◇ 人を教育する
人を教育する、教えるなどの事に携わる人は、自分が何故?この立場にいるのか考えた事があるのだろうか。
全てに通じる事であるが、最初の心構えは活力もあり、希望に満ちて取りかかるのであるが、やがては自分や周辺の人の事で手いっぱいになり最初の心構えが薄れる。
「持続力」という言葉がある。「継続は力なり」と言われているが、続けることにより努力が重なり、結果に結びついてくる。
成功した人を考えてみると、一変に成功した人は、おそらくいないだろうと思う。努力を積み重ね思考錯誤しながらたどり着く例が多い。
昨日、テレビを見ていたが土を使う代わりに、ゲルをシートにしたフィルム状の物で野菜作りに成功し、企業化している例を見たが、それでも10年かかったと言われている。
成功する人は直観的に「継続」すると言う意識が自然と備わっているのだろうね。何か感じるものがあり潜在意識に、漠然とした理想のようなものが、描かれているのかもしれない。
成功した物が人の為、社会の為になるのであれば達成感が一層増すのだろうね。
「持続力」に関して少し書きましたが、教師と言う仕事は今回の例で言えば、児童の事を真剣に考えていなかったように感じる。他にも受け持つ児童もいたかもしれないが、児童の記録ノートに書いてある文章を見れば、その子の深刻な信号を受け取らなければならない状態だろう。・・しかし、児童に対する教師コメントが軽すぎる。真剣に受け止めてなかったのだろう。(結果の状況としては「真理」としての説明がつきますが、現実は人間界の事なので、説明は別の機会に書きます。)
教師も大変な仕事だと思うが、全国の教師がこの事に関して、人と向き合うには・・と言う事を再確認する時期に来ているのだろう。(最近、教師の不祥事が多くなってきているので。)
何故?自分はこの立場にいるのだろうか、人を教育すると言う事はどういう事だろうかと。
それと、今回の件は教師に関してだけではなく、他の人にも当てはまる事案だと思う。自分に対して、人に対して自分だったらどうしただろうか?・・と。
◇ 気配りと共通する・・
気配り・・心配り、配慮とある。
気配りと効くと身近と考えるだろうが、危機管理と通じているのではないだろうか。
最近、日本、世界の情報が早く伝えられるようになり、あらゆるジャンルの事が聞かされる。
日本に関して、各地域から事件事故等の情報が次々聞かされる。その状況というのは、当然のことだが、事が起きてからの事案で対策が後手後手になっているのが現状である。
事が起きてからそれに対して対策を立てる、その手順でいいのだろうか?
事件、事故後に対応するエネルギーは、予防より数倍のエネルギーを使うのでは?
人間の体に例えるならば、病気後の治療は本人が大変な事は勿論、お金もかかるし医療従事者のエネルギーも大変なものである。当然、税金である医療費の出費もかさむ。
こう考えると、すべて後手後手の状況である。体に関して本人の日頃の生活態度の気配りが基本だし、事件に関しても事件に関係する人の注意態度が必要です。事故に関しても本人のちょっとした心がけで防げる事案が多いのです。
何が言いたいかと言うと、気配りと言うのは後手後手の対応ではなく、危機管理で言えば防御の方だろう。
それには置かれた立場の人(例えば、総理大臣の気配り、其々長の気配り、親の気配り等)が心配りを、現状より一歩進んだ考えを起こせば事件、事故等が現在より減るのである。(其々の長は長としての本来の使命を果たすのです。)
心配性というか少し位神経質の方が(極端な性格は論外であるが)手抜かりはないのだろう。それと同じ事で現状の状況より少し心配り(神経質)をすれば日本の状況が改善するのではないだろうか。
事件、事故後に対応する事を考えるのであれば、その事を防ぐ為、事が起こる前に事前に対応する考えを実際の行動として、前倒しすればいいのではないだろうか。・・何を言わんとしてるか、ブログを見ている人は分かりますか?
要するに、発想の転換をすればいいのです。
現在の長はこの事が理解できますかね?
詳しくは書けないのですが、この発想の転換は簡単でもあり、難しくもあります。聞けば簡単だと思うだろうし、起点(方法の考え方が分かればすべてに共通する)が分からなければ理解できないからです。