ものぐさ屁理屈研究室

誰も私に問わなければ、
私はそれを知っている。
誰か問う者に説明しようとすれば、
私はそれを知ってはいない。

続・隣の芝生

2024-09-23 12:00:00 | 投資理論
前の文章を書いてから、そういえばと、思い出した本がある。

それは、『にっぽんの商人』イザヤ・ベンダサン著である。



この本の出版は昭和50年(西暦1975年)で、これから日本がバブル景気に向かおうという時期に、当時も現在も一般通念となっている「モノづくり大国ニッポン」論に対して、「商人大国ニッポン」論を打ち出した異色の日本論である。

これはまた、なぜ日本だけがアジアの中で資本主義が高度に発達したのかという、歴史家の間で議論されているトピックに、一つの明快な答えを出した著作でもあって、ベンダサンは<日本を今日のように発展させたのは、勿論商人だけではない。そこには郷士という、非常に重要な役割を演じた忘れることのできない存在がある>とも述べていて、この<郷士>については述べられてはいないという留保を付した上で、この著作の内容を端的に述べている文章を、最終章「世界に冠たる商人大国日本」から、以下に引きたいと思うが、この文章をどのように読まれるであろうか。

このベンダサンの見地に立てば、日本の総合商社というのは、「にっぽんの商人」の現代的進化形であり、バフェットがこれまでにもなかったバルク買いをしたのは、この「にっぽんの商人」というビジネスモデルの優位性を余程確信したからであろうと考えることも出来る。

また、外から見た方が、この「にっぽんの商人」というビジネスモデルの優位性が良くわかるということかも知れない。従って、世界に冠たる「にっぽんの商人」であるから、重箱の隅をつつくトヨタへの「是正命令」の例が示す如く、その行動には、政府は下手に口を出して足を引っ張らない方が良いということにもなる訳である。


以下の言葉は、皮肉と考えないでほしい。外部から見ていると、日本とは、広い意味の商行為に従事するもの、いわば広い意味の商人だけが、国際間にあって、全く引けを取らずに大活躍をしているが、他には、何も存在せず、商人以外は全く無能な人たちの国のように見えるのである。そしてこれは戦後だけのことではなく、実は、日本が西欧に接したそのときからの実情なのである。日本は、軍事ではなく実は「商事」に関する限り、明治以来、不敗であったといってよい。そしてこの「商事」が敗北した如くに見えた場合も、実は、日本国内の他の要素、たとえば軍事が商事を妨害した場合に限られるのである。

この事情は今も変わらない。日本には国際的指導力をもつ政治家がいるわけではない。また世界の世論を指導する言論機関があるわけでもない。日本の言論機関は、国内では大きな発言力をもっているようにに見えるが、国際的には沈黙しているに等しい。また、世界的な指導力を持つ思想家がいるわけではない。外部から見ていると、日本には思想家は皆無だとしか思えない。政治においては、国会は不能率というより麻痺しているように見え、外交は拙劣の一語につき、だれもこれらを自国の模範にしようとは考えないであろう。また世界の学者をひきつける大学は存在せず、原子力の開発のような世界的な大発見・大発明をした研究機関があるわけでもなく、またその技術はほとんどが欧米から導入したもので、日本独特のものは少ない。さらに世界的な大芸術家がいるわけではない。また、世界が注目せざるを得ない膨大な資源をもっているわけでもない。勿論軍事力というべきものもない。

各人が静かに自問されればよい。一体日本に何があるので、世界は日本に注目し、日本を大国として扱い日本の動向に注意を払い、日本に学ぼうとするのかを。言うまでもなくそれは日本の経済的発展であり、それ以外には何もないのであるーこの言葉を、たとえ日本人がいかに嫌悪しようと。

そして日本の経済的発展は、原料を買入れて、下請けに加工させて、製品としてこれを販売した徳川時代の町人の行き方を、国際的規模で行うことによって、徳川時代の町人が富裕になったと同じ方法で達成されたのであった。そして日本で国際的評価に耐えうるもの、というよりむしろ高く評価されるものは、これを達成した「商人」しかないである。

そして面白いことに、この事実を一番認めたがらないのが、実は日本人なのである。


相場雑感2024.9

2024-09-15 12:00:00 | 投資雑感
色々と思うところがあるので、現時点での気づきを文章にして残して置くことにする。

まず、大きな見取り図として言っておかなければならないのは、現在の日本の株式市場というのは、属国市場であるということである。

この日本の株式市場が属国市場だというのは、売買代金比率で外国人投資家に過半数を握られていることが端的に示しているように、主導権を完全に外資に握られていると言うことである。言い換えれば完全に制空権を握られているという事であって、それにもかかわらず、例えば、金融当局はHFTは野放しであるし、225先物を上下に振っておいてから、現物を売り買いするといった手口は広く知られているのにも関わらず、数銘柄でもって日経225の数値を簡単に操作することが出来る現在の状況に対しては、算出元の日本経済新聞社は全く手を打とうとはしていない事が挙げられる。他にも空売りなぞも、個人投資家が出来ない銘柄でも、機関投資家は売ることが出来るとか、数え上げればきりがないが、要は、外資はやりたい放題であると言って良い。

こういった現状は、金融ビッグバンの帰結でもある訳だが、現在ではその最終局面である総仕上げの段階に入りつつあるように思われる。株式持ち合い解消などがその典型だが、優待などのこれまで行われてきた日本的な様々な慣行が、今後もなし崩し的に縮小・撤廃されていくことになるのは避けられないであろう。個人的には、こういった「改革」は、功罪相半ばすると考えているので、例えば株式持ち合い解消などは、特に極端な円安局面おいては、それだけ買収され易くなるとも言えるので、なんらかの買収防衛策を取らざるを得ないことにもなる道理で、この意味では、現在関を切った様に、持ち合い株解消に動いている性急とも言える動きに、危惧を覚えるのは私だけであろうか。

それは兎も角、このような現在の属国市場という見取り図の中にあって、現在の日本の株式市場を動かしている主役は何かと言えば、それはAIアルゴだと言わなければならない。一般の弱小投資家を食い物にしているだけではなく、複数のAIアルゴ同志が食い合いをしているというのが、現在の日本の株式市場であると言って良い。

例えば、世界最大の投資会社ゴールドマンサックスは、世界中で数千兆円にも上る取引をしていると言われている。勿論、GSにそれだけの現金があるはずもなく、実際には高レバレッジを掛け、オプション取引などを多用した複雑なアルゴリズムによるプログラム売買を行っている訳だ。一度に数兆円というようなポジションを建て、それによって価格を動かし、次の瞬間には決済する。その間僅か10分の1秒に満たない時間フレームで、他の投資家が数秒遅れて参入した瞬間に利確しているといった有様である。


そして、こういったGSレベルの「特級」が、ごろごろしているのが、現在の投機市場で、プログラムの組み方はそれぞれの企業秘密で判る由もないが、基本は歴史的なビッグデータをスパコンにぶち込んで、回帰分析等でもってアルゴを組み上げて、そいつを実際に動かす中でAIに学習させながら運用しているのだろうと、素人の私などは見当を付けているが、ま、そう間違ってはいないだろう。

そして、気づきというのは、このことが、今回の暴落でもって明確に示されたと思うのだ。FXをやっている人は良く知っていると思うが、今回の暴落の動きは、フラッシュ・クラッシュそのものであり、この意味で、これまでの暴落とは明らかに違う性格のクラッシュであると、私の眼には映ったのである。

従って、メディアでは、例によって過去の暴落が参照され、今回と比べてどうのこうのと言われているが、このような見方からすると、これからはこうした晴天の霹靂的暴落は常態化し、さらにその規模は加速度的に肥大化していくことになる。

この意味で、現在の日本の株式市場は、未知の新しいフェーズに突入しつつあるというのが、私の認識であり危惧である訳である。であるから、すでに異なるフェーズに入っているので、旧態依然の硬直したこれまでのパターン認識や分析では、これからは太刀打ち出来んよ、ということである。

従って、この事実から目を逸らし、向き合わないでいては、恐らく生き残ることさえ難しいのではないかと思われる。やはり、ここからは、これまで以上に危うきに遊ぶことの出来るごくごく少数の名人だけが生き残り、死遺累々をしり目に生存者利益を一手に享受することになるだろう。

ここにおいて、基本的な戦略の見直し、特にリスク・マネージメントの改定は必須事項であると考える次第である。というと、スペンサーの「適者生存」だとか、ダーウィンの「強い者が生き延びたのではない。変化に適応したものが生き延びたのだ」といった言葉が、したり顔で引用され、投資においてもオポチュニック・スタイルが、結局、最強!などといった言説がすぐに思い浮かぶが、これらは無害衛生な一般論に留まり、肝心のその「変化」がどのようなもので、どのように「適応」していくのかについては、全く触れていないのが常である。

結局、ここでも方法論としては、トレンド・フォローが有効だと私は考える。つまり、「変化」のトレンドを捕まえることが重要で、「変化」の<トレンドが出たら(当たりを引いたら)、トレンドが継続している限りホールドすること>、「変化」の<トレンドが出なかったり、トレンドが終わったらさっさと切ること>という方法論である。



とまあいったことで、日下部篤也の状況認識が、実に的を得ていると思う、今日この頃であります(笑)。

引け!引け!なんでか知らないが、特級同志が殺り合ってる。蟻んこの上で象がタップダンスを踊ってんの‼一応言っとくけど、俺たちが蟻な‼
呪術廻戦 渋谷事変 霹靂


隣の芝生

2024-09-08 00:00:00 | 投資理論
バフェットが日本の商社株を買った理由については、色々としたり顔で穿った説明がなされてきたが、どうも私には今一つピンとこないものばかりであった。以前のバフェットの日本株に対する否定的な発言から考えると、そこには、バフェットの日本株に対する見方に何らかの変化があったようにも思われるのだが、まあ、わからないものはわからないので、そのままになっていた。

ところが、つい先日、知人が教えてくれたこの2つの動画を見て、なるほどそういった考えだったのかと改めて腑に落ちた次第、従って文章にして残しておくことにした訳である。

この動画内の発言からすると、どうやらバフェットの商社株購入の背後には、日本式経営文化に対して、より評価する方向にシフトした事実があるように思われる。考えてみれば、商社というのは日本特有の企業形態であり、アメリカにもこのような業態は見られないので、このシフトには、2つ目の動画で述べられているマンガーの比較文化論的な考えに基づいた日本式政治・経済運営文化に対する高評価が裏打ちしているのではないかというのが、知人の見方である。

考えてみれば、現在のバークシャーは、毛色の違った様々な企業を擁する”一種のウルトラ超巨大総合商社”であると見る事も出来るので、この意味では、そういったバークシャー特有の多種多様な様々な企業を運営していく経営上の経験による学びが、今回の商社株購入に至った最大の理由ということになるのかも知れない。

一つ目の動画自体の趣旨は、例によってしょうもないものだが、中で引用されているバフェットの発言は、バフェットらしい非常に肯首出来る内容で、恐らくかなり正確なものであろうと思われる。この発言によって、どういった考えのもとに日本の商社株を買ったのかが、私には非常に納得がいったのである。と共に色々と考えさせられる内容でもあるけれども。

