この点を明確にするためには、ブルース・スプリングスティーン& E・ストリートバンドによって1981年8月20日ロサンゼルスで行なわれた、ベトナム戦争帰還兵のためのチャリティー・コンサートについて触れない訳にはいかない。これは伝説的な The River ツアーの一環として行われた非常に感動的なコンサートであるが、御覧のように三時間を超えていて、このツアーでは時には五時間を超えるコンサートもあったというから驚きである。それは兎も角、このコンサートの貴重な音源が残されているのは、誠に行幸と言うしかない。この音源の音はあまり良くはないが、現在もネット上に陸続とアップされ続けているリバー・ツアーの音源の中では可もなく不可もなくといったレベルであるが、演奏自体はそれらの中でも屈指の出来なので、音の悪さを補って余りある録音であると言えよう。演奏の緩急、静と動の対比が実に素晴らしい。映像が残されていないのが誠に悔やまれる。
Bruce Springsteen - Full Concert, Memorial Sports Arena, Los Angeles, CA, 1981-08-20 (Audio)
私がこのコンサートに注目するのは、ブルースの音楽が変わっていく転換点を象徴するという意味で非常に重要なコンサートだからである。端的に言えばこれ以降ブルースは積極的に社会にコミットして行くようになり、その結果として、彼の作品はこれまでにはなかった広がりを持ち、社会的インパクトを持つようになって行く。その端緒となった”Vietnam Veterans ベトナム退役軍人という社会問題”において、彼が何を感じ、どのように考え、その結果どういった行動を取るに至ったのかという過程は、ブルース・スプリングスティーンという一人のロッカーの人間性を、これ以上に無い程明確且つ鮮明に語っていると私には思われる。そしてこの社会的コミットメントが作品として結実し、最初に成功を収めたのが「ボーン・イン・ザ・USA」であったことを考えれば、このコンサートの開催に至る経緯とその意義を知って置くことは、この「ボーン・イン・ザ・USA」という作品を理解する上で、引いてはブルース・スプリングスティーンというアメリカのロック・アイコンを理解する上で、必要欠くべからざるマスト・アクトであると言わなければならない、そう考える次第である。
ということで、以下、絶賛本特有の些か気になる点やおかしな翻訳文も見られるので若干手を入れてあるが、デイブ・マーシュの「グロリー・デイズ」から長い引用をする。なお私が強調したい部分は太字にしてあることを申し添えて置く。
「俺は十八の時、政治的な意見なんかろくに持っていなかった。俺の友達だってみんな同じだよ。徴兵制はごく日常茶飯事だった。誰だって行きたくないよ。他の奴が行ったっきり、返ってこないんだから。当たり前だろ。最初のバンド、ザ・キャスティールズの最初のドラマーが志願して、軍服姿でやってきて、『さあ、俺はベトナムに行くぜ』って言ってた。笑ったり、冗談を飛ばしたりしてね。だけど、それっきりだった。行って、戦死しちまった。・・・俺たちが十七、八の頃はベトナムがどこにあるかも知らなかった。ただ、行って死にたくないなっていうことだけははっきりしてた。・・・・
スプリングスティーンは、1966年のバイク事故で脳震盪をおこし、またその時足をひどくケガしたために、後方任務のみの4Fと認定された。しかし、そうはいうものの、徴兵はそうやすやすと逃れられるものではなかった。スプリングスティーンは書類にめちゃめちゃを書き、テストを受けず、徴兵を逃れるため最大の努力を払った。しかし、それでもすれすれだった。このことを彼は決して忘れなかった。・・・・
1981年になっても、スプリングスティーンの戦争に対する基本的な姿勢は変わってはいなかったし、徴兵を忌避することができなかった者に対する心づかいも持っていなかった。・・・・
ブルースは反戦運動に参加した下半身不随のロン・コ―ヴィックの回想録『七月四日に生まれて』( Born on the Fourth of July )を読み、コ―ヴィックの個人的な物語と同時に、すべてのベトナム復員兵の身にふりかかった悲劇に深く感動した。主に徴集兵である復員兵は、(公民)倫理の授業で習うような理想のために戦っているのだと信じつつ、戦闘の任務に志願していたのだ。しかし、いざジャングルに着いてみると、彼らはいつの間にか銃撃戦に巻き込まれ、結果としてサイゴンとワシントンにある腐敗した政権を維持しただけだった。帰国してはみたものの国中で蔑まされた彼らは、復員援護法(GI・ビル)にはありつけなかった。朝鮮戦争や第二次大戦の年輩の復員軍人に対処するために作られた復員軍人庁は、若くて、黒人やラテン系の場合が多い、ほとんど決まって労働者階級であり、そしてもっともながら憤っている、こういう復員軍人にあまりかかずらわっていたくなかったのだ。しかも、政府の扱いがおざなりだったとしたら、世間一般の方はただ無関心なだけだった。アメリカ国民は復員兵の事情をちっとも知りたがっていなかった。・・・・
一方、まず第一には社会の最下層出身者の復員軍人たちはありとあらゆる憂き目をみていた。精神的消耗、麻薬中毒、そして兵隊の子供に奇型を生む枯葉剤、いわゆるエージェント・オレンジの影響などなどだ。高等教育を受けられるほど裕福なアメリカ人は兵役を逃れていた。すなわち、八十年代の初期の二ケタの失業率のあおりを食って、貧しい、いや貧しい教育しか受けていなかったベトナムの復員兵は、一番見捨てられた市民だった。
復員軍人への想い絶ちがたく、彼らに関する本を読み、友人でドラマーのパート・ヘインズの思い出がいまだにふつふつとよみがえっていたブルースは彼らの力になろうと決心した。彼はベトナム復員軍人の団体を探し、どんな援助が可能なのか訊いてもらうよう、ジョン・ランドーに頼んだ。
・・・・
ランドーはVVA(べトナム・ベテランズ・オブ・アメリカ)の会長ボブ・モーラーと接触した。・・・
・・・・
1981年の時点で、モーラーとVVAはにっちもさっちも行かなくなり、立ち往生していた。政府はベトナム復員軍人に対して国際貿易収支の時と同じく”善意の無策”政策をとり続け、彼らの特殊な問題を認めようとはしなかった。・・・
・・・・・
ベトナムの復員兵にとっては町の唯一の娯楽の場所だったから、VVAの支部は急増したが、モーラーは本部を機能させるに十分な資金も、常時会報を発行するに十分な資金を集めることができなかった。
ロックはモーラーが一番頼むに値しないと考える部門だった。反戦運動とともに歩んだロックの歴史は復員軍人に対する敵意を匂わせていた。しかし、ランドーが電話し、メドウランズの公演を見に来て、その後でブルースに会ったらどうだと誘いをかけた時、モーラーはいそいそと出かけて行った。・・・
・・・・
二人はすぐにうまが合って、政治という枠組を越えた友情で結ばれたのである。二人は四十五分もしゃべり続けた。ランドーはこう言っている―
「話し始めて五分ぐらいたった時に、ブルースは彼と何かを一緒にやろうと決心したと思う」
・・・・
何度か話し合いをした後で、ブルースは九月二十日にロサンゼルスで慈善公演として最終のショーをやり、全収益はVVAと南カリフォルニアのいくつかの復員軍人援助施設に寄付することに同意した。
一方、モーラーは歌手のパット・ベネターやカントリー・ロック歌手のチャーリー・ダニエルズからも同じような協力を確保していた。ブルースのショーは完売間違いなしだったし、他のショーもそれに近かった。全部を合わせると、二十五万ドル近くが集まった。モーラーはそれ以来、繰り返しこう言っている―
「ブルースがいなかったら、またあの晩がなかったら、私たちは成功していなかったでしょう。看板をおろすことになってたでしょう」
