当時、その広大な空き地にテントを張って、そこにランプやサーチライト、毛布、漫画を持ち込んで子供達だけで泊まるのがはやっていました。
秘密基地みたいで本当に楽しかった。
30mくらいある松に登り、一番上の枝にロープをかけて、そこを基地にしたりもしてました。
そしてその広場を使いたい地元の友人達もよんでみんなで遊びました。
本当に楽しかった。
官舎を出ると目の前に石巻につながる国道か県道があるのですがその道をはさんで両サイドがすごい田園なんです。
青木はその小川でザリガニやフナを取ったりして遊びました。
そして、圧巻は夏。
夜に行くと無数の蛍がわーーーーーーーーーーーっといるのです。
夜によく、サーチライトにジュースにお菓子、スイカを持って田んぼのあぜ道を通って、あぜ道をいきます。
周りにぼーーーと光る無数の蛍の光。
今も忘れられません。
学校にはその県道を通って左に道路を曲がっていく通学路があったのですが、僕は田んぼのあぜ道を通って近道をしていくのが好きでした。
そこら中に虫がいて楽しいし、土のにおい、土の感触が好きだったのです。
イナゴが発生するとビニール袋と虫取り網をもって、ダッシュで田んぼにいきました。
イナゴを袋一杯取ると、佃煮の材料として600円くらいで売れるのです。
それでこずかいを稼ぎ、それで県道沿いにある店でペプシコーラやお菓子を買い込んで、秘密基地に隠しました。
当時、淡い少年によくある恋もしました。
クラスで一番賢こかった彼女とは2年間クラスが一緒。たしか駅の近くのタクシー会社の近くに住んでいました。
もちろん、何があったわけではありませんが、弁当を忘れた友人がいた時に、彼女に「青木くんはやさしいからきっとわけてくれるよ」といわれ、調子に乗って半分ぐらい忘れたやつにあげたりしました。
いい思い出です。
その後、また父が沖縄に転勤となり、3年あまりの僕の矢本町での生活は終わりました。
その後、矢本町は東松島市となって今に至っています。
青木は仙台市には、企業研修の講師としていくことは多いのですが、東松島市にはありませんでした。
しかし、いつか、あの美しい田園が変わっていないことを祈りつつ、いこうかなと思っていました。
今回、すさまじい津波にあった後でTVで見ました。大変ショックでした。
もちろん、津波で多くの被害者が出たのもショックでしたが、その変わり果てた後の風景からも、僕の少年時代の風景とおそらくは変わらないすばらしい田園があったと思われるからです。
悲しいですが、時間はかかるかもしれないですが、是非、もう一度素晴らしい町を作って欲しいと思います。
今まで以上の町にしていくために。
・・・・ふるさと納税しようかな。今の横浜市港北区も大好きだけど、本当につらすぎるから。
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今回の大震災で津波に襲われた宮城県東松山市。
そこに僕は少年時代すんでいました。
当時は宮城県矢本町といいました。
今は亡き父が航空自衛隊だったため、その転勤で愛知県の小牧市から転勤で移り住みました。
矢本町は海が近いとのことでしたが、青木は自衛隊の官舎に住んでいて、広大な基地をはさんで向こう側に海があったため、海の近くに住んでいるという印象はありませんでした。
松島基地は日本最高のパイロット達で構成される曲芸飛行隊、ブルーインパルスが所属しており、東北エリアの超重要拠点であるため、とても大きな基地がありました。
青木の住んでいる官舎は4階建ての官舎が10連くらい(確か)あり、それ以外にも元米軍がいた時の平屋の家もあり、青木は最初、米軍の使っていた平屋の家に入り、その後、4階建ての官舎に入りました。
とにかく、子供達が多く、いくらでもある官舎の空き地で野球をやったりどろ警をやったり、Sけんをやったり、メンコをやったり、コマをやったり。
また、当時、その広大な空き地にテントを張って、そこにランプやサーチライト、毛布、漫画を持ち込んで子供達だけで泊まるのがはやっていました。
秘密基地みたいで本当に楽しかった。
30mくらいある松に登り、一番上の枝にロープをかけて、そこを基地にしたりもしてました。
そしてその広場を使いたい地元の友人達もよんでみんなで遊びました。
本当に楽しかった。
官舎を出ると目の前に石巻につながる国道か県道があるのですがその道をはさんで両サイドがすごい田園なんです。
青木はその小川でザリガニやフナを取ったりして遊びました。
そして、圧巻は夏。
夜に行くと無数の蛍がわーーーーーーーーーーーっといるのです。
夜によく、サーチライトにジュースにお菓子、スイカを持って田んぼのあぜ道を通って、あぜ道をいきます。
周りにぼーーーと光る無数の蛍の光。
今も忘れられません。
学校にはその県道を通って左に道路を曲がっていく通学路があったのですが、僕は田んぼのあぜ道を通って近道をしていくのが好きでした。
そこら中に虫がいて楽しいし、土のにおい、土の感触が好きだったのです。
イナゴが発生するとビニール袋と虫取り網をもって、ダッシュで田んぼにいきました。
イナゴを袋一杯取ると、佃煮の材料として600円くらいで売れるのです。
それでこずかいを稼ぎ、それで県道沿いにある店でペプシコーラやお菓子を買い込んで、秘密基地に隠しました。
当時、淡い少年によくある恋もしました。
クラスで一番賢こかった彼女とは2年間クラスが一緒。たしか駅の近くのタクシー会社の近くに住んでいました。
もちろん、何があったわけではありませんが、弁当を忘れた友人がいた時に、彼女に「青木くんはやさしいからきっとわけてくれるよ」といわれ、調子に乗って半分ぐらい忘れたやつにあげたりしました。
いい思い出です。
その後、また父が沖縄に転勤となり、3年あまりの僕の矢本町での生活は終わりました。
その後、矢本町は東松島市となって今に至っています。
青木は仙台市には、企業研修の講師としていくことは多いのですが、東松島市にはありませんでした。
しかし、いつか、あの美しい田園が変わっていないことを祈りつつ、いこうかなと思っていました。
今回、すさまじい津波にあった後でTVで見ました。大変ショックでした。
もちろん、津波で多くの被害者が出たのもショックでしたが、その変わり果てた後の風景からも、僕の少年時代の風景とおそらくは変わらないすばらしい田園があったと思われるからです。
悲しいですが、時間はかかるかもしれないですが、是非、もう一度素晴らしい町を作って欲しいと思います。
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