「中国の方が日本より上ですよね?」日本を無視していた中国放送、”投資の神様”ウォーレン・バフェットの一言で沈黙した理由


私(バフェット)は日本に無限の可能性を見た。多くを日本に投資するとともに、今後も日本と良好な関係を維持していきたい。
・・・・
中国人は中国があらゆる分野で完全に遅れているという事実を認めるべきだ。そうした中国の現実は、長期的で安定した価値を重視する我々投資家にとって最悪だ。

我々は慈善家ではなく起業家であり、投資が成功する可能性が高い国に投資するのは当然だ。過去において私の目に狂いはなく、そうした経験から中国より日本を選んだのだ。日本は誰が何と言おうとも、華々しい復活を遂げた国だ。戦争で荒廃した都市を現代の先端都市に変え、多方面で発展した姿を見せており、世界最高の地位を固めている。この点で日本の可能性を確信し、日本に我々のすべてを投資しようとしたのだ。

一方的で利己的な外交方針で成長した中国を、調和のとれた合理的な外交方針を持つ日本と比較するのは筋が違う。中国は国内で日本企業の製品が売れないように制限しておきながら、なぜ中国製品を日本に無差別に輸出しようとするのか?世界で中国のように一方的で利己的な外交方針を持つ国はない。中国人たちは依然として過去の考えに囚われて生きている。そうした考えを変えない限り、我々が中国に投資することは永遠にないだろう。

50年後の日本は今より成長した国になると確信している。5大商社は今後100年どころか永遠に生き残る企業だと評価して投資したのだ。


そして、もう一つの動画における故マンガーの、日米財政状況を比較する中で述べられている日本評も、日本人としてなかなかと考えさせられる内容である。

【もう一人の賢人チャーリー・マンガー】備えよ、世界の変化は加速する!これに気を付けろ!


<近代国家が大量のお金を刷ると借金が増えて株が上がる。その規模は世界的に新領域に入っている。なかでも日銀は想像を絶する金を印刷した。しかし日本はインフレを起こさず、未だに立派な文明*を維持している。政府が大量の金を印刷したにもかかわらず、最悪事態にならず、経済は25年間の停滞に止まっている。

日本が大量の金をばらまいても、文明*を維持して落ち着いていることに米国人の私は勇気づけられている。
米国も日本同様の結果になることを望んでいる。

しかし、日本が落ち着いているのは民度が高く義務を果たす文明的な人が多く、我慢して国に協力しているからだと思う。日本は単一民族の国家であり、日本人は自らにある種の誇りを持っているため、他国に比べて協力して諸問題に対処できるのだ。

それに対し、米国には多民族、多くのグループ間の対立が強い緊張状態を作っており、国の運営は非常に難しい。政府が多くの金をばら撒けば、いずれ最悪事態が発生する。例えばアルゼンチンなどの南米の国々である。我々米国人は その最悪事態に近づいている。

日本のように停滞に止まるか、もっと悲惨なことになるのか。私はそうなりたくない。

日本は過去に例がない信じられない量の金を印刷してきたが、今でも文明国家として存在している。莫大な有利子負債があるのに、利息を払わない当座預金で返済している。金利の支払いなしにマネーサプライが上がってゆくのは天国であり、政治家にとっては魅力的なことである。



ただ、この二人の日本に対する高評価というものは、日本人経営者や知識人のアメリカ式経営に対する憧れや高評価と同じで、多分に「隣の芝生は青く見える」バイアスが掛かっているように、私には思われるのも事実である。

例えば、同様の事例として、経営学で有名なドラッガーは日本の終身雇用や年功序列などの仕組みを高く評価していたし、これはあまり知られていないと思うが、バフェットの師匠と言われるフィリップ・フィッシャーも日本企業を評価基準にしていたことが挙げられる。

もう十年近く前の事であるが、私は以下のインタビューの中で語られている、この<私の物差しである「日本企業」>という一節を読んだ時、雷に打たれた如く驚き、「ああ、そうだったのか!」と目が覚めるような気がしたのを今でも覚えている。つまり、この<私の物差しである「日本企業」という凝縮された短い言葉の方が、彼自身のまわりくどい著作の総てよりも、はるかに彼の理想とする企業像を明確・端的に表していることを、一瞬で悟ったのである。

従って、これまた穿った見方をしたり顔で述べれば(笑)、このフィッシャーの考えを、バフェットは2020年になって実行に移したと見ることも出来る訳である。

Forbes【完全版】バフェットが師匠と仰ぐフィリップ・フィッシャーインタビューアーカイブ

<——あなたにとっての中核株の基準とは?
フィル・フィッシャー:まず、いずれも生産コストが低い企業ばかりです。次に、いずれも各業界で世界一か、あるい私の物差しである「日本企業」に比肩する競争力を持つ企業であるか、です。どの企業も期待できる新製品を開発しており、平均レベル以上の経営陣を有しています。>

近代の毒ー実証主義(科学主義)について

2024-09-01 00:00:00 | 空気に水を差す
なにやら最近は、「主語の大きな話」という奇妙な言い回しが目に付く。もっぱら否定的な意味合いで使われているようだが、その一方で、現在の言論空間においては、「主語の大きな話」であるにも関わらず「科学的な言説」が溢れかえっているのは、じつに現代的な景色であるように見える。さらに現在においては、この「科学的な言説」は、このように特権的な位置を与えられているだけではなく、我々の生活のあらゆる面にまで入り込んで、有形無形の制限や強制と言った形で強く影響を及ぼしてもいる。言わば、一つの権力装置として機能しているといっても良い。この権力装置としての科学的な言説」はまた、近代に始まり、徐々に政治と結びつき先鋭化して、現代においては完成形に近づきつつあると言っても何ら過言ではない。

従って、このブログの言わば裏のテーマでもあるので、この権力装置としての科学的な言説」について、さらに一つ進級を上げた見地から俯瞰して、あえてさらに一回り「主語の大きな話」をしてみようというのが、この文章の趣旨である。一言で言えば、近代の毒=権力装置としての実証主義(科学主義)批判ということである。

とこう文章にして改めて見てみると、ふむ、いや我ながら実に「主語の大きな話」ではないか、これは(笑)。

まず、この議論の切り口の建付けをざっくりと説明すれば、こういったことになろう。

人類の歴史において、近代における最も輝かしい成果としては、科学の驚異的な発達・発展が挙げられよう。それとともに、それを裏付ける思想として、実証主義思想(科学主義)が一般に広く流布し、考え方やものの見方の上で、言わばデファクト・スタンダードになったと言うことが出来る。つまり、世界中のあらゆる森羅万象は、科学によって解明できるという科学に基づいた一元論的世界観が、ここにおいて確立することになった訳である。

現在、この科学的な一元論的世界観に対して、異を唱える人は殆どいないと思われるが、人間の営為上の問題としては、広範な科学上の具体的問題についての知見や言説の細部についてその総てを知ることは、個人の能力を遥かに超えるところにまで科学は発展してしまったという事実が挙げられる。これは個々の科学者においても同様であって、自分の専門以外の分野についての知識や知見は、一般人とさほど違っている訳ではないことは言うまでもない。

従って、普通には科学的な言説が正しいといった常識や通念を持っているだけに過ぎないことは、わが身を振り返って胸に手を当てて考えてみれば、すぐに判る事である。そのため、現代生活においては、「科学的な言説」は、普通の人間にとっては、水戸黄門の印籠のごとく「へへ―」とひれ伏す他はない対象になっている。実際には科学的におかしな言説、極論すればたとえフェイクであったとしても、学識経験者がしたり顔で述べれば、そのトピックに関して科学的に正確な知識や知見が無いと反論することはまずもって不可能なので、結果的に押し切られてしまうことになるのが普通である。それどころか、常識に照らしておかしいと思って異を唱えれば、非科学的な悪質なデマとして排斥され、断罪されかねないというのが実情である。

原理的に言えば、科学的な仮説をも含む実証主義(科学主義)的言説というのは、文字通り主義=イデオロギーであって厳密に限定された科学的事実としての言説とは明確に区別されなければならないのだが、科学の発達・発展に伴って、専門分野の多岐化・多様化と分野個々の深堀り・先鋭化によって、この境界がどんどん曖昧になって来ているというのが実情である。そして、その傾向は時間の経過とともにますます先鋭化していると言わなければならない。

従って、この近代が生んだ実証主義イデオロギーという毒に対抗する解毒方法としては、取り分けマスコミに出てくる学識経験者の述べる、一見「科学的な言説」については、一度は疑ってみるべきだということになる。現在では、ググれば幾らでも調べられるのだから。

ま、ある意味、これはしんどい作業ではあるけれども、昔から言われている功罪相半ばというのは何事にも付きもので、科学についても原子爆弾が良い例で、その成果の良いとこ取りだけで済まそうなどというのは、実に虫のいい話であって、まずもって虫のいい話通有のしっぺ返しが待っているのは間違いないと断言して差し支えない。廻りまわってしっぺ返しが、必ずやってくるという事例に事欠かないのが、人類の歴史なのだから。



そして、こういった意味合いで「科学的な言説」が、最近のマスコミで盛んに取り上げられている特徴的な事例を幾つか挙げれば、コロナ・パンデミックに関する様々な科学的な言説、SDGSの基になっている地球温暖化に関する科学的な言説、そして南海トラフプレート説などの地震に関する科学的な言説が挙げられよう。現在、政府はこれらの「科学的な言説」に基づいて、多大の予算を計上して施策を行っているという点でも、これらは重要な議案だと言わなければならないだろう。

まず、一つ目のコロナ・パンデミックに関しては、ここで議論を蒸し返す気はないが、最近は潮目がだいぶ変わって来たのを感じるのは私だけではないだろう。ワクチン被害がNHKで取り上げられ、お笑い番組でおかしなコロナ対策がネタにされたりと、オールド・メディアの手のひら返しが、目に付くようになってきた。その意味でも注目は、年内に予定されている一変申請レプリコン・ワクチンが、実際に実施されるのかどうかで、厚労省の内部でも揉めているという話も聞くが、実際のところは判らない。まあ、個人的には、時間が掛かるかもしれないが、ワクチン被害が薬害認定されるのは、時間の問題だと考えていることに変わりはないけれども。

そして、二つ目の地球温暖化の原因が二酸化酸素排出量の増加によるという科学的な言説に関する基礎論文が科学的に論証に耐え得ないものであるということは、ググれば判ることであるし、ある程度広く認知されて来ていると思われるので、議論は省いて、ここでは、あるいは知らない人も多いと思うので、三つ目の地震に関する科学的な言説である南海トラフ説やプレート説についても、学術的に根本的な反論がなされているという事実を、以下に紹介して置きたいと思うのである。


まず、南海トラフ地震に関する科学的な言説については、東京大学名誉教授の地震学者ロバート・ゲラー氏を筆頭に、根本的な批判がなされている。

まあ、ここ何十年かに日本で起こった大きな地震が、政府の出しているハザードマップから見れば、皆「想定外」だったことを考えれば(ハザードマップというよりハズレマップ?©ロバート・ゲラー)、南海トラフ説というのは、ショック・ドクトリンとしてコロナ・パンデミックと全く同型であることが判ろうというものである。