現在、VVAは毎年、数百万ドルの予算で動き、議会の承認も得ている。それは復員軍人のための唯一の公認された、効果をあげている全国的な組織である。モーラーは、また、アメリカとベトナムの間の外交関係を再建しようとしている主要人物の一人ともなっている。
・・・・・
ロサンゼルスに到着したブルースとランドーの同僚バーバラ・カーは、地元の退役軍人のセンターで一日中過ごし、数十人の男女と面会したが、彼らの多くはまだ戦争の傷跡から癒えていなかった。車椅子の世話になっている人たちはまだいい方だった。病院の車輪付タンカに寝たきりの退役軍人や、体は何ともなくとも精神がずたずたにやられている男たちもいた。そういう人たち全員がショーを見に来ることになっていた―希望者があまりに多かったため、最終的にはロサンゼルスで行われるショー全部でチケットを手配しなければならなかったくらいだ。
ロサンゼルス・スポーツ・アリーナの公演では、ツアー・マネージャーのジョージ・トラヴィスはステージの横に体の不自由な人のために一種の特設ステージをこしらえた。慈善公演の夜、何十人という下半身麻痺、四肢麻痺の退役軍人が特設ステージに案内され、名誉ある観客となった。この特設ステージは、その晩も次の晩も、このコンサートが何のために行われているのかを、一目観ただけで明確に示していた。」
以上、このコンサートに至るまでの経緯の抜き書きであるが、勿論の事このコンサートの様子もこの本では書かれているが、幸いなことにコンサート音源自体がこうして聴けるようになったので、重要と思われるオープニングでのブルースとモーラーのスピーチと、ベトナム復員軍人の為にリスト・アップされたと思われる二つの曲、CCRの「Who'll Stop The Rain」(00:05:34~)と映画「イージー・ライダー」のテーマ曲「Ballad Of Easy rider」(02:33:35~)について述べられた部分を次に引いて置く。二つの曲の記述のそれぞれの後には、退役軍人達がどのような思いをこれらの歌に託していたのかを考える上で、参考になると思われるので拙訳を付けて置いた。以上を頭に入れて置いた上で、この音源を聞いて頂ければ、必ずやこの感動的なコンサートの意義をより深く理解することが出来るものと信ずる次第である。
「みんな、少しの間聞いてくれ。今晩俺たちがここに来たのは、ベトナム戦争で戦った男や女のためなんだ。きのう俺は幸運にも何人かの人たちと会った。でも変だったよ。俺は大勢の人たちの前に出て行くのは馴れっこのはずなのに、緊張して、どういうふうに声をかけたらいいのかちょっとどぎまぎしてしまったからなんだ・・・
まるで、暗い夜道を歩いていて、暗い路地裏で誰かがケガしてたり殴られてるのが目の端に見えても、自分には関係のないことだし、ただ家に帰りたいからといって通りすぎていくみたいなもんだ・・・
つまり、ベトナムはこの国じゅうをその暗い路地裏にしちまったんだ。もしも、その暗い路地裏を歩いて、そこに倒れている男や女の目をじっと見ることができたら、俺たちはそそくさと家に帰ることなんか決してできやしない・・・だから今がその唯一のチャンスなんだ。」
「みんな!そこにいる十八か十九のみんな・・・一度あったことはまたあるかもしれないんだ」
「だから」「言いたいのは、現場へ行って見てこなくちゃだめだってことだ。今日はここにそのやさしい一部分がある。今日ここに来られなかったけど、毎日毎日その苦しさを背負って生きている人たちが大勢いるんだ。あるいはアメリカに帰ってきたのに、死んでしまって、今日ここに来られなかった人達も大勢いる。だから君たちにはほんの数分間注目して、俺の友達の話を聞いてほしいんだ。ボブ・モーラーっていうベトナムの復員軍人だ。」
「今晩ここに来られてとても興奮しています。」「ベトナム復員軍人にとっては最高の晩です。あなたがたはベトナム復員軍人のことはあるいは聞き及んでいるかもしれませんが、それが一体どういうことなのか本当にわかっておられないでしょう。ごくごく簡単なことです。ベトナムの悲劇にまつわる大きな論争があり、大きな苦しみがあったのです。ですから、多くの人はそれを忘れようとし、それは起らなかったのだというふりをしようとしてきました。ベトナムで命を失った五万五千人のアメリカ人の家族にとってはそれでは困ります。その戦争で負傷した三十万人にとってはそれでは困るのです・・・・
しかし、今日はベトナムを取り巻いていてきた沈黙に終止符を打つ第一歩なのです。」
「今日のこのコンサートは、全国で長年にわたり一生懸命頑張ってきたすべての人たち―たとえば、ロサンゼルスの”シャッド・メシャッズ”の人たち、”退役軍人の権利センター”などの退役軍人センターのチーム・リーダーのみなさん、そしてベトナム復員軍人全員を一つに集結させる始まりなのです。そして、このことによって、きっとプログラムが立法化され、ベトナム戦争が二度とあってはいけないという教訓になると信じております」
「最後にわたしは言わねばなりません。我々が努力してきた何年もの間、業務が立ち行かなくなり、政治的リーダーたちが我々を支援してくれなくなった時、また我々の世代の中にもあった戦争に対する意見の対立を思い出す時、我々を一つに集結させ団結させたのが結局、我々の世代のシンボルであるロックン・ロールだったというのはいささか皮肉です。しかもそのロックン・ロールが、みんなの必要としていた傷を癒すプロセスを与えてくれたのです。」
「話はこのへんにして、いよいよ行こうじゃないか、さあ、ロックン・ロールの時間だ!」
「すばやく、Eストリート。バンドが位置につき、ブルースがマイクの方につかつかと歩いて行った。そして彼らはすばやくカウントをとると、ジョン・フォガティーの<Who'll Stop The Rain>を打ち鳴らした。この曲はおそらくウッド・ストックについて書かれたものだが、ベトナム復員軍人の間では国歌として使われていた。」
Long as I remember
The rain been comin' down.
Clouds of myst'ry pourin'
Confusion on the ground.
Good men through the ages,
Tryin' to find the sun;
And I wonder, Still I wonder,
Who'll stop the rain.
覚えている限り ずっと雨が降り続いている
不思議な雲から土砂降りが
地上は大混乱だ。
老いも若きも善良な人々は
太陽を探してる
僕はずっと考えている、そして今も考えている
誰がこの雨を止めるのだろうかと
I went down Virginia,
Seekin' shelter from the storm.
Caught up in the fable,
I watched the tower grow.
Five year plans and new deals,
Wrapped in golden chains.
And I wonder, Still I wonder
Who'll stop the rain.
バージニアに下りていった
嵐からの隠れ家を探して
御伽噺の世界に取り込まれ
高層ビルが林立し
5カ年計画とニュー・ディール政策で
金の鎖がキラキラ輝いている
僕はずっと考えている、そして今も考えている
誰がこの雨を止めるのだろうかと
Heard the singers playin',
How we cheered for more.
The crowd had rushed together,
Tryin' to keep warm.
Still the rain kept pourin',
Fallin' on my ears.
And I wonder, Still
I wonder Who'll stop the rain.