「予知なんて出来るはずない」ハザードマップではわからない本当の危険性は?(ロバート・ゲラー、高荷智也、村上建治郎、目黒公郎)TheUPDATE


ゲラー東大名誉教授が地震予知批判 「南海地震は神話」

X→Robert Geller; ロバート・ゲラー



福島原発事故は果たして「想定外」だったのか? 浜岡原発の地震発生確率84%の信ぴょう性は? 地震予知が当たらない本当の理由、打ち出の小槌と化している東海地震、日本の防災をダメにしている元凶など、地震学研究一筋35年の東大現役教授が語る、知らないと損をする大震災と原発事故の危ない真実。



また、この古舘伊知郎氏の動画も、予算獲得のための学会内政治にかなり踏み込んでいて、とても判り易い。

【日向灘地震】南海トラフ巨大地震発生確率の信憑性に疑問。これまでの地震とこれからの備え。


古舘氏が動画の中で触れている小沢記者の著作。


発生確率70~80%→実は20%!?
地震は日本のどこで起きてもおかしくない。 なのに、南海トラフ地震ばかりが確率の高さの算出で 「えこひいき」されている? 「科学ジャーナリスト賞」受賞の新聞連載を書籍化‼
私が南海トラフ地震の確率が「水増し」されていることを初めて 知ったのは2018年。それまで科学的根拠に基づき算出されている と思っていた確率が、いい加減な根拠をもとに政治的な決められ 方をしていたことに、唖然とした。 また、取材をしていくと、防災予算獲得の都合などから、南海ト ラフ地震が「えこひいき」されて確率が高く示されるあまり、全国の他の地域の確率が低くとらえられて油断が生じ、むしろ被害 を拡大させる要因になっている実態も見えてきた——。 (まえがきより)
西日本から東日本の太平洋側を中心に、大きな被害が予想される「南海ト ラフ地震」。この地震がこれから30年以内に起きる確率を、政府は70%~ 80%と予測する。この数値の出し方に疑問を持つ記者が、その数字を決定 した会議の議事録や予測の根拠となる室津港の水深を記した古文書など を探し出し、南海トラフの確率の出し方が「えこひいき」されている真実 を浮き彫りにするノンフィクション。



さらにまた、この地震に関する科学的な言説南海トラフ地震対策だけでなく、原発再稼働不許可の論拠にもなっている。最近初めて不許可の裁定がなされた福井県の敦賀原発2号機再稼働案件問題については、再稼働を目指す日本原電側が直下に活断層がないことを証明するさまざまな根拠を示したのに対し、→原子炉の真下にある断層が活断層であることを否定できない>ので<稼働の前提となる規制基準に適合しないという原子力規制委員会側の説明がなされている。原子力規制委員会のメンバーには石渡明という地質学の専門家の名前が見えるが、要は<活断層であることを否定できない>もし活断層であれば、科学的に地震が起きる可能性が高い原発再稼働不許可というなんとも???な悪魔の証明的たらればロジックである。

ただ、私がここで問題にしたいのは、日本原電側も原子力規制委員会側も、どちらも「活断層による地震発生という因果関係説」を前提にしているが、この前提自体に疑義があるという点である。

つまり、両者ともにこの「活断層による地震発生という因果関係説」に立っているがために→<直下の活断層の有無が焦点となっていた>訳であるが、この「活断層による地震という因果関係説」自体、「プレート説」を前提にしているのであって、この大前提である大本の「プレート説」自体が根本的に批判されているのである。

従って、これはそもそも地震発生のメカニズムをどう考えるかのかという、ちゃぶ台返し的な議論になる訳であるが、活断層・プレート説に対しては、「熱移送説」による根本的な批判があることを指摘したい訳である。


そのプレート説に対し、「熱移送説」を取る藤和彦氏(経済産業研究所主席研究員)が、根本的に異を唱えている動画及び書籍(地震学者角田史雄氏との共著)をここで紹介して置こう。

藤氏が述べているように、昔は「南海トラフ地震」とは言わず「南海大地震」と言っていたが、これが「東南海大地震」を経て「南海トラフ地震」へと段々と大規模化してきたのは、不安を煽る「ショック・ドクトリン」の先鋭化手法そのものであると私の眼には映るのであるが、どう思われるであろうか。

経産官僚が暴露 「南海トラフ地震利権」の真相


特番「南海トラフM9地震は起きない! ~プレート説は根拠なし、熱移送説で地震のメカニズムを解き明かす~」ゲスト:経済産業研究所主席研究員 藤和彦氏「ザイム真理教は7割の国民が信用し、プレート真理教は100%が信用している





2016年熊本地震、2018年北海道胆振東部地震
2024年能登半島地震……東日本大震災以降、
なぜ大地震は南海トラフ以外で起きるのか。
「熱移送説」で地震発生のメカニズムを解き明かす。

プレートの枚数は現在も確定しておらず、プレートが衝突したり沈み込んだりするとされている場所から2000㎞以上も離れた中国内陸で起きた四川大地震は説明できません。地震の発生原因は、地球内部の熱移送であり、大地震発生前には必ずその周辺で熱移送と火山性群発地震が起きています。プレート説に基づいて地震予知研究をしているのは日本だけ。活断層が動いて直下地震が起きると思っているのも日本だけ。ほとんど信仰と言っていいプレート説を真剣に見直す時期が来ていると思います。(本書「おわりに」より)




平和なときの平和論

2024-08-31 11:00:00 | 言葉・ことば・言葉
現代日本では平和論が盛んである。しかし、平和なときに平和を唱えるのに勇気はいらない、誰にだってできることである。新聞は勇気があるようにおだてるが、なに読者に媚びているのである。勇気は戦争になってから唱えるほうにいる。言えば袋叩きにされる。うしろに手が回る、牢屋に入れられる。このとき袋叩きにするのは、ほかでもないあの平和なときに平和論を唱えた者どもである。>―山本夏彦



 

暴落はトレンド、トレンドはフレンド 13

2024-08-25 07:00:00 | トレンド・フォロー
今回の調整は、225・topix共に月足で見るとなかなかとエグいピンバーになっている。やはり4万円奪還となりそうである。

225月足

topix月足


さて、まだトレードは終わってはいないが、この後は5日移動平均線を割ったらエグジットする最終工程だけなので、少し早いが再現してみよう。



6月26日 図のようにレンジを、出来高を伴って上に抜けたのでエントリー。0-10

7月2日 上値の目処は前の高値だが、早め早めにツナギ売りを入れて利益を確定していく算段である。酒田新値5本目なので、2-8

7月9日 酒田新値7本目、出来高を伴って吹いたので、ここでスクウェアにする。第一工程完了。5-5

7月12日 大きく下げて、陰線で5日移動平均線を割ったので、買いを外し売りを増やしていく。7-3

7月18日 大きく下げる。25日移動平均線を下に抜けるかに注目。10-0

7月25日 結局25日・50日・75日・100日移動平均線を難なく抜けて大きくギャップ・ダウン。そろそろ戻りがありそうだし、出来高が突出して大きいので、一旦リバウンドすると判断、半分を利確。日柄は10日目なので、底打ちにはまだ早く、買いは入れない。5-0

7月31日 5日移動平均線が水平になり、長い陽線で上に抜けたのでヘッジを入れる。5-2

8月1日 翌日、直ぐに5日移動平均線を陰線で下に抜けたので、ヘッジを外す。7-0

8月5日 300日移動平均線も突破し、長い陰線。この2日間の下げは凄まじい。出来高も前回の底打ち時よりも大きく底打ちを示唆しているが、日柄が17日とまだ早いので半分の4を利確するに留め、買いはまだ入れないで置く。例によって残りの3に、この日の高値21725+1の21726にストップを入れて置く。

8月6日 あらら、上髭にストップが引っ掛かり、0-0。やれやれ。しかし、ここは「我事に於て後悔せず」である。

8月7日 長い陽線。出来高も最大で、終値で8月5日から2割(普通は1割が目安)逆行しているので明らかに底打ちと思われるが、日柄は19日目なのでちと早い。日足が5日移動平均線に掛かってきているが、5日移動平均線の傾きがまだ急なので、エントリーは見送って、様子見。

8月9日 陰線だが、下髭で5日移動平均線に支えられている形になっていて、実体部分が5日移動平均線の上に出たので、ここでエントリー。0-2

8月13日 週明け、ギャップ・アップして陽線。5日移動平均線もV字回復で相当に強い。暴落時にこのように5日移動平均線が鋭角のV字になるのは珍しく、こういう時は得てして「行ってこい」の場合が多い。つまり、2番底の可能性は殆どないと見てよい。0-4

8月14日 下髭が長い十字線。強いが「乗せ」はあまり増やさないで置くのが鉄則なので、ここで打ち止め。0-5

ということで、現在は述べたように5日移動平均線を割らない限りホールドして、上昇について行くだけの状態になっている。今回の暴落については円キャリーの巻き戻しだとか、植田ショックだとか、都知事剥離骨折ショック(嘘、笑)だとか、色々と言われているが、私に言わせるとそれらは皆後講釈で、<利巧な奴はたんと反省してみるがいいじゃないか>と小林秀雄に倣って言いたくもなる。

改めてリバモアの言葉の凄さを見せつけられた暴落であったと思う。ま、ポジション・トークですけどね。

株価を動かす要因が何か、多大の時間をかけて答えを見つけようとするのは愚かである。株価が変動する姿にのみ意識を集中させよ。変動の理由に気をとられてはならない。>(ジェシー・リバモア

終戦記念日に考える 3 ー 「終戦」記念日の意味するもの

2024-08-18 00:00:00 | やまとごころ、からごころ
終戦記念日」をググってみると、大体こういった同じような内容の文章がヒットする。曰く、第二次世界大戦「終戦日」の認識は国によって異なっているとして、ロシア、アメリカ、中国などの諸外国の日付が参照されるのだが、これらの文章にはある重要な視点が欠落しているのが、お判りだろうか。

Wikipedia終戦の日

日本人だけが8月15日を「終戦日」とする謎


それは、この戦争に勝ったか負けたかと言う視点で、「戦勝記念日」と「終戦記念日」とでは、その意味合いが全く異なると言わなければならない。つまり、こういった文章で書かれている<第二次世界大戦終結の日の認識>という見方は、この「戦争における勝者と敗者=戦勝国と敗戦国と言う本質的な差異を覆い隠し、日付の差異という別の差異への論点ずらしになっているということである。

そもそも、「戦勝記念日」というのは、勝利を記念するという意味で、至極当然の記念日であって、多くの国で設けられているのも良くわかる道理だが、恐らく「終戦記念日」なる摩訶不思議な記念日が存在するのは、わが国だけであろう。この摩訶不思議さは、「終戦」という言葉を「敗戦」と言い換えてみればすぐにわかることで、よく自虐史観などと言われるが、さすがに自虐史観であっても「敗戦記念日」はあり得ないだろう。

この私の感ずる「終戦記念日」に対する違和感を、表立って表明した識者や知識人を、残念ながら私は知らないのだが、このように、この”論点ずらし”が、全く意識されていないという点で、それだけ根は深いと思わざるを得ないとも言える訳である。

そしてまた逆に、多くの国にあって、わが国にない記念日がある。それは「独立記念日」で、この二つの相補的な事実ー「終戦記念日」の存在と「独立記念日」の不在・欠落は、戦後における日本人の、表立って意識されてはいない考え方の特異性を先鋭且つ顕著に表しているのではないかと私は考えているのだが、それがこの文章を書いている理由でもある訳である。

日本の「独立記念日」というと、普通に考えれば、1952年(昭和27年)にサンフランシスコ平和条約を締結した4月28日ということになろう。知らない人も多いと思うが、→ようやくにして2013年(平成25年)になって、第2次安倍内閣が4月28日を「主権回復の日」として定めたが、「記念日」ないし「国民の祝日」ではないため、カレンダーには載ってはいない。これら事実としての行動様式から考えると、「主権回復の日」(=「独立記念日」)よりも、「終戦記念日」の方が重要だと我々日本人は考えていることになると言えよう。

では、この「終戦記念日」の体現している思想、見方や考え方とは、一体なんなのであろうか。

そのことは、8月15日という日付に端的に表れていると言えよう。日本の「敗戦」が決まったのは、前日のポツダム宣言受諾8月14日である事実から考えれば、日本人にとってはポツダム宣言受諾よりも記念日とすべき、重要なある歴史的な事件が8月15日に起こったということである。その重要なある歴史的な事件とは、何を隠そう「玉音放送」で、この8月15日に、我々日本人は「敗戦」を「終戦」として受け入れたということある。

つまり、「終戦記念日というのは、「敗戦」=戦に敗れた日ではなくて、日本国民が「敗戦」を「終戦」として受け入れ、納得した日として記念する日なのだと言うことが出来る。言い換えると、戦後の我々日本人にとって、記念日として今後未来永劫に渡って記念していく日としては、ポツダム宣言受諾の日でもなく、サンフランシスコ平和条約締結の日でもなく、玉音放送の日こそが、そして玉音放送の日だけが、それに相応しいと考えていると言うことである。

なぜこのような事になっているのか。その背後にある、表立っては意識されてはいない思想、見方や考え方については、日本の歴史的・文化的な深い理解に基づいた洞察が要請されると考えられるが、ここで私見を述べてみたい。


結論を先ず述べれば、この背後にあるものは、「やれやれやっと終わった」という安堵の気持ちではないかと私は考えている。つまり、前にも書いたが、日本は明治・大正と無理をして「軍国主義」へと舵を切ってきたのだが、やっとその無理難題から解放されたということである。制度的に見れば、江戸時代の朝廷・幕府二極体制から、明治になって国際情勢による圧力に対抗するために、相当な無理をして現人神である天皇(=朝廷)一極体制にもっていったのだが、敗戦によってこの無理難題から解放されたと言うことである。この意味で、戦後の象徴天皇・代議制民主主義という二極体制は、江戸時代の朝廷・幕府という二極体制へと、言わば先祖返りしたと見ることが出来る訳である。

このことは、なんせ江戸時代は三百年も続いたのであるから、江戸時代に培われた我々日本人の考え方や見方は、たかだか文明開化による近代化や、その帰結である近代戦争に敗れたぐらいでは変わりはしなかったとも言えよう。この意味では、戦後の昭和・平成の日本は、戦前の明治・大正の日本を飛び越して、文化的・精神史的には、江戸時代に地続きで繋がっているということになる。従って、戦後の日本社会は表向きは近代民主主義国家の体裁をとっているが、実際には江戸時代的秩序としての「世間」として弾力的に運用されているということでもある。「近代社会という建前」と「世間という本音」の矛盾や軋轢を内包しながら。



そして、この安堵はまた、勿論一部には反発もあったが、占領軍に対する日本国民の熱烈な歓迎ぶりに表れていると思われる。その歓迎ぶりは占領軍というよりもまるで解放軍といった有様で、そのことは異様なとも言える当時のマッカーサー人気からも伺える。何とマッカーサーに全国の日本国民から、数十万通の結婚の申し込みや娘の婿にといった手紙が殺到したというから凄まじい。これだけではないだろうが、こういった様々な進駐軍に対する日本人の態度が、マッカーサーの眼にどう映ったのかは、<科学、美術、宗教、文化などの発展の上から見て、アングロ・サクソン民族が45歳の壮年に達しているとすれば、(敗戦国である)ドイツ人はそれとほぼ同年齢である。しかし、日本人は生徒の段階で、まだ12歳の少年である>という後年の発言から窺い知ることが出来る。

ただ、私がこのことを指摘するのは、「玉音放送の日を境にして、日本人の考え方が、反米から親米へ、「鬼畜英米」から「ギブ・ミー・チョコレート」へと、一変した事実に注目したいからである。

このように日本人は、8月15日に、言わば「心を入れ替えて出直した」訳だが、この変わり身の鮮やかさは、アメリカが予期していたような、亡命政府樹立による地下レジスタンス運動などの動きも全く見られず、アメリカにとってみれば、言わば拍子抜けしたといった格好で、アメリカ進駐軍は歴史上最も寛容な占領軍であったなどと評価する向きもあるが、それはこういった日本側のある意味では卑屈とも言い得る従順な態度を抜きにしては、片手落ちの評価だと言わなければならないだろう。

そして、様々な多くの歴史書をこれまで読んできたが、この日本人の豹変ぶりを指摘し考察した著述家は、私の知る限り山本七平だけである。この点で、現在良く知られている司馬遼太郎史観半藤一利史観などに対して、歴史に対する洞察力という点で、山本七平史観は一つも二つも頭抜けていると言っても良いと思う。

そして、その山本七平の著作で最も名高く、最も読まれている著作は『空気の研究』であろうが、またこれほど理解されていない著作も珍しいのではないかとも思う。



それはこの本が言及される場合は、殆どと言って良い程前半の部分のみあって、肝心な後半の「研究」の部分は、これまた全くと言って良い程言及されないからである。要は、ほとんどの読者は日常生活に感じている、上手くは言語化出来ない同調圧力の存在を、明確に言語化して説明・指摘されれば、それだけで言わばお腹一杯、それ以後は咀嚼できず、消化不良を起こしてしまうといった事のようなのだ。山本は「空体語」と「実体語」という彼一流の概念を使って説明しているが、山本が「実体語」として「空気」を語っているのにも関わらず、「空体語」として理解・消費されて、多くの読者を引き付けているというのは、逆にそれだけ「空気」の強固さを証明していることになってしまっていると言わなければならない。ここでもまた「名声とは誤解の異名である」というテーゼを証明する結果になっているのは、皮肉な巡りあわせである。やれやれ。

これは、山本独特の語法やプレゼンの流儀、さらには「山本学」の全体像を理解した上でないとなかなかと理解しにくいという点にもあると思われるが、この意味で少し前に「山本学」の全体像のアウトラインを掴むのに格好の著作が復刊されたので、ここで紹介しておくのも良いだろう。小室直樹によって、山本独特の語法やプレゼンの流儀の灰汁が中和されて、すこぶるリーダブルな著作になっているからだ。

日本教の社会学


それはともかく、山本はこの同じ日本人の豹変パターンを、尊王攘夷から開国文明開化へと舵を切った明治維新にも見ているが、この『空気の研究』の中で、先の「空体語」と「実体語」の天秤モデルとして説明している。詳しくは同書を参照されたいが、「空体語」と「実体語」でバランスを取っていた天秤が、バランスが取れなくなるとひっくり返ってしまい、一挙に反転してしまうことになるという動的なモデルを提示している。

これまでに述べたようにそれが敗戦時に反米から親米へという形で現れ、戦後が始まった訳だが、最近はまたこのバランスが危うくなってきているように見受けられる。これまで「ギブ・ミー・チョコレート=親米保守が本流だったのが揺らぎだして、「鬼畜米英=反米保守の言説が顕在化して来ているのはその表れであろう。


さて、現在「終戦記念日」に広く恒例行事として、靖国神社参拝が行われているのは承知の事実だが、私の眼から見るとこれもまた摩訶不思議な行動に映る。例えば、その趣旨からいえば、「主権回復の日」(=「独立記念日」)である4月28日の方が相応しいのではないかと思うのだが、どうやら参拝者達は「終戦記念日」自体にも、「終戦記念日」に靖国神社参拝をするという点にも、何ら違和感を感じていないように見える。

この靖国神社参拝については。その裏付けとなっている「保守主義思想」ともども、次に考えてみたいと思う。




ラリー・ウィリアムズのエピソード

2024-08-12 17:00:00 | 人の行く 裏に道あり 花の山
負けるトレーダーは彼自身を変えたいと思ってはいない。それは勝てるトレーダーがやることなんだ。ーエド・スィコータ


先日、株をやっている若い友人(STF氏の講演会に行った御仁である)に用事があって会った際、最近、STF氏について書いたブログの文章のアクセスが異様に増えているという話題を振ったところ、「ああ、それはたぶんこの動画のせいですよ」と、その場でタブレットを出して、松井証券の宣伝番組にSTF氏が出演した動画を見せてくれた。




観終わって、「STF氏も罪作りだなあ」とそのあと少し批判的なことを喋ったのだが、例によって、話がかみ合わない。

STFさんが昔書いていたブログでは、自分はファンダメンタル派だと言っていますよ

だから罪作りなんだよ

ということで、株の才能とプレゼンの才能は別だという話を、ラリー・ウィリアムズのエピソードやら→宇多田ヒカルの例まで持ち出して、色々と小一時間ほど説明したのだが、結局、怪訝な顔をされて終ったという顛末。やれやれ。

そしてその夜、この友人から、URLだけが記載されている短いメールが送られてきた。クリックして、今頃になってアクセスが急増した本当の理由を知った訳だが、なるほどねえ。コピーライター顔負けの名キャッチ・コピーで、ここまで理解してくれれば、文章を書いた甲斐があったというものだが、一方で果たしてどれだけの人が二行目のの意味を理解したであろうかとも思う。まあ、甘く見積もって、数パーセントといったところだろうか。やれやれ。





で、結局のところ、私がSTF氏のプレゼンが罪作りだというのは、地動説というコンテンツを天動説のマナーでプレゼンするからである。言い換えると、テクニカル的な考え方を、ファンダ的な考え方の文法に則った語法でもって説明するからに他ならない。この意味合いで、いささか辛口の言い方をすればボケのプレゼンだからで、従って、私としてはどうしてもツッコミを入れざるを得ないということになる訳である。

この事は先に挙げた、ラリー・ウィリアムズの書いているエピソードの例が判り易いと思うので、最後に紹介しておこう。最初にこのエピソードを読んだ時は、飲んでいたコーヒーを吹き出してしまい、結局パソコンのキーボードを買い替える羽目に陥ったという、私にとっては、いわくつきのエピソードでもある。