多くの歌手が歌うのを聞いた
何度アンコールを送ったことだろう
人々は身を寄せ合い
暖を取ろうとした
まだまだ土砂降りは続いている
僕の耳にも降りかかる
僕はずっと、ずっと考え続けてる
一体だれがこの雨を止められるのかと。
「バンドが最初のアンコールでステージに出て来た時、彼は別の音楽が流れる中でまたしゃべった。その曲はバーズの< Ballad Of Easy rider >だった。この曲もまた反体制的な目的で書かれた歌だったが、自分たち自身の歌を持たない退役軍人に好まれていた。ロジャー・マッギンとボブ・ディランのわかりやすい歌詞はほとんど何も言っていなかった。しかし、この歌はそこで知るべきすべてを物語っていたのだ。」
Ballad Of Easy rider
The river flows
It flows to the sea
Wherever that river goes
That's where I want to be
河は流れ
海へと辿り着く
河がどこへ流れて行こうと
そこが僕の行きたい場所なんだ
Flow river flow
Let your waters wash down
Take me from this road
To some other town
滔々と流れる河よ
その勢いで洗い流してくれ
俺をこの道からどこか他の町へ連れて行ってくれ
All he wanted
Was to be free
And that's the way
It turned out to be
彼がひたすら求めたものは自由になることだった
そうさ それが道しるべ
彼が求めたのものは
Flow river flow
Let your waters wash down
Take me from this road
To some other town
滔々と流れる河よ
その勢いで洗い流してくれ
俺をこの道からどこか他の町へと連れ去ってくれ
Flow river flow
Past the shaded tree
Go river, go
Go to the sea
Flow to the sea
滔々と流れる河よ
木々の陰を縫って
勢い良く流れてゆけ
海に向かって進むんだ
海に向かって流れて行け
The river flows
It flows to the sea
Wherever that river goes
That's where I want to be
河は流れ
海へと辿り着く
河がどこへ流れて行こうと
そこが僕の行きたい場所なんだ
Flow river flow
Let your waters wash down
Take me from this road
To some other town
滔々と流れる河よ
その勢いで洗い流してくれ
俺をこの道からどこか他の町へ連れて行ってくれ
ここで「グロリー・デイズ」からの引用で強調して置いた部分の言わずもがなの要約をすれば、フォーク・ロック音楽が与かって大きな力があった反ベトナム戦争運動は、アメリカ社会に大きな禍根を残したと言わなければならない。誤解の無いように念を押して置くが、私が言っているのは、ベトナム戦争の禍根ではなく、ベトナム反戦運動の禍根である。この運動の「love & peace 愛と平和」というスローガンがその光であったとするなら、その陰はベトナム退役軍人 Vietnam Veterans であったと言うことが出来る。帰国したアメリカで、精神的肉体的に傷ついていた彼らを待っていたものは、国の為に戦った英雄としての賞賛ではなく、非難や嘲笑や彼らをまるでゴミ屑のように扱う冷遇であった。「アメリカ国民は復員兵の事情をちっとも知りたがっていなかった。」そして、モーラーの「いささか皮肉です」という言葉が示す様に、フォーク・ロックはその風潮に加担さえしていたと言っても過言ではない。むしろ「反戦運動とともに歩んだロックの歴史は復員軍人に対する敵意を匂わせていた」訳である。そういう社会状況の只中において「ボーン・イン・ザ・USA」は発表されたのである。この点を踏まえて見れば、以下、再度歌詞を挙げるが、この歌がどういう歌であるのかは、私には誤解の余地はないと思われるが、どう思われるであろうか。
それにしても、この曲をボブ・モーラーはどんな思いで聴いていたのであろうか。Vietnam Veterans は、どんな思いで聴いていたのであろうか。
「Born In The U.S.A.」
Bruce Springsteen - Born in the U.S.A.
Born down in a dead man's town
The first kick I took was when I hit the ground
You end up like a dog that's been beat too much
Till you spend half your life just covering up
Born in the U.S.A., I was born in the U.S.A.
死んだも同然の生気のない町に生まれ
物心付いたときから蹴飛ばされてきた。
殴られ慣れた犬みたいに、一生を終えるしかない
身を守ることに、ただ汲々としながら。
俺はアメリカに生まれた
俺はアメリカに生まれた。
Got in a little hometown jam so they put a rifle in my hand
Sent me off to a foreign land to go and kill the yellow man
Born in the U.S.A., I was born in the U.S.A.
俺は町で小さな問題を起こした。
彼らは俺の手にライフルを握らせ
外国へ送り込んだ
黄色人種を殺すために。
俺はアメリカに生まれた
俺はアメリカに生まれた。
Come back home to the refinery
Hiring man said "Son if it was up to me"
Went down to see my V.A. man
He said "Son, don't you understand now"
故郷に戻り、精油所を訪ねて行った。
採用担当は言った、「私の一存では何とも」
退役軍人管理局へ行くと
係りの男は言った、「まだ分からんのかね」
I had a brother at Khe Sahn
Fighting off the Viet Cong
They're still there, he's all gone
He had a woman he loved in Saigon
I got a picture of him in her arms now
俺の達仲間はケ・サンでヴェトコンと闘った
彼らはまだ生きているが、あいつは死んだ
あいつの惚れた女がサイゴンにいた
彼女に抱かれたあいつの写真を今も持っている
Down in the shadow of the penitentiary
Out by the gas fires of the refinery
I'm ten years burning down the road
Nowhere to run ain't got nowhere to go
Born in the U.S.A., I'm a long gone daddy in the U.S.A.
Born in the U.S.A., I'm a cool rocking daddy in the U.S.A.
刑務所の建物の影で
精油所の燃え盛るガスの炎の近く
俺は10年間、煮えくり返る思いで生きてきた
どんづまりだ、もうどこにも行くところはない
俺はアメリカで生まれた
俺はアメリカでは存在しないも同然の人間だ
俺はアメリカで生まれた
俺はアメリカでは誰も近寄りたがらない厄介者のロック親父だ※
※ a cool rocking daddy はイケてるロック親父といった直訳も見かけるが、文脈から言って否定的な意味も含めて訳すべきであろう。coolには無愛想なという用法があり、rocking にはrocking the boat(事を荒立てる)やa cat in the room full of rocking chairs(ロッキングチェアでいっぱいの部屋に入れられた猫が、非常に神経質になっているということから、いても立ってもいられない、慌てふためいているという比喩)のニュアンスがあるように思う。要は「様々な負の感情を喚起させる」といった意味に私は解釈した。つまり、最終的にここのところは前にある
「Come back home to the refinery
Hiring man said "Son if it was up to me"
Went down to see my V.A. man
He said "Son, don't you understand now"」
という歌詞のパラフレーズだと私は解釈した訳である。そして、近くは直前の「I'm a long gone daddy」と、さらに遠くは出だしの
「Born down in a dead man's town
The first kick I took was when I hit the ground
You end up like a dog that's been beat too much
Till you spend half your life just covering up 」
とも内容的に呼応している筈である。そうはいっても上手く日本語にはならないので、ここはブルース本人に降りてきてもらって憑依して貰い、思い切り意訳することにした次第である(笑)。またここには、ブルースの暗黙の意図として、こんなになってしまったロック大好き人間のこの俺を、一体現在のロックはどう思うのか?といった問いかけがあるのではないかと言ったら、深読みに過ぎると言われるであろうか。
確か、このアルバムの売れ行きの勢いを買ってであろう、「成りきりボーン・イン・ザ・USA」なるカラオケCDが日本では発売されたが、スプリングスティーンがベトナム退役軍人に成りきって歌っていることは明らかであろう。この曲で、ブルースはベトナム退役軍人の窮状を、その煮えくり返る思いをこぶしを振り上げて歌っているのである。そのようにベトナム退役軍人に成りきるため、以前は痩せていたヤサ男が、体を鍛え体重を増強し筋肉隆々のマッチョマンに変身しさえした。後にそれを聞き及んだブラッドリー・クーパーが「アメリカン・スナイパー」のため、同じく体を鍛え体重を十八キロも増強して役に臨んだのは記憶に新しい所である、というのは勿論冗談だが、本当の所はブルース本人に聞いてみないと判らないにしても、当たらずとも遠からずではないかと私は思っている。ともあれ、これを単なる反体制ロックや反戦ロック、或は村上春樹氏の言うようにワーキング・クラスの声を代弁したロックと見るのは、いささか筋違いであろう。むしろ、それらは旧態依然たるステレオ・タイプな「love & peace 愛と平和」のフォーク・ロックの考え方や見方の延長線上でこの曲を捉えることであって、返って逆にこの歌で逆説的アイロニカルに歌われている「アメリカ」の中に内包されてしまうことになろう。これはどういうことかというと、この批判糾弾されている「アメリカ」の中には、むしろワーキング・クラスでさえもが、その全部ではないにしても、含まれることになるのだと言ったら判っていただけるであろうか。勿論、同様に反体制反戦思想のフォーク或はロック周辺のミュージシャンやファンも、その全部ではないにしてもこの中に含まれることは言うまでもない。つまり、これも「いささか皮肉」であるが、それらはこの曲に対するアメリカ賛歌という誤解を言い募りながらも、その視線の向いているベクトルが異なるために、言い換えればその視線の先に在るものが異なるために、自身この曲が批判糾弾している対象の一部となってしまっているのである。
ともあれこのアルバムは売れに売れ、アメリカ国内で1200万枚、全世界で2000万枚の売り上げを記録し、社会現象にまでなった。単なる音楽ブームに止まらず、社会的なインパクトを齎したと言って良いが、結局のところ、この異様なとも言い得るブームは、述べて来たように二段構えに階層化されている誤解と共にあったのであって、逆に言えば、そういった重層的な誤解があればこそ、あれほどのブームになりえたとも言うことが出来るのかも知れない。
考えてみると、もうかれこれ三十年以上も経つというのも感慨深いが、今回改めて「ボーン・イン・ザ・USA」をググって、この曲について書かれた文章を幾つも読んでみたが、私にはこの曲に対する旧態依然の理解は依然として何も変わっていないように思われた。それでも中には素晴らしい文章もあって、一定の留保は附くものの大いなる共感をもって読んだ文章をここで挙げておこうか。
Masterpieces Born In The USA / Bruce Springsteen
「拳を振り上げてサビを歌う姿を見た、当時中学生だった私は、これはアメリカ賛歌に違いないと思った。「Born in the USA」と歌うことで、彼はアメリカ人であることを誇りにしているのだと思って見ていた。それだけに、歌詞を読んだときのショックは大きかった。こんな曲が大ヒットし、アルバムが爆発的に売れるって、どういうことなんだろう。しかもこの曲調は、どうにも今までのスプリングスティーンの作風とは違う。彼の書く曲、メロディは、全体がひとつの物語であるかのような流れを持っていた。しかしこの歯切れの悪い曲構成は何だろう。このスプリングスティーンの作品には場違いな、変に華やかなキーボードは、曲の流れを断ち切るような変に力強いドラムスは何だろう。そして、この歌い方。自分の感じたこと、思ったことを聴き手に語りかけるその口調は、ときに感情が盛り上がって叫んだり吠えたりするようになることはあった。しかしこの怒鳴るような、吐き捨てるような歌い方。
すべてが、今までのスプリングスティーンとは違う。
この歌詞を見ていると、ある映画を思い出す。ヴェトナム戦争絡みの映画はたくさんあるが、その中でもとくに「The First Blood / ランボー」の印象と重なる。そういえば、「ランボー」も、シルヴェスター・スタローン主演の他の作品とはまったく違う独特の空気を持っている。マシンガンをばりばりぶっ放すヴァイオレンス・アクションという作りではあるが、どこにも行き場のないヴェトナム退役軍人を演じたスタローンは、他の作品では決して見せることのない重みを感じさせた。
華やかな音色で飾られた「Born In The USA」と、暴力アクションエンターテイメントとして作られた「ランボー」。どちらも「売れ線」ではあるが、その底には非常に重いテーマが流れているという点でも共通している。」
ブラボー!いや、素晴らしい!だが、残念なことに、やはりこの方もこのアルバムの主題を微妙に捕まえそこなっているようだ。シングル・カットの選曲の意図もそうだし、何よりも楽曲の理解が「Cover Me」にしたって、「Darlington County」にしたって、いや「Dancing In The Dark」「Working On The Highway」「Downbound Train」「I'm On Fire」「No Surrender」「Bobby Jean」「Glory Days」「My Hometown」総ての曲が、直接間接に「ヴェトナム退役軍人」という視点から語られていると言う理解はここには一切見られない。
「「Cover Me」は今までのスプリングスティーンにはなかったタイプのメロディラインで、ちょっとこれを第2弾シングルってのはないんじゃないの?という感は否めない。
ハードな世の中だ
そしてますますハードになっている
厳しい世の中だ
そしてますます厳しくなっている
守ってくれ
カモン、ベイビー、守ってほしい
俺を優しく守ってくれる人を捜しているんだ...
こんな感じの激しい調子のラヴソングなのだが、どうだい、この陳腐さは。そこいらの高校生にも書けそうな詞を、なぜ彼がわざわざ作品として世に出したのかがわからない。」
日本版Wikiのボーン・イン・ザ・U.S.A.を見ると「その歌詞は、アメリカ人のベトナム戦争の影響を扱ったものだったが」と説明としては隔靴掻痒、判ったようでいて判らない書き方をしているが、「ライブでの演奏とその後のバージョン」という項目があって、ブルース本人の誤解に対する試みとして、幾つかのバージョンによる試行錯誤の過程が綴られていて興味深い。ここではそれらの内の三つの異なったバージョンを挙げるが、私はニつ目の感動的な熱唱が最もこの曲に相応しいように思うが、どう思われるであろうか。最後に挙げた2005年の映像は、「エフェクターによって音が増幅されボーカルは歪められ、その演奏は不可解ではあるが耳には鋭く残った」とこれまた良く判らないコメントが付されているが、この曲の誤解に対するブルースの怒りが、殆どこの曲を破壊或は解体してしまう寸前のぎりぎりの処で辛くも成立している、危くも凄まじいパフォーマンスであると思うのは私だけであろうか。ブルースは、ゴリラの様にドンドンと足を踏み鳴らし、その振動で水差しがテーブルから落ち、粉々に砕け散っているのが見て取れる。
Springsteen - Born in the USA [Acoustic]
Vietnam Veterans remembered Born In The USA
Bruce Springsteen - Born In The USA (2005) (bullet mic)
発売から二十年も経った2005年においても、こういった新たなバージョンが更新され続けるという異常な事態の理由は、Wikiにあるように1995年から1997年の「ゴースト・オブ・トム・ジョード」ツアーでのブルース自身の発言が端的に示していると思われる。自分は曲が誤解されていることにいまだに納得しておらず、作曲者として「これを最後にしたい」と。
これはどういう事かというと、この歌をアメリカ賛歌と見る方の判り易い誤解が雲散霧消した後も、もう一つの誤解の方は執拗に付き纏って離れないまま、二十年という歳月を閲し、現在もなおそれが存続いているという事実を示していると私には思われる。ブルースの苛立ちの根底にあるのものは、ベトナム退役軍人の実情が、いやベトナムだけではなくさらにそれにアフガニスタンやイラクの退役軍人が加わり、事態は依然として変わってはいないという認識であろう。いや、むしろ一層悪化していると言うべきであろうか。
さて、ブルースの転機となった社会的なコミットメント、その批評性について的を絞って述べて来たので、いささか堅苦しく深刻な記述に傾き過ぎた嫌いがないでもないが、この点はこれ以降の彼を理解する上での分水嶺となるクリティカル・ポイントでもあるので仕方がないとも言える。先の1981年のベトナム戦争帰還兵のためのチャリティー・コンサート全編を通して聴いて頂いた方や旧知のボス・ファンには承知のことだが、ブルースの音楽はこういった楽曲に尽きる訳ではないのは勿論の事である。現在では、幸いにも彼の全盛期のライブ・パフォーマンスの映像が幾つか見られるようになったので、最後に紹介することでもってこの文章を終わりにしたいと思う。ケレン味たっぷりのロックン・ロール・ショーを堪能あれ!