先週末、フロリダでセミナーを講演していたジェイク・バーンスタインは、こんな興味深い話を披露してくれた。

何年か前、ジェイクがある証券会社の顧客の集まりで講演した時のことである。顧客達は主に牧場主や農場経営者、数人のトレーダーも混じっていた。講演が終わると、一人だけトレーディングで成果を上げている顧客がいて、その人に会ってみないかと誘われたのである。その顧客は、特に頭脳明晰というわけではないが、トレーディングでは必ず儲けているという話だった。

この農夫とジェイクはとても話のウマが合ったようで、老農夫はジェイクに自分がどんな取引システムを使っているのか知りたいか、と言った。「もちろん」とジェイクは述べ、「どんな手法なのか、ぜひ拝見したいですね」と答えた。そこで老農夫は、ポーク・ベリーのチャートを開き、糸のついた振り子を取り出した。チャートの上に振り子をかざすと、彼はジェイクに言った。

「このページの上で、振り子が上下に振れたら買い、横に振れたら売りなんだよ。ジェイク、見てしまったね、俺のシステムを」

この話を引き気味に聞いていたジェイクは、しばしの間考えて、尋ねた。

「それだけですか? 他に何もありませんか?」

「えーと・・・」とこの老農夫は口ごもり、答えた。

「もう一つあるけど、あんまり意味はないと思うね。その日の終わりで損をしていたら、そのトレードは仕切ることにしているんだ」



暴落はトレンド、トレンドはフレンド 12

2024-08-06 07:00:00 | トレンド・フォロー
今回の暴落について、したり顔で暴落の原因がどうとか、暴落の責任犯捜しとか、例によってマスコミやSNSが騒がしいが、今更のように市場というのは戦場であると思った次第。

今回は引用だけ。小林秀雄の言葉


今日の様な批評時代になりますと、人々は自分の思い出さえ、批評意識によって、滅茶滅茶にしているのであります。戦に破れた事が、うまく思い出せないのである。その代り、過去の批判だとか清算だとかいう事が、盛んに言われる。これは思い出す事ではない。批判とか清算とかの名の下に、要するに過去は別様であり得たであろうという風に過去を扱っているのです。
・・・・
 戦の日の自分は、今日の平和時の同じ自分だ。二度と生きてみる事は、決して出来ぬ命の持続がある筈である。無智は、知ってみれば幻であったか。誤りは、正してみれば無意味であったか。実に子供らしい考えである。軽薄な進歩主義を生む、かような考えは、私達がその日その日を取返しがつかず生きているという事に関する、大事な或る内的感覚の欠如から来ているのであります。
>(『私の人生観』


宮本武蔵の「独行道」のなかの一条に「我事に於て後悔せず」という言葉がある。これは勿論一つのパラドックスでありまして、自分はつねに慎重に正しく行動して来たから、世人の様に後悔などはせぬという様な浅薄な意味ではない。今日の言葉で申せば、自己批判だとか自己清算だとかいうものは、皆嘘の皮であると、武蔵は言っているのだ。そんな方法では、真に自己を知る事は出来ない、そういう小賢しい方法は、むしろ自己欺瞞に導かれる道だと言えよう、そういう意味合いがあると私は思う。
・・・・
 昨日の事を後悔したければ、後悔するがよい、いずれ今日の事を後悔しなければならぬ明日がやって来るだろう。その日その日が自己批判に暮れる様な道を何処まで歩いても、批判する主体の姿に出会う事はない。別な道がきっとあるのだ、自分という本体に出会う道があるのだ、後悔などというお目出度い手段で、自分をごまかさぬと決心してみろ、そういう確信を武蔵は語っているのである。
・・・・
 それは、今日まで自分が生きて来たことについて、その掛け替えのない命の持続感というものを持て、という事になるでしょう。そこに行為の極意があるのであって、後悔など、先き立っても立たなくても大した事ではない、そういう極意に通じなければ、事前の予想も事後の反省も、影と戯れる様なものだ、とこの達人は言うのであります。行為は別々だが、それに賭けた命はいつも同じだ、その同じ姿を行為の緊張感の裡に悟得する、かくの如きが、あのパラドックスの語る武蔵の自己認識なのだと考えます。
>(『同』


僕は政治的には無智な一国民として事変に処した。黙って処した。それについて今は何の後悔もしていない。大事変が終った時には、必ず若しかくかくだったら事変は起らなかったろう、事変はこんな風にはならなかったろうという議論が起る。必然というものに対する人間の復讐だ。はかない復讐だ。この大戦争は一部の人達の無智と野心とから起ったか、それさえなければ、起らなかったか。どうも僕にはそんなお目出度い歴史観は持てないよ。僕は歴史の必然性というものをもっと恐しいものと考えている。僕は無智だから反省なぞしない。利巧な奴はたんと反省してみるがいいじゃないか。>(『コメディ・リテレール 小林秀雄を囲んで』


暴落はトレンド、トレンドはフレンド 11

2024-08-04 17:00:00 | トレンド・フォロー


以前に、方針はすでに決めてあって、それは「ツナギ」を入れながらの両建てによる「売り上がり」で、リスク・マネージメント最優先で、ドテン狙いと書いたが、現在まで図のような売買経過となっている。

ここでは、「ツナギ」を入れながらの「売り上がり」に重点を置いて説明をしたいと思う。なお、売買したのは1570日経平均レバレッジETFで、結局、休みを入れられなかったということである。ポジポジ病は、なかなか治りませんなあ。

3月18日 5日移動平均線が25日移動平均線と重なったところで、大きな出来高を伴って長い陽線が出たので、ここは明らかにエントリー・ポイント。翌日寄り成りで0-10。

ここから、上昇すれば、ツナギを売り上がりで入れて行き、理念型で言えば取り敢えずは10-10のスクウェアを目指す訳である。これが第一工程。ここまでが上手くいけば、この時点で、利益は固定されることになるので、この後、上がろうが下がろうが問題ない訳である。最も信用分の金利手数料は取られることにはなるが。

そして、この後第二工程として、株価の動きを見ながら、買いを外して行って下げを取る訳だが、どうも無理っぽいと思えば、この第二工程は省いても良い。つまり、売り買いの玉を同時に手仕舞ってしまえばよい。買いが現物なら現渡しで清算すればよい訳である。

つまり、リスク・マネージメント最優先というのは、こういった利点があるからで、売ってしまわないで、ツナギを入れるなどという、なんでこんな複雑なことをやるのかというと、こうやって利益を確保・固定して、難しい局面を切り抜けて行くことが出来るからである。

例えば、10-10のスクウェアにした時点で下げを予想している訳だが、このあと踏みあげられて上がっていった場合でも、清算しないで、じっくりと待って下げだしたのを確認してから、売りを増やすなり、買いを外すなりをしていっても良い訳である。

言い換えると、これには地合いを読む技術と分割して玉を増減させるポジション・ワーク技術が必要とされる訳で、よくあるような片張りの一撃必中一点集中買いといったやり方とは、対極にある徐々に分割して売買してゆく方法である。

4月1日 長い陰線で5日移動平均線を上から下に抜ける。この日の陰線一本だけで上値と下値を切り下げたことになるので、ダウン・トレンド確定。5日移動平均線も右肩下がりになって来ているので、一先ず天井を打ったようだ。7-3

4月5日 前日に5日移動平均線の上に出たが、終値では結局超えらずにこの日に下値を更新。10-0

4月9日 5日移動平均線の上に出たので、ヘッジを入れる。10-2

4月15日 5日移動平均線に絡んでちゃぶついていたが、この日に短い陽線だが、5日移動平均線から下に離れたので、12-0。50日移動平均線に当たって跳ね返っているようにも見えるが、5日移動平均線と25日移動平均線の間隔が開き出しているので、まあ、大丈夫だろうと判断。

4月19日 下がってきて長い陰線、下髭が100日移動平均線に当たって跳ね返されたように見えること、25日移動平均線、75日移動平均線という節目で跳ね返ることなく下げてきたのでそろそろ反発しそうに思われること、最近にない巨大な出来高であることから底を打ったと判断、ここでエグジット。0-0

このあと、6月26日に再度エントリーしているが、これは現在も継続中なので、終わってからまた説明したいと思うが、基本的な考え方は同じである。

今回は5日移動平均線の傾きから言っても、前回と違って暴落と言って良いが、一番下の300日移動平均線で跳ね返されるかどうかに注目、また日柄から言えば、来週の後半または再来週の前半辺りが底打ちになると思われる。





仏の顔も三度まで

2024-07-28 00:00:00 | 相場は相場に聞け!
なかなかと乱高下の激しい相場が続いているが、私には典型的な天井を付けに行く相場付のように思われる。

現在、特に目につくのは、原油安と円高ドル安であるが、市場はトランプ勝利を織り込みに行っているように思われる。というのは、トランプは公約の中で、原油価格を下落させる事とドル高円安の是正が急務だと言っているからだ。

トランプの政策公約については、私が読んだ中では→Bloomberg傘下のbusinessweek のインタビューが最も判り易いと思われるが、如何せんいつもの如く、(Bloomberg日本語版も含めて)日本の報道ではその全体像が正確に伝えられておらず、部分的ないわゆる切り取り報道ばかりだと言って良い。

例えば、自動車に高関税をかけるといった部分だけが取り上げられて報道されているが、トランプの言っていること全体を見れば、これは日本の円安政策に対しての牽制という、彼一流のディールであることが判る。

アメリカには大きな通貨の問題がある。強いドル、弱い円、弱い人民元の問題は非常に根が深い。わたしは彼らの通貨安政策と戦った。彼らはいつも通貨を弱くしたがった。彼らの通貨安政策はアメリカの企業がトラクターや他のものを国外に輸出する時に大きな負荷となっている。非常に大きな負荷だ。
・・・
コマツや他のトラクターの会社を見ろ。彼らは良い製品を作る会社だが、彼らの国はCaterpillarなどのアメリカの企業に彼らの国で製品を作ることを強要している。
・・・
アメリカはその逆を要求するべきだ。逆を要求するべきなのだ。
・・・
わたしが大統領だった時、わたしは非常に強く習氏と安倍晋三氏に対して戦った。安倍晋三氏は素晴らしい男だった。彼に起こったことは知っているだろう。彼らが通貨安を押し通そうとした時、わたしはこう言った。それ以上弱くしようとすれば関税を課すぞと。彼らはわたしが許す範囲でしか通貨を安くできなかった。わたしは彼らにとって手強い相手だった。


アメリカは兎も角、日本でもトランプを救世主のように見ている意見があるが、この発言を見てみてもトランプは一貫して「アメリカ・ファースト」だということが判る。→前にも書いたが、ドラえもんやウルトラマンのごとく、トランプが日本の救世主だというような、ああいった見方は、どうも日本人の抜きがたい依存性癖、もっと言えば属国根性から来る善意の守護者待望論の投影でしかないように思われる。