Bruce Springsteen - Thunder Road
Cadillac Ranch (The River Tour, Tempe 1980)
Ramrod (The River Tour, Tempe 1980)
You Can Look (But You Better Not Touch) (The River Tour, Tempe 1980)
I Wanna Marry You (The River Tour, Tempe 1980)
Jungleland (The River Tour, Tempe 1980)
The River (The River Tour, Tempe 1980)
Bruce Springsteen - Full Concert, Memorial Sports Arena, Los Angeles, CA, 1981-08-20 (Audio)
私がこのコンサートに注目するのは、ブルースの音楽が変わっていく転換点を象徴するという意味で非常に重要なコンサートだからである。端的に言えばこれ以降ブルースは積極的に社会にコミットして行くようになり、その結果として、彼の作品はこれまでにはなかった広がりを持ち、社会的インパクトを持つようになって行く。その端緒となった”Vietnam Veterans ベトナム退役軍人という社会問題”において、彼が何を感じ、どのように考え、その結果どういった行動を取るに至ったのかという過程は、ブルース・スプリングスティーンという一人のロッカーの人間性を、これ以上に無い程明確且つ鮮明に語っていると私には思われる。そしてこの社会的コミットメントが作品として結実し、最初に成功を収めたのが「ボーン・イン・ザ・USA」であったことを考えれば、このコンサートの開催に至る経緯とその意義を知って置くことは、この「ボーン・イン・ザ・USA」という作品を理解する上で、引いてはブルース・スプリングスティーンというアメリカのロック・アイコンを理解する上で、必要欠くべからざるマスト・アクトであると言わなければならない、そう考える次第である。
ということで、以下、絶賛本特有の些か気になる点やおかしな翻訳文も見られるので若干手を入れてあるが、デイブ・マーシュの「グロリー・デイズ」から長い引用をする。なお私が強調したい部分は太字にしてあることを申し添えて置く。
「俺は十八の時、政治的な意見なんかろくに持っていなかった。俺の友達だってみんな同じだよ。徴兵制はごく日常茶飯事だった。誰だって行きたくないよ。他の奴が行ったっきり、返ってこないんだから。当たり前だろ。最初のバンド、ザ・キャスティールズの最初のドラマーが志願して、軍服姿でやってきて、『さあ、俺はベトナムに行くぜ』って言ってた。笑ったり、冗談を飛ばしたりしてね。だけど、それっきりだった。行って、戦死しちまった。・・・俺たちが十七、八の頃はベトナムがどこにあるかも知らなかった。ただ、行って死にたくないなっていうことだけははっきりしてた。・・・・
スプリングスティーンは、1966年のバイク事故で脳震盪をおこし、またその時足をひどくケガしたために、後方任務のみの4Fと認定された。しかし、そうはいうものの、徴兵はそうやすやすと逃れられるものではなかった。スプリングスティーンは書類にめちゃめちゃを書き、テストを受けず、徴兵を逃れるため最大の努力を払った。しかし、それでもすれすれだった。このことを彼は決して忘れなかった。・・・・
1981年になっても、スプリングスティーンの戦争に対する基本的な姿勢は変わってはいなかったし、徴兵を忌避することができなかった者に対する心づかいも持っていなかった。・・・・
ブルースは反戦運動に参加した下半身不随のロン・コ―ヴィックの回想録『七月四日に生まれて』( Born on the Fourth of July )を読み、コ―ヴィックの個人的な物語と同時に、すべてのベトナム復員兵の身にふりかかった悲劇に深く感動した。主に徴集兵である復員兵は、(公民)倫理の授業で習うような理想のために戦っているのだと信じつつ、戦闘の任務に志願していたのだ。しかし、いざジャングルに着いてみると、彼らはいつの間にか銃撃戦に巻き込まれ、結果としてサイゴンとワシントンにある腐敗した政権を維持しただけだった。帰国してはみたものの国中で蔑まされた彼らは、復員援護法(GI・ビル)にはありつけなかった。朝鮮戦争や第二次大戦の年輩の復員軍人に対処するために作られた復員軍人庁は、若くて、黒人やラテン系の場合が多い、ほとんど決まって労働者階級であり、そしてもっともながら憤っている、こういう復員軍人にあまりかかずらわっていたくなかったのだ。しかも、政府の扱いがおざなりだったとしたら、世間一般の方はただ無関心なだけだった。アメリカ国民は復員兵の事情をちっとも知りたがっていなかった。・・・・
一方、まず第一には社会の最下層出身者の復員軍人たちはありとあらゆる憂き目をみていた。精神的消耗、麻薬中毒、そして兵隊の子供に奇型を生む枯葉剤、いわゆるエージェント・オレンジの影響などなどだ。高等教育を受けられるほど裕福なアメリカ人は兵役を逃れていた。すなわち、八十年代の初期の二ケタの失業率のあおりを食って、貧しい、いや貧しい教育しか受けていなかったベトナムの復員兵は、一番見捨てられた市民だった。
復員軍人への想い絶ちがたく、彼らに関する本を読み、友人でドラマーのパート・ヘインズの思い出がいまだにふつふつとよみがえっていたブルースは彼らの力になろうと決心した。彼はベトナム復員軍人の団体を探し、どんな援助が可能なのか訊いてもらうよう、ジョン・ランドーに頼んだ。
・・・・
ランドーはVVA(べトナム・ベテランズ・オブ・アメリカ)の会長ボブ・モーラーと接触した。・・・
・・・・
1981年の時点で、モーラーとVVAはにっちもさっちも行かなくなり、立ち往生していた。政府はベトナム復員軍人に対して国際貿易収支の時と同じく”善意の無策”政策をとり続け、彼らの特殊な問題を認めようとはしなかった。・・・
・・・・・
ベトナムの復員兵にとっては町の唯一の娯楽の場所だったから、VVAの支部は急増したが、モーラーは本部を機能させるに十分な資金も、常時会報を発行するに十分な資金を集めることができなかった。
ロックはモーラーが一番頼むに値しないと考える部門だった。反戦運動とともに歩んだロックの歴史は復員軍人に対する敵意を匂わせていた。しかし、ランドーが電話し、メドウランズの公演を見に来て、その後でブルースに会ったらどうだと誘いをかけた時、モーラーはいそいそと出かけて行った。・・・
・・・・
二人はすぐにうまが合って、政治という枠組を越えた友情で結ばれたのである。二人は四十五分もしゃべり続けた。ランドーはこう言っている―
「話し始めて五分ぐらいたった時に、ブルースは彼と何かを一緒にやろうと決心したと思う」
・・・・
何度か話し合いをした後で、ブルースは九月二十日にロサンゼルスで慈善公演として最終のショーをやり、全収益はVVAと南カリフォルニアのいくつかの復員軍人援助施設に寄付することに同意した。
一方、モーラーは歌手のパット・ベネターやカントリー・ロック歌手のチャーリー・ダニエルズからも同じような協力を確保していた。ブルースのショーは完売間違いなしだったし、他のショーもそれに近かった。全部を合わせると、二十五万ドル近くが集まった。モーラーはそれ以来、繰り返しこう言っている―
「ブルースがいなかったら、またあの晩がなかったら、私たちは成功していなかったでしょう。看板をおろすことになってたでしょう」
現在、VVAは毎年、数百万ドルの予算で動き、議会の承認も得ている。それは復員軍人のための唯一の公認された、効果をあげている全国的な組織である。モーラーは、また、アメリカとベトナムの間の外交関係を再建しようとしている主要人物の一人ともなっている。
・・・・・
ロサンゼルスに到着したブルースとランドーの同僚バーバラ・カーは、地元の退役軍人のセンターで一日中過ごし、数十人の男女と面会したが、彼らの多くはまだ戦争の傷跡から癒えていなかった。車椅子の世話になっている人たちはまだいい方だった。病院の車輪付タンカに寝たきりの退役軍人や、体は何ともなくとも精神がずたずたにやられている男たちもいた。そういう人たち全員がショーを見に来ることになっていた―希望者があまりに多かったため、最終的にはロサンゼルスで行われるショー全部でチケットを手配しなければならなかったくらいだ。
ロサンゼルス・スポーツ・アリーナの公演では、ツアー・マネージャーのジョージ・トラヴィスはステージの横に体の不自由な人のために一種の特設ステージをこしらえた。慈善公演の夜、何十人という下半身麻痺、四肢麻痺の退役軍人が特設ステージに案内され、名誉ある観客となった。この特設ステージは、その晩も次の晩も、このコンサートが何のために行われているのかを、一目観ただけで明確に示していた。」
以上、このコンサートに至るまでの経緯の抜き書きであるが、勿論の事このコンサートの様子もこの本では書かれているが、幸いなことにコンサート音源自体がこうして聴けるようになったので、重要と思われるオープニングでのブルースとモーラーのスピーチと、ベトナム復員軍人の為にリスト・アップされたと思われる二つの曲、CCRの「Who'll Stop The Rain」(00:05:34~)と映画「イージー・ライダー」のテーマ曲「Ballad Of Easy rider」(02:33:35~)について述べられた部分を次に引いて置く。二つの曲の記述のそれぞれの後には、退役軍人達がどのような思いをこれらの歌に託していたのかを考える上で、参考になると思われるので拙訳を付けて置いた。以上を頭に入れて置いた上で、この音源を聞いて頂ければ、必ずやこの感動的なコンサートの意義をより深く理解することが出来るものと信ずる次第である。
「みんな、少しの間聞いてくれ。今晩俺たちがここに来たのは、ベトナム戦争で戦った男や女のためなんだ。きのう俺は幸運にも何人かの人たちと会った。でも変だったよ。俺は大勢の人たちの前に出て行くのは馴れっこのはずなのに、緊張して、どういうふうに声をかけたらいいのかちょっとどぎまぎしてしまったからなんだ・・・
まるで、暗い夜道を歩いていて、暗い路地裏で誰かがケガしてたり殴られてるのが目の端に見えても、自分には関係のないことだし、ただ家に帰りたいからといって通りすぎていくみたいなもんだ・・・
つまり、ベトナムはこの国じゅうをその暗い路地裏にしちまったんだ。もしも、その暗い路地裏を歩いて、そこに倒れている男や女の目をじっと見ることができたら、俺たちはそそくさと家に帰ることなんか決してできやしない・・・だから今がその唯一のチャンスなんだ。」
「みんな!そこにいる十八か十九のみんな・・・一度あったことはまたあるかもしれないんだ」
「だから」「言いたいのは、現場へ行って見てこなくちゃだめだってことだ。今日はここにそのやさしい一部分がある。今日ここに来られなかったけど、毎日毎日その苦しさを背負って生きている人たちが大勢いるんだ。あるいはアメリカに帰ってきたのに、死んでしまって、今日ここに来られなかった人達も大勢いる。だから君たちにはほんの数分間注目して、俺の友達の話を聞いてほしいんだ。ボブ・モーラーっていうベトナムの復員軍人だ。」
「今晩ここに来られてとても興奮しています。」「ベトナム復員軍人にとっては最高の晩です。あなたがたはベトナム復員軍人のことはあるいは聞き及んでいるかもしれませんが、それが一体どういうことなのか本当にわかっておられないでしょう。ごくごく簡単なことです。ベトナムの悲劇にまつわる大きな論争があり、大きな苦しみがあったのです。ですから、多くの人はそれを忘れようとし、それは起らなかったのだというふりをしようとしてきました。ベトナムで命を失った五万五千人のアメリカ人の家族にとってはそれでは困ります。その戦争で負傷した三十万人にとってはそれでは困るのです・・・・
しかし、今日はベトナムを取り巻いていてきた沈黙に終止符を打つ第一歩なのです。」
「今日のこのコンサートは、全国で長年にわたり一生懸命頑張ってきたすべての人たち―たとえば、ロサンゼルスの”シャッド・メシャッズ”の人たち、”退役軍人の権利センター”などの退役軍人センターのチーム・リーダーのみなさん、そしてベトナム復員軍人全員を一つに集結させる始まりなのです。そして、このことによって、きっとプログラムが立法化され、ベトナム戦争が二度とあってはいけないという教訓になると信じております」
「最後にわたしは言わねばなりません。我々が努力してきた何年もの間、業務が立ち行かなくなり、政治的リーダーたちが我々を支援してくれなくなった時、また我々の世代の中にもあった戦争に対する意見の対立を思い出す時、我々を一つに集結させ団結させたのが結局、我々の世代のシンボルであるロックン・ロールだったというのはいささか皮肉です。しかもそのロックン・ロールが、みんなの必要としていた傷を癒すプロセスを与えてくれたのです。」
「話はこのへんにして、いよいよ行こうじゃないか、さあ、ロックン・ロールの時間だ!」
「すばやく、Eストリート。バンドが位置につき、ブルースがマイクの方につかつかと歩いて行った。そして彼らはすばやくカウントをとると、ジョン・フォガティーの<Who'll Stop The Rain>を打ち鳴らした。この曲はおそらくウッド・ストックについて書かれたものだが、ベトナム復員軍人の間では国歌として使われていた。」
Long as I remember
The rain been comin' down.
Clouds of myst'ry pourin'
Confusion on the ground.
Good men through the ages,
Tryin' to find the sun;
And I wonder, Still I wonder,
Who'll stop the rain.
覚えている限り ずっと雨が降り続いている
不思議な雲から土砂降りが
地上は大混乱だ。
老いも若きも善良な人々は
太陽を探してる
僕はずっと考えている、そして今も考えている
誰がこの雨を止めるのだろうかと
I went down Virginia,
Seekin' shelter from the storm.
Caught up in the fable,
I watched the tower grow.
Five year plans and new deals,
Wrapped in golden chains.
And I wonder, Still I wonder
Who'll stop the rain.
バージニアに下りていった
嵐からの隠れ家を探して
御伽噺の世界に取り込まれ
高層ビルが林立し
5カ年計画とニュー・ディール政策で
金の鎖がキラキラ輝いている
僕はずっと考えている、そして今も考えている
誰がこの雨を止めるのだろうかと
Heard the singers playin',
How we cheered for more.
The crowd had rushed together,
Tryin' to keep warm.
Still the rain kept pourin',
Fallin' on my ears.
And I wonder, Still
I wonder Who'll stop the rain.