そういえば日本でも「都民・ファースト」を掲げる政治家が都知事に当選したけれども、その理由は色々と挙げられるだろうが、要はこの善意の守護者というイメージをどれだけ棄損しなかったかどうか、それが分水嶺になったように私には思われる。つまり、現在の都知事は、投票した都民の総意として、東京都に対してのドラえもんやウルトラマンとしての役割像に、候補者の中で最も適合する人物として消去法で選ばれたのではないかと言うことである。この意味で、現在の都知事はそういったイメージづくり、イメージ空気醸造戦略に非常に長けている政治家だと思う。イメージ・カラーをもじった「緑のたぬきと赤いきつねの小池」という評があったが、言い得て妙である。狸や狐のように人を化かす、表向きは緑だがたぬき、中身は赤のようにも見えるがこれもまた狐で化かしていることには変わりがない。なるほどねえ、座布団1枚。

いや話が逸れたが、もう一つのトランプの石油政策については、日本ではほとんどと言って良い程報道されていない。トランプのウクライナ戦争を1日で終わらせるという発言は良く知られているが、そのためには原油価格を押し下げることが必要だという指摘には、一流のディーラーというものは、やはり着眼点が一味違うなと感心させられる。なるほどねえ、座布団3枚。

わたしが大統領の時にはプーチン氏は決してウクライナに侵攻しようとはしなかった。ウクライナに手を出すなとわたしは言っていた。
・・・
ウクライナ情勢は酷いものだが、原因の一部は原油だ。原油価格が40ドルから100ドルまで上がれば、プーチン氏は戦争が出来るようになる。原油価格が40ドルだったからプーチン氏はわたしの言うことを聞いた。
・・・
戦争を終わらせたいとしても原油価格が100ドルの状態では戦争は終わらせられない。原油価格が100ドルなら、プーチン氏にとって戦争を終わらせるインセンティブは小さいからだ。


この原油価格を下げるという公約はまた、バイデン政権の脱炭素政策に対する批判ー減産政策で自国の産油企業にダメージを与えただけでなく、さらにそれによる原油価格上昇で、敵であるプーチン大統領に塩を贈ったという批判にもなっていることは言うまでもないだろう。

そして現在のところ、トランプ有利というのが大勢の見方であろうが、私自身は蓋を開けてみるまでは判らないのではないかと思っている。前の選挙ではバイデン・ジャンプという不可解な現象が見られたが、最近でもあろうことか、バイデン自身の身長もジャンプした?という摩訶不思議な現象が見られたように、11月まではまだまだ何が起こるのかわからないのが、アメリカの大統領選挙であると言えよう。或いは、何らかのハリス・ジャンプといったような現象を目撃する事態になるかも知れないし、再度トランプの身に何かが起こるという事態になるかもしれない。


ということで、相場に話を戻すと、現在のトランプ勝利織り込み相場の反動・戻しは、これから当然にやってくるだろうし、日本の株式市場はもう一度4万円を超えてくるのではないかと考えている。

つまり、現在はブルとベアの4万円を巡る攻防戦の最中であって、この意味で天井圏における4万円を中心としたレンジ相場になっていると言い換えても良い。そして、最終的には、三尊天井あるいはヘッド・アンド・ショルダーを形成してダウン・トレンドに転換してゆくのではないか、というのをメイン・シナリオとして考えている訳である。勿論、このシナリオは外れることになるかも知れないが、こういうシナリオも頭に入れて置くべきだと言いたいのである。

SNSを覗いてみても、暴落は想定してはいても、こういったダウン・トレンドへの転換というシナリオを考えている人は殆どいないように見受けられるので、ここで注意喚起をして置きたいと思うのである。従って、この後もう一度、4万円奪還という状況になれば、やれやれこれで一安心、さあ行くぞ!と思う人が大半だと思われるが、買いしかやらない人にとっては、その時こそが絶好の、そして最後の逃げ場になるということである。同じく、空売りが出来る所謂ショーターにとっては、その時は絶好の、そして最初の戻り売り場になることは言うまでもない。

昔の人も、こう言っているではないか。

仏の顔も三度まで、と。







トランプ暗殺未遂と斉藤和義、ボードリヤール、そして仏陀

2024-07-15 19:00:00 | 中今
ネットでトランプ暗殺未遂事件を知った。

例によって、情報やら意見やら解説などが錯綜し、色々なことが言われているが、それらをつらつらと眺めているうちに、ふと、頭の中で、遠くの方で何やら不細工な男がアコギを演奏しているのに気付いた。斉藤和義が歌っていた。





欲しい物なら そろい過ぎてる時代さ
僕は食うことに困った事などない
せまい部屋でも 住んじまえば都さ
テレビにビデオ、ステレオにギターもある

夜でも街はうっとうしいほどの人
石を投げれば酔っぱらいにあたる
おじさんは言う"あのころはよかったな…"
解る気もするけど タイムマシンはない
雨の降る日は、どこへも出たくない
だけど、大切な傘がないわけじゃない
短くなるスカートはいいとしても
僕の見たビートルズはTVの中…

緊張感を感じられない時代さ
僕はマシンガンを撃ったことなどない
ブラウン管には 今日も戦車が横切る
僕の前には さめた北風が吹く
ぬるま湯の中 首までつかってる
いつか凍るの? それとも煮え立つの?
なぜだか妙に"イマジン"が聞きたい
そしてお前の胸で眠りたい…

訳の解らない流行りに流されて
浮き足立った奴等がこの街の主流
おじさんは言う"日本も変わったな…"
お互い棚の上に登りゃ神様さ!
解らないものは解らないけどスッとしない
ずっとひねくれているばっかじゃ能がない
波風のない空気は吸いたくない

僕の見たビートルズはTVの中…
僕の見たビートルズはTVの中…
僕の見たビートルズはTVの中…



かって、<浮き足立った奴等>に持ち上げられた<訳の解らない流行り>にポスト・モダン思想というのがあった。その中の一人、ジャン・ボードリヤールが晩年に「ネットワークの精神的ディアスポラ」とかいう、これまた<訳の解らない>ことを述べている。正確・精緻な分析であるが、小難しい難解な表現の衣をはぎ取ってしまえば、何のことはない、アングルや被写界深度の濃淡の違いはあれども、斉藤和義とボードリヤールは被写体として同じものを感じ、同じものを見据えているように私には思われる。


バーチャル性ーーーデジタル、コンピューター、インテグラルな計算ーーーの領域では何ひとつとして表象可能ではない。・・・それらから何らかの感知できる現実性へと遡ることは不可能だ。政治的なものの現実性ですら不可能だ。この意味で、戦争すらもはや表象されえず、戦争の不幸に加え、それを出来事のハイパーヴィジュアルにもかかわらず、あるいはそのせいで表象できないという不幸が生じる。イラク戦争と湾岸戦争は、そのことをはっきりと示した。

批判的知覚、真の情報が存在するためには、映像が戦争とは異質なものである必要がある。だがそうではない。(あるいはもはやそうではない。)すなわち、戦争の凡庸化された暴力に、まったく同じぐらい凡庸な映像の暴力が加わるのである。戦争の技術のヴァーチャル性に、映像のデジタル的ヴァーチャル性が加わるのだ。政治的争点を超えたところで戦争を現実の姿、つまり世界的次元での暴力的な文化的同化の道具として捉えるなら、メディアと映像とは戦争のインテグラルな現実の一部をなす。それらは力による同一の均質化の、より巧妙な道具なのだ。

 このように映像を通じて世界を再把握し、情報から行動、集団的意志へと移行することが不可能であり、またこのように感受性が欠け、人びとを動かすことがない状態において問題とされるのは、全般的な無感動や無関心ではなく、単に表象のへその緒が断ち切られてしまったことなのである。
 ディスプレイは何も反映しない。・・・ディスプレイはあらゆる二者的関係を遮断する。

 そもそもこの表象の不能によって、行為が不能になるだけでなく、情報の倫理、映像の倫理、ヴァーチャルとネットワークの倫理をじゅうぶんに完成させることが不可能になる。この方面でのあらゆる試みは必然的に失敗する。
 残されているのは映像の精神的ディアスポラと媒体の常軌を逸した性能だけだ。

媒体と映像とのこうした優越について、スーザンソンダクが見事な逸話を残している。彼女は人類が月面に着陸するところをテレビで見ていたのだが、その場所に居合わせた人びとは、自分らはこのお話の全部を信じているわけではないと言う。彼女が「じゃあ、あなたがたは何を見ているというの」と問うと、彼らは「私たちはテレビを見ているんですよ!」と答えたのだ。
・・・
 だが結局のところ、スーザンソンダクの考えとは反対に、意味の帝国を信じているのはただ知識人だけであり、「ふつうの人びと」は記号の帝国しか信じていない。彼らはずっと以前から現実性をあきらめてしまっている。彼らは身も心も見せ物的なもの(スペクタクル性)の側に移ってしまっている。

 主体と客体とを区別する線が潜在的に消滅してしまっている相互作用的世界について、どのように考えればよいだろうか。

 この世界はもはや反映されることも表象されうこともありえない。それは脳の操作とディスプレイ画面のそれとが区別されなくなった操作によって屈折したり回折したりするだけだ。脳の知的操作それ自体がディスプレイ画面になったのだ。
・・・
インテグラルな現実のもうひとつの側面は、すべてが統合された回路のなかで機能することである。情報、そしてわれわれの頭のなかにおいて回帰する映像が支配するとき、コントロールされたディスプレイでは、雑多な要素の無媒介的な集合が生ずるーーー円環状に作用し、ライデン瓶のようにそれ自体に接合し、そしてそれ自体にぶつかる事物が一点をめぐって動きまわるのだ。それはすべてのコラージュによって、またそれ自体の映像との混同によって確認されるという意味での完全な現実性だ。

 この過程は、視覚的、メデイア的な世界において、だがまた日常的で個人的な生活やわれわれの身振りや思考においても完成にいたる。この自動的な屈折は、いわばあらゆる物を自分自身の上で焦点を合わせることによって固定することで、われわれの世界の知覚にまで影響する。

 これは写真の世界でとりわけ認められる現象だ。そこではあらゆるものがただちにある文脈、文化、意味、観念を奇妙にまとい、あらゆるヴィジョンの力を奪い、盲目の一形式をつくりだす。ラファエル・サンチェス・フェルロシオが告発するのがこれだ。「ほとんどの人が気づいていないが、恐ろしいかたちの盲目が存在する。」
・・・
 この意味で、美学的になったのはわれわれの知覚そのもの、直接的な感受性である。視覚、聴覚、触覚、われわれのあらゆる感覚が語の最悪の意味で美学的になってしまった。事物についてのあらゆる新しいヴィジョンは、それゆえ世界をその感知可能な幻想(それには回帰がなく、回帰する映像もない)に戻してやるため、回帰する映像を解体しヴィジョンをふさぐ逆転移を解決することからしか生じない。

 鏡のなかで、われわれは自分を自分の映像と差異化し、また自分の映像との間で、開かれたかたちの疎外や戯れに参入する。鏡、映像、視線、舞台、これらすべては隠喩の文化につながるのだ。

 一方、ヴァーチャル性の操作においては、ヴァーチャルな機械のなかに一定のレヴェル没入することで、もはや人間と機械の区別がなくなる。つまり機械はインターフェイスの両側にあるのだ。
・・・
 このことはディスプレイの本質そのものに起因する。鏡に彼方があるようには、ディスプレイに彼方(奥行き)はない。時間そのものの諸次元も、現実の時間において混じりあう。そしてどうのようなものでもヴァーチャルな表面というものの特徴は、何より空虚な、それゆえ何によっても満たされうる状態でそこにあるとすれば、現実の時間において、空虚との相互作用に入るのはあなただということになる。

 機械は機械しか生みださない。コンピューターから出てきたテクスト、映像、映画、言説、プログラムは機械の産物であって、その特徴を兼ね備えている。つまり人工的に膨張されられ、機械によって表面をぴんと張られる。そして映画は特殊効果を詰めこまれ、テクストは冗長さと冗漫さを詰め込まれる
・・・
 暴力とポルノグラフィ化された性のうんざりするような性質はそこからくる。これらは暴力や性の特殊効果でしかなく、もはや人間による幻想の対象でもなくなって、単なる機械的暴力なのだ。
・・・
 機械的テクストにあるのはあらゆる可能性の自動偏差だけだ。
・・・
 実際のところ、あなたがたに話しかけるのはヴァーチャルな機械であり、それがあなたがたのことを考えるのだ。
・・・
 そもそもサイバー空間のなかに、何かを真に発見する可能性があるだろうか。インターネットは自由と発見の心理的空間を偽装しているにすぎない。実際インターネットは、拡がりはあるものの慣習的な空間を提供しているだけであり、オペレーターはそこで既知の要素、すでに確立されたサイト、制定されたコードと相互作用を行うのだ。検索パラメーターを超えて存在するものは何ひとつない。あらゆる問いに、予測された答えが割り当てられている。あなたは問いかける者であると同時に、機械の自動応答機でもある。コード作成者であると同時にコード解読者であるあなたは、実のところ自分自身の端末なのだ。

 これこそ、コミュニケーションの恍惚だ。

 もはや面と向かう他者はいない。目的地もない。どこでもよいのであり、どんな相互作用因でもよい。システムはこうして終わりも合目的性もなく回転し、その唯一の可能性は無限に続く内向きの旋回である。そこから生じるのが、麻薬のように作用する電子的相互作用の心地よいめまいだ。中断することなく、そこで全生涯を送ることができる。



ただまあ、当たり前のことであるが、同じものを感じ、見据えていても、斉藤和義とボードリヤールとでは、それに対する反応というか応答が異なるのも確かで、同じ日本人だからなのか、<精神的ディアスポラ>を言い募るボードリヤールよりも、<ずっとひねくれているばっかじゃ能がない>と言う斉藤和義の方に、やはり私は肩入れしたい気持ちを持つ。

ボードリヤールは鬼籍に入って、亡くなってしまったので、あの世で仏陀に会っているかも知れない。従って、こんな風に仏陀に説教を諭されているボードリヤールの映像が映し出されているディスプレイ画面を想像してみるのも、あながち悪くはないと思うのだ。

ボードリヤールよ、ひねくれているばかりでは能がないということに気付いているかい。毒矢の当たっているお前に、毒の分析が何の意味がある。私は毒矢を抜く方法を教えるだけだ。








東西投資理論の変遷を考える 5

2024-07-06 12:00:00 | 投資理論
この点を考えるに当たっては、ダーバスがスランプに落ち入り、一旦獲得した<感覚>も喪失してしまい、そして、この最悪の状態から、どのように考えて行動してスランプを克服し、再度この<感覚>を取り戻すに至ったのかという、言わば投資家ダーバスの再生・復活の過程が参考になろう。

その経緯を「第9章二度目の危機」で、ダーバスは克明に記述しているが、この章はまたこの本の白眉でもあろう。この自らのスランプの原因に対する洞察力からも、ダーバスという人は相当な知性の持ち主であったということが判ろうというものである。


<自分には間違いようのないシステムがあるので、マーケットに今まで以上に近づくことさえできれば、毎日資産作りをする妨げになるものは何もないと考えた。>

そのために彼が選んだのは、マンハッタンにある、あるブローカーのディーリングルームであった。そして、このディーリングルームで、ダーバスはスランプに陥ることになるのである。

<取引を始めて数日のうちに、過去6年間にわたって学んだことをすべて放り出してしまった。自らを激しく律して禁じたすべての事をやるようになった。ブローカーと話をした。うわさに聞き耳をたてるようになり、ティッカーマシンのそばを離れられなかった。・・・・最初に失ったものは第6感だった。「感覚」がまったくつかめなかった。・・・わたしは理性に見放され、完全に感情に支配されるようになった。>

<取引はすべて壊滅的な結果に終わった。・・・日がたつにつれて、私の投資活動の悪循環は次のような様相を呈した。
天井で買い付ける→買ったとたんに下落し始める→あわてふためく→底値で売却する→売った途端に上昇し始める→強欲心が出てくる→天井で買い付ける >

<悲惨な状態で数週間を過ごしたあと、なぜこんなことになったのか、その理由を真剣にじっくりと考えてみた。香港やカルカッタ、サイゴンやストックホルムでは、どうしてあの感覚を持てたのだろう。そして、ウォール街から1キロも離れていないところにいるのになぜその感覚を失ったのか。・・・この問題の解決は容易でなく、わたしは長い間思い悩んだ。

<解決策をささやく声が聞こえたが、最初は信じることが出来なかった。・・・その声は、私の耳が私の敵だと言っていた。>

<答えはただひとつだと思った。・・・直ちにニューヨークを離れて、遠くへ行かなければならない。・・・それからパリ行きの飛行機に乗った。・・・私がブローカーに求めたのは、いつものとおりウォール街の株価に関する毎日の電報だけだった。>

<電報が毎日届いたが、その内容が理解できなかった。完全にカンを失っていた。・・・パリについて2週間ほどたったある日、・・・電報を手にしたとき、数字がいくらか明るさを増して見えるような気がした。・・・その後数日間、電報がだんだん鮮明になってきて、昔に戻って相場が読めるようになった。再び、力強い銘柄もあれば、軟弱な銘柄もある事が理解できた。同時に「カン」が戻り始めた。・・・私は教訓を得ていた。・・・わたしに必要なのは株価の電報だけで、それ以外には何もいらない。



ここで言われていることは、ダーバスが<感覚>を取り戻し、再度<相場が読めるようになった>のは、株価以外の情報を遮断した状態においてであったということである。言い換えれば、彼は株価(の数字)という最も基本的な一次情報以外の、一切の副次的な情報を遮断しなければ、この感覚を取り戻すことが出来なかったということである。

現在のそれこそ情報が溢れかえっている現在からは、なかなかと想像しにくいことだが、ここで、取り分け私が注目するのは、ダーバスがチャートさえも必要としていなかったという点である。いや、むしろ、チャートを見ないからこそ、ティッカー=株価の数字から<感覚>を得ることが可能になり、<相場が読めるようになった>ということである。




そして、同様にリバモアもチャートは使ってはおらず、株価の数字だけに基づいて、売買の判断を下していたことを挙げなければならない。


<私個人としては、チャートには全く興味がない。私にとってチャートは混乱を来すもとである。>(『リバモアの株式投資術』)

リバモアの場帖


場帖に価格を書き入れ、その動向を観察すると、価格が語りかけてくるようになる。・・・それは、形成されつつある状況を明確に伝えようと、必死に訴えかけてくる。・・・その値動きを注意深く分析して優れた判断が下せれば、どうすべきかが分かるはずだと語りかけてくるのである。>(『同』)




リバモアはこれ以上の事は書いていないが、興味がないだけではなく、なぜ<チャートは混乱を来すもと>になるのであろうか。

私には、ここがクリティカル・ポイントだと思われる。

ネットでダーバスやリバモアの投資法をググると、膨大な量(その殆どは英文)の記事がヒットするが、彼らの売買例をチャート上に図示・再現したものが非常に多い、というかほとんどすべてがそうだと言って良い。また、ダーバスの著作『200万ドル』にさえも、付録としてアメリカン・リサーチ・カウンシルが作成したダーバスの売買事例チャートが添付されているといった有様である。勿論、こうした方が一目瞭然で判り易いからであろうが、このことは、そもそもダーバスやリバモア自身がチャートなぞは使ってはいなかったという事実を見過ごさせるという一種の死角をも生むことになると言わなければならない。

このことの認識論上の意味合については、また後で考察してみたいと思っているが、チャートに基づいた視覚による事後的・空間的・静的な理解は、それと引き換えに、その時点時点における実践での、場帖(=数字の羅列)に基づいた想像力による、株価変動に対する動的な運動感覚の獲得である<変動感覚>を損なうものと言わなければならない。

私にとってチャートは混乱を来すもとである>というリバモアの言葉を見逃してはならない。

また、『欲望と幻想の市場』には、自分の<直観>について、<ジェームズ・R・キーンらの先輩相場師がこぞって磨こうとしたという、いわゆるティッカー・センスといったものかもしれない。>という一文も出てくるので、こうしたティッカーに基づいたある種のセンスの存在自体については、当時の相場に関わる者の間では、ある程度の共通認識があったとも思われる。何より、この<ティッカー・センス>という言葉の存在自体が、それを証しているとも言えよう。


さて、先にダーバスやリバモアの<神秘的な、説明のつかない本能>、<直観>や<カン>について述べている文章は、林輝太郎氏の本の中の文章をどうしても思い起こさせると書いたが、それは氏の相場技法論は、こうした言語化し難い「暗黙知」としての<変動感覚>の養成を旨とし、そのために場帖を最重要視するからである。

つまり、繰り返しになるが、この場帖最重要視という方法論も含めたロジックとして、本質的に相通ずる記述、いわば同じ中心を巡って同心円を描いていると思われる記述>だと私には思われるということであるが、それをさらに敷衍して言えば、ここにおいて場帖(=株価数字)に基づいた暗黙知としての変動感覚=ティッカー・センスという、現在の投資理論ではほとんど看過されている概念を基軸に据えることによって、(東西の)投資理論について、新たなパースペクティブが開けてくることになるのではないか、そう考えている次第である。






東西投資理論の変遷を考える 4

2024-06-16 12:00:00 | 投資理論
そして、ダーバスだけではなく、リバモアの本にも(彼は<直感>や<>という言い方をしている)、その性格は違うが、同じく<神秘的な、説明のつかない本能>について述べているくだりが出てくるのである。

なお、今回この文章を書くに当たって、ネットで探して、かなりの量のダーバスやリバモアについての文章や書評を読んでみたが、英語で書かれたものを含めて、この点に触れたものは、皆無であった。

まあ、普通に考えれば、彼らの判り易いピボット・ポイントとかボックス理論といった、いわゆる手法に目が行く方のが当然で、投資実践という彼らの人間的営為における、こういった一種の言語化し難い「暗黙知」とでも言うべきものが看過されるのは、致し方ないとも言える。しかし、彼らが明敏にも書いているように、その投資家としての成功には、その人間の生死と共に生成消滅するこうした「実存的暗黙知」というものがかなりの程度関わっているのも確かな事実で、それをこの際、再度考えてみたいというのが、この文章を書いている理由でもある訳である。