多くの歌手が歌うのを聞いた
何度アンコールを送ったことだろう
人々は身を寄せ合い
暖を取ろうとした
まだまだ土砂降りは続いている
僕の耳にも降りかかる
僕はずっと、ずっと考え続けてる
一体だれがこの雨を止められるのかと。
「バンドが最初のアンコールでステージに出て来た時、彼は別の音楽が流れる中でまたしゃべった。その曲はバーズの< Ballad Of Easy rider >だった。この曲もまた反体制的な目的で書かれた歌だったが、自分たち自身の歌を持たない退役軍人に好まれていた。ロジャー・マッギンとボブ・ディランのわかりやすい歌詞はほとんど何も言っていなかった。しかし、この歌はそこで知るべきすべてを物語っていたのだ。」
Ballad Of Easy rider
The river flows
It flows to the sea
Wherever that river goes
That's where I want to be
河は流れ
海へと辿り着く
河がどこへ流れて行こうと
そこが僕の行きたい場所なんだ
Flow river flow
Let your waters wash down
Take me from this road
To some other town
滔々と流れる河よ
その勢いで洗い流してくれ
俺をこの道からどこか他の町へ連れて行ってくれ
All he wanted
Was to be free
And that's the way
It turned out to be
彼がひたすら求めたものは自由になることだった
そうさ それが道しるべ
彼が求めたのものは
Flow river flow
Let your waters wash down
Take me from this road
To some other town
滔々と流れる河よ
その勢いで洗い流してくれ
俺をこの道からどこか他の町へと連れ去ってくれ
Flow river flow
Past the shaded tree
Go river, go
Go to the sea
Flow to the sea
滔々と流れる河よ
木々の陰を縫って
勢い良く流れてゆけ
海に向かって進むんだ
海に向かって流れて行け
The river flows
It flows to the sea
Wherever that river goes
That's where I want to be
河は流れ
海へと辿り着く
河がどこへ流れて行こうと
そこが僕の行きたい場所なんだ
Flow river flow
Let your waters wash down
Take me from this road
To some other town
滔々と流れる河よ
その勢いで洗い流してくれ
俺をこの道からどこか他の町へ連れて行ってくれ
ここで「グロリー・デイズ」からの引用で強調して置いた部分の言わずもがなの要約をすれば、フォーク・ロック音楽が与かって大きな力があった反ベトナム戦争運動は、アメリカ社会に大きな禍根を残したと言わなければならない。誤解の無いように念を押して置くが、私が言っているのは、ベトナム戦争の禍根ではなく、ベトナム反戦運動の禍根である。この運動の「love & peace 愛と平和」というスローガンがその光であったとするなら、その陰はベトナム退役軍人 Vietnam Veterans であったと言うことが出来る。帰国したアメリカで、精神的肉体的に傷ついていた彼らを待っていたものは、国の為に戦った英雄としての賞賛ではなく、非難や嘲笑や彼らをまるでゴミ屑のように扱う冷遇であった。「アメリカ国民は復員兵の事情をちっとも知りたがっていなかった。」そして、モーラーの「いささか皮肉です」という言葉が示す様に、フォーク・ロックはその風潮に加担さえしていたと言っても過言ではない。むしろ「反戦運動とともに歩んだロックの歴史は復員軍人に対する敵意を匂わせていた」訳である。そういう社会状況の只中において「ボーン・イン・ザ・USA」は発表されたのである。この点を踏まえて見れば、以下、再度歌詞を挙げるが、この歌がどういう歌であるのかは、私には誤解の余地はないと思われるが、どう思われるであろうか。
それにしても、この曲をボブ・モーラーはどんな思いで聴いていたのであろうか。Vietnam Veterans は、どんな思いで聴いていたのであろうか。
「Born In The U.S.A.」
Bruce Springsteen - Born in the U.S.A.
Born down in a dead man's town
The first kick I took was when I hit the ground
You end up like a dog that's been beat too much
Till you spend half your life just covering up
Born in the U.S.A., I was born in the U.S.A.
死んだも同然の生気のない町に生まれ
物心付いたときから蹴飛ばされてきた。
殴られ慣れた犬みたいに、一生を終えるしかない
身を守ることに、ただ汲々としながら。
俺はアメリカに生まれた
俺はアメリカに生まれた。
Got in a little hometown jam so they put a rifle in my hand
Sent me off to a foreign land to go and kill the yellow man
Born in the U.S.A., I was born in the U.S.A.
俺は町で小さな問題を起こした。
彼らは俺の手にライフルを握らせ
外国へ送り込んだ
黄色人種を殺すために。
俺はアメリカに生まれた
俺はアメリカに生まれた。
Come back home to the refinery
Hiring man said "Son if it was up to me"
Went down to see my V.A. man
He said "Son, don't you understand now"
故郷に戻り、精油所を訪ねて行った。
採用担当は言った、「私の一存では何とも」
退役軍人管理局へ行くと
係りの男は言った、「まだ分からんのかね」
I had a brother at Khe Sahn
Fighting off the Viet Cong
They're still there, he's all gone
He had a woman he loved in Saigon
I got a picture of him in her arms now
俺の達仲間はケ・サンでヴェトコンと闘った
彼らはまだ生きているが、あいつは死んだ
あいつの惚れた女がサイゴンにいた
彼女に抱かれたあいつの写真を今も持っている
Down in the shadow of the penitentiary
Out by the gas fires of the refinery
I'm ten years burning down the road
Nowhere to run ain't got nowhere to go
Born in the U.S.A., I'm a long gone daddy in the U.S.A.
Born in the U.S.A., I'm a cool rocking daddy in the U.S.A.
刑務所の建物の影で
精油所の燃え盛るガスの炎の近く
俺は10年間、煮えくり返る思いで生きてきた
どんづまりだ、もうどこにも行くところはない
俺はアメリカで生まれた
俺はアメリカでは存在しないも同然の人間だ
俺はアメリカで生まれた
俺はアメリカでは誰も近寄りたがらない厄介者のロック親父だ※
※ a cool rocking daddy はイケてるロック親父といった直訳も見かけるが、文脈から言って否定的な意味も含めて訳すべきであろう。coolには無愛想なという用法があり、rocking にはrocking the boat(事を荒立てる)やa cat in the room full of rocking chairs(ロッキングチェアでいっぱいの部屋に入れられた猫が、非常に神経質になっているということから、いても立ってもいられない、慌てふためいているという比喩)のニュアンスがあるように思う。要は「様々な負の感情を喚起させる」といった意味に私は解釈した。つまり、最終的にここのところは前にある
「Come back home to the refinery
Hiring man said "Son if it was up to me"
Went down to see my V.A. man
He said "Son, don't you understand now"」
という歌詞のパラフレーズだと私は解釈した訳である。そして、近くは直前の「I'm a long gone daddy」と、さらに遠くは出だしの
「Born down in a dead man's town
The first kick I took was when I hit the ground
You end up like a dog that's been beat too much
Till you spend half your life just covering up 」
とも内容的に呼応している筈である。そうはいっても上手く日本語にはならないので、ここはブルース本人に降りてきてもらって憑依して貰い、思い切り意訳することにした次第である(笑)。またここには、ブルースの暗黙の意図として、こんなになってしまったロック大好き人間のこの俺を、一体現在のロックはどう思うのか?といった問いかけがあるのではないかと言ったら、深読みに過ぎると言われるであろうか。
確か、このアルバムの売れ行きの勢いを買ってであろう、「成りきりボーン・イン・ザ・USA」なるカラオケCDが日本では発売されたが、スプリングスティーンがベトナム退役軍人に成りきって歌っていることは明らかであろう。この曲で、ブルースはベトナム退役軍人の窮状を、その煮えくり返る思いをこぶしを振り上げて歌っているのである。そのようにベトナム退役軍人に成りきるため、以前は痩せていたヤサ男が、体を鍛え体重を増強し筋肉隆々のマッチョマンに変身しさえした。後にそれを聞き及んだブラッドリー・クーパーが「アメリカン・スナイパー」のため、同じく体を鍛え体重を十八キロも増強して役に臨んだのは記憶に新しい所である、というのは勿論冗談だが、本当の所はブルース本人に聞いてみないと判らないにしても、当たらずとも遠からずではないかと私は思っている。ともあれ、これを単なる反体制ロックや反戦ロック、或は村上春樹氏の言うようにワーキング・クラスの声を代弁したロックと見るのは、いささか筋違いであろう。むしろ、それらは旧態依然たるステレオ・タイプな「love & peace 愛と平和」のフォーク・ロックの考え方や見方の延長線上でこの曲を捉えることであって、返って逆にこの歌で逆説的アイロニカルに歌われている「アメリカ」の中に内包されてしまうことになろう。これはどういうことかというと、この批判糾弾されている「アメリカ」の中には、むしろワーキング・クラスでさえもが、その全部ではないにしても、含まれることになるのだと言ったら判っていただけるであろうか。勿論、同様に反体制反戦思想のフォーク或はロック周辺のミュージシャンやファンも、その全部ではないにしてもこの中に含まれることは言うまでもない。つまり、これも「いささか皮肉」であるが、それらはこの曲に対するアメリカ賛歌という誤解を言い募りながらも、その視線の向いているベクトルが異なるために、言い換えればその視線の先に在るものが異なるために、自身この曲が批判糾弾している対象の一部となってしまっているのである。
ともあれこのアルバムは売れに売れ、アメリカ国内で1200万枚、全世界で2000万枚の売り上げを記録し、社会現象にまでなった。単なる音楽ブームに止まらず、社会的なインパクトを齎したと言って良いが、結局のところ、この異様なとも言い得るブームは、述べて来たように二段構えに階層化されている誤解と共にあったのであって、逆に言えば、そういった重層的な誤解があればこそ、あれほどのブームになりえたとも言うことが出来るのかも知れない。
考えてみると、もうかれこれ三十年以上も経つというのも感慨深いが、今回改めて「ボーン・イン・ザ・USA」をググって、この曲について書かれた文章を幾つも読んでみたが、私にはこの曲に対する旧態依然の理解は依然として何も変わっていないように思われた。それでも中には素晴らしい文章もあって、一定の留保は附くものの大いなる共感をもって読んだ文章をここで挙げておこうか。
Masterpieces Born In The USA / Bruce Springsteen
「拳を振り上げてサビを歌う姿を見た、当時中学生だった私は、これはアメリカ賛歌に違いないと思った。「Born in the USA」と歌うことで、彼はアメリカ人であることを誇りにしているのだと思って見ていた。それだけに、歌詞を読んだときのショックは大きかった。こんな曲が大ヒットし、アルバムが爆発的に売れるって、どういうことなんだろう。しかもこの曲調は、どうにも今までのスプリングスティーンの作風とは違う。彼の書く曲、メロディは、全体がひとつの物語であるかのような流れを持っていた。しかしこの歯切れの悪い曲構成は何だろう。このスプリングスティーンの作品には場違いな、変に華やかなキーボードは、曲の流れを断ち切るような変に力強いドラムスは何だろう。そして、この歌い方。自分の感じたこと、思ったことを聴き手に語りかけるその口調は、ときに感情が盛り上がって叫んだり吠えたりするようになることはあった。しかしこの怒鳴るような、吐き捨てるような歌い方。
すべてが、今までのスプリングスティーンとは違う。
この歌詞を見ていると、ある映画を思い出す。ヴェトナム戦争絡みの映画はたくさんあるが、その中でもとくに「The First Blood / ランボー」の印象と重なる。そういえば、「ランボー」も、シルヴェスター・スタローン主演の他の作品とはまったく違う独特の空気を持っている。マシンガンをばりばりぶっ放すヴァイオレンス・アクションという作りではあるが、どこにも行き場のないヴェトナム退役軍人を演じたスタローンは、他の作品では決して見せることのない重みを感じさせた。
華やかな音色で飾られた「Born In The USA」と、暴力アクションエンターテイメントとして作られた「ランボー」。どちらも「売れ線」ではあるが、その底には非常に重いテーマが流れているという点でも共通している。」
ブラボー!いや、素晴らしい!だが、残念なことに、やはりこの方もこのアルバムの主題を微妙に捕まえそこなっているようだ。シングル・カットの選曲の意図もそうだし、何よりも楽曲の理解が「Cover Me」にしたって、「Darlington County」にしたって、いや「Dancing In The Dark」「Working On The Highway」「Downbound Train」「I'm On Fire」「No Surrender」「Bobby Jean」「Glory Days」「My Hometown」総ての曲が、直接間接に「ヴェトナム退役軍人」という視点から語られていると言う理解はここには一切見られない。
「「Cover Me」は今までのスプリングスティーンにはなかったタイプのメロディラインで、ちょっとこれを第2弾シングルってのはないんじゃないの?という感は否めない。
ハードな世の中だ
そしてますますハードになっている
厳しい世の中だ
そしてますます厳しくなっている
守ってくれ
カモン、ベイビー、守ってほしい
俺を優しく守ってくれる人を捜しているんだ...
こんな感じの激しい調子のラヴソングなのだが、どうだい、この陳腐さは。そこいらの高校生にも書けそうな詞を、なぜ彼がわざわざ作品として世に出したのかがわからない。」
日本版Wikiのボーン・イン・ザ・U.S.A.を見ると「その歌詞は、アメリカ人のベトナム戦争の影響を扱ったものだったが」と説明としては隔靴掻痒、判ったようでいて判らない書き方をしているが、「ライブでの演奏とその後のバージョン」という項目があって、ブルース本人の誤解に対する試みとして、幾つかのバージョンによる試行錯誤の過程が綴られていて興味深い。ここではそれらの内の三つの異なったバージョンを挙げるが、私はニつ目の感動的な熱唱が最もこの曲に相応しいように思うが、どう思われるであろうか。最後に挙げた2005年の映像は、「エフェクターによって音が増幅されボーカルは歪められ、その演奏は不可解ではあるが耳には鋭く残った」とこれまた良く判らないコメントが付されているが、この曲の誤解に対するブルースの怒りが、殆どこの曲を破壊或は解体してしまう寸前のぎりぎりの処で辛くも成立している、危くも凄まじいパフォーマンスであると思うのは私だけであろうか。ブルースは、ゴリラの様にドンドンと足を踏み鳴らし、その振動で水差しがテーブルから落ち、粉々に砕け散っているのが見て取れる。
Springsteen - Born in the USA [Acoustic]
Vietnam Veterans remembered Born In The USA
Bruce Springsteen - Born In The USA (2005) (bullet mic)
発売から二十年も経った2005年においても、こういった新たなバージョンが更新され続けるという異常な事態の理由は、Wikiにあるように1995年から1997年の「ゴースト・オブ・トム・ジョード」ツアーでのブルース自身の発言が端的に示していると思われる。自分は曲が誤解されていることにいまだに納得しておらず、作曲者として「これを最後にしたい」と。
これはどういう事かというと、この歌をアメリカ賛歌と見る方の判り易い誤解が雲散霧消した後も、もう一つの誤解の方は執拗に付き纏って離れないまま、二十年という歳月を閲し、現在もなおそれが存続いているという事実を示していると私には思われる。ブルースの苛立ちの根底にあるのものは、ベトナム退役軍人の実情が、いやベトナムだけではなくさらにそれにアフガニスタンやイラクの退役軍人が加わり、事態は依然として変わってはいないという認識であろう。いや、むしろ一層悪化していると言うべきであろうか。
さて、ブルースの転機となった社会的なコミットメント、その批評性について的を絞って述べて来たので、いささか堅苦しく深刻な記述に傾き過ぎた嫌いがないでもないが、この点はこれ以降の彼を理解する上での分水嶺となるクリティカル・ポイントでもあるので仕方がないとも言える。先の1981年のベトナム戦争帰還兵のためのチャリティー・コンサート全編を通して聴いて頂いた方や旧知のボス・ファンには承知のことだが、ブルースの音楽はこういった楽曲に尽きる訳ではないのは勿論の事である。現在では、幸いにも彼の全盛期のライブ・パフォーマンスの映像が幾つか見られるようになったので、最後に紹介することでもってこの文章を終わりにしたいと思う。ケレン味たっぷりのロックン・ロール・ショーを堪能あれ!
Bruce Springsteen - Thunder Road
Cadillac Ranch (The River Tour, Tempe 1980)
Ramrod (The River Tour, Tempe 1980)
You Can Look (But You Better Not Touch) (The River Tour, Tempe 1980)
I Wanna Marry You (The River Tour, Tempe 1980)
Jungleland (The River Tour, Tempe 1980)
The River (The River Tour, Tempe 1980)