<いつだったか、おれがコスモポリタンの店でシュガーを3500株空売りしていた時に、直感的に手仕舞ったほうがよい、と感じたという話をしたけれど、おれはしばしばそうした奇妙な衝動を感じることがある。そういう時には、そのに従うことにしていた。しかし時には、盲目的にに従って自分のポジションを変えるのは愚かなことだと自分に言い聞かせることもあった。・・・・しかし、直感に従わなかった時にはいつも、後悔する羽目になるのだった。>(『欲望と幻想の市場』第6章)

<・・・相場ボードを眺めていた。多くの銘柄は、値上がりしていたのだが、おれはユニオン・パシフィックの値を見たところで、この株を売るべきだと感じたのだった。それ以上は詳しく説明できない。ただ、とにかく売るべきだと感じたのだ。なぜそう思ったのか自ら問いただしてみたけれども、この株を空売りすべき確たる根拠は見つからなかった。・・・とにかくこの株を売りたい。しかし理由は自分でもわからない。>(『同』)

この数日後、サンフランシスコ大地震が起き、リバモアはこの空売りの取引で、それまでで最大の利益を得ることになったということであるが、本人自身の手になる『リバモアの株式投資術』にも同様の記述が出てくる。



<1920年代後半の大強気相場において・・・この期間中、・・・けっしてポジションに関して不安を抱くことはなかった。だがそのうち、マーケットが閉まったあと、そわそわして心を落ち着けられないときが来た。その晩は熟睡もできない。何かが私を覚醒させ、マーケットについて思いを巡らせ始めた。翌朝は新聞を見ることさえ恐ろしかった。何か不吉なことが今にも起こりそうに思われた。・・・翌日、状況は際立って変化した。悲惨なニュースがあったわけではない。一方向へ進む長期にわたる変動の後に起きる、よくある突然のマーケットの転換である。その日、私の動揺は本物になる。急いで大量のポジションを清算する羽目に陥った。前日であれば、天井から2ポイント以内で建玉総てを手仕舞えたはずだ。昨日と今日で何たる違いだろう。・・・正直に言えば、私はこの内なる警告には疑念を持っており、通常は冷静な科学的手法を優先させる。しかし、静かな海を航海しているようなときに感じた大きな不安に注意を払うことによって、かなりの恩恵を得てきたというのも事実である。>(『リバモアの株式投資術』第6章)

ここで私が注目したいのは、リバモアがこの<直感>について、このように述べていることである。

それはマーケットを長年研究し、実践を積んできたことで身につく、特異な能力のひとつである。>(『同』)

<やがて、マーケットが教えてくれるより前に、自ら過ちに気づくことが出来る〔変動〕感覚が磨かれてくるようになる。それは潜在意識からの警告だ。過去のマーケットパフォーマンスから得た知識に基づく、自己の内面からのシグナルである。時に、それはトレードメソッドの発するシグナルに先んずる。>(『同』)

なお、この文章の<変動感覚>という訳語に違和感があったので、〔変動〕とカッコに入れて横棒を引いて置いたが、原文でも、以下のように、単に<This sense>とあるだけである。

<This sense of knowing when you are wrong even before the market tells you becomes, in time, rather highly developed. It is a subconscious tip‐off. It is a signal from within that is based on knowledge of past market performances. Sometimes it is an advance agent of the trading formula.>

どうして、<変動>という言葉を補って訳したのか、文脈から言って唐突で、私にはいささか疑問符が付くのではあるが、それにもかかわらず、これから述べる内容に関しては、論理展開の上で、一種の論点先取になっているのは、あらら、これってセレンディピティっていうやつ?と思わざるを得ないのも事実である。

というのは、これらのリバモアの文章は、私にはどうしても、林輝太郎氏の本に出てくるこの文章を、連想させずには置かないからだ。

<ある時、買った後にとても嫌な気がしたんだ。買うべきでないところで買った。つまり、いけないことをしたという気分の悪さとでもいうか、とにかく二日間もそんな気分の悪さが続いたので損になるが売ってしまった。どうしてこんなことになったのかと考えたが、一週間くらいたって分かった。そして涙が出てきた。俺にも変動感覚が出来てきたことがわかったんだ。変動感覚と売買技術-林の本には相場で儲けるためにはこの二つが必要だと書いてあったが、その変動感覚が少し俺に備わったのではないかと思われた。林は笑うだろう。笑われても良い、俺は少しだけだが上達の道に乗ったんだ。それから2年、相場をはじめて10年で、損した分をほとんど取り返した。>(『勝者へのルール』)

また、前回引いたダーバスの文章も、同様に次の文章を思い起こさせると言ったら、或いは自らの言いたいことに、あまりにも引き付け過ぎた解釈だと言われるであろうか。

<FAIクラブのメンバーで400銘柄の月足を描いている人がいます。2005年の8月初めに7月の月足を描き終わったとき、『今月から騰がるな』と思ったそうです。それこそ、はっきりと上がると感じたので、15銘柄3日に分けて買った結果、見込みどおり12月にかけて暴騰しました。『わかってきたのだ、ありがたい』と、うれしく感じたそうです。>(『同』)


さて、これらを、例外的な事例、特殊な才能を持つ人物の特異な<直感>や<>、或いは<感覚>の問題として片付けてしまうのは簡単だが、もう少し、事実の襞に分け入って考えてみることも大切であろう。つまり、問題なのは、リバモアやダーバスが、どのように<マーケットを長年研究>し、どのような<実践を積んできた>のかということである。





東西投資理論の変遷を考える 3

2024-06-02 12:00:00 | 投資理論
これは投資本に限った話ではないが、古典の評価というものは難しい。

私の場合、数年、時には十年以上の間隔を空けてから蔵書を読み返すのを心がけているが、それは評価がガラリと様変わりする場合が往々にしてあるからである。それは単に読書技術の拙劣さということもあろうが、特に投資という分野においては、量は兎も角として、とりわけ質的な経験値の蓄積がものを言うので、自分の実力レベルの内容までしか読み取ることが出来ないからである。それを、今回ダーバスやリバモア、さらに進んでワイコフ、バルークなどを読んで、今更ながらに思い知らされることになったと言っても良い。

ダーバスについては、今から考えると、林輝太郎氏の次の否定的な文章がどうも先入観になっていたように思われる。

<この本の初版は1981年である。自費出版で、全11話であったが、このたび同友館から改訂版を出すことになって、第3話の「ボックス売買法」を除外した。「ボックス売買法」は、ニコラス・ダーバスが『私は株で200万ドル儲けた』という本で紹介した方法で、この本はベスト・セラーになった。
第3話を除いた理由。ニコラス・ダーバスは、上記の本を1960年に出した。14年後の1974年に『ウォール・ストリート・ギャング』という本を書いたといわれる(筆者所有の『ウォール・ストリート・ギャング』の著者はリチャード・ネイになっている。筆名なのか筆者の聞き違いなのか詳細不明)。そしてさらに十年後の1984年、ロンドンの下町で落ちぶれた彼の姿が目撃されたのを最後に消息不明になったといわれている。要するに、彼は相場において有終の美を飾れなかったのだ。一時的に大成功した投資家は多いが、有終の美を飾ってこそ、本当の成功者である。>(『脱アマ相場師列伝』はしがき)

恐らく林氏は『私は株で200万ドル儲けた』以外は読んではいないと思われるが、現在手に入るダーバスの本は『200万ドル』以外にも幾つかあって、これらの内容からすると、上記の林氏の評価は、正確性を欠いた裏付けのない伝聞に、いささか引っ張られ過ぎたように思われる。

『ウォール・ストリート・ギャング』もざっと目を通したが、一口で言えば、インサイダー達による組織的暗躍活動の暴露本といった内容で、『金融市場はカジノ』(1964)で描かれているダーバスのマーケット制度観とは、関心の持ち方の点で、いささかそぐわないように思われるし、そもそも一介のダンサーであるダーバスに、こうした情報が知り得たとも思えない。また、リチャード・ネイは『The Wall Street Jungle」という同様の暴露本を他にも書いていて、やはり別人と考えるのが自然であろう。

また、<1984年、ロンドンの下町で目撃された>という情報の出所は確認できなかったが、ダーバスがアメリカを拠点に活動していたことから考えると、これも相当に怪しい伝聞だと言わざるを得ない。

そして、ダーバスが、『The Anatomy of Success』(1965)の中で次のように書いていることも挙げなければならない。というか、そもそもこの本自体が、良くあるような功成り遂げた人物が書き下ろした、”成功法則本”なのであるが。

<I myself have worked in many fields and, at the risk of sounding self-laudatory, I can honestly say I have been very successful. At one time, I became world famous as an acrobatic dancer. And during a subsequent period of my life, I made a name for myself, creating a brand-new image, as an author. Later, I went on to explore and become successful in other fields—the fashion industry, theatrical producing, real estate are a few examples. >

<私自身、さまざまな分野で仕事をしてきた。自画自賛に聞こえるかもしれないが、正直なところ、とても成功したと言える。アクロバットダンサーとして世界的に有名になり、その後の人生で、私は作家として新しいイメージを作り上げ、その名を世に知らしめることになった。その後、さらに未知の分野に進出し、私はファッション業界、演劇プロデュース、不動産など、他の分野でも成功を収めたのだ。>

尤も、出版年はどれも皆1984年よりも前で、一番新しい『「株で200万ドル儲けたボックス理論」の原理原則』(『You Can Still Make It In The Market』)の出版が1977年なので、この伝聞を完全に否定する決め手にはならないけれども。

  


しかし、まあ、私にとっては、晩年のダーバスが落ちぶれようが落ちぶれまいが、こうした詮索はどうでもいいように思われる。それほど『私は株で200万ドル儲けた』の中で描かれているのは、傑出した投資家がどのように誕生してゆくのか、その試行錯誤の成長過程が、見事に、生き生きと活写されているからだ。また、この本は投資本というジャンルを超えて、自伝としても傑作の部類に入ると言っても過言ではないとも思う。



といったようなことで、今回読み直して、以前には読み飛ばしていた多くの部分に注目することにもなった訳である。

今回新たに気付いたのは、林輝太郎氏の投資技術理論と本質的に相通ずる記述、いわば同じ中心を巡って同心円を描いていると思われる記述が幾つか見られたことである。例えばこのようなところであるが、この文章をどのように読まれるであろうか。

<投資技術をマスターしたことにも疑問の余地はなかった。電報を通じて取引をしていたことで、ある種の第六感も冴えてきた。これが自分の探している株式だということが「感覚」で分かった。・・・わたしはたいていの場合、好ましい株式を見つけることができた。ある株が8ポイント値上がりしたあと、4ポイント下落しても警戒感を持たなかった。そうなることを予想していた。また、ある株価が堅調になると、それが値上がりするのはいつかを言い当てたこともしばしばあった。これは神秘的な、説明のつかない本能だったが、そんな本能がわたしの体のなかにあることは事実だった。そのおかげで非常に大きな力を得た気になった。>