川瀬有希の時の旅


「今日は何の日」と題し、過去のその日に起こった出来事を、自由気ままに語るブログです。

12月21日/ 今日は何の日

2012-12-21 00:15:00 | その他

(1976年)初のジャンボ宝くじが発売される

大晦日の抽選会が恒例となった年末ジャンボ宝くじの販売は、この年から始まった。
各地の売り場に客が殺到し、松本と福岡では何と死者まで出たらしい。
それまでにない(と言っても、今となっては地方くじレベルだが)高額な一等賞金にみんな惹かれたのだろう。
金額を目にしただけで、自らの手中に収まったかのような錯覚に陥ったというか……。
しかし、夢広がる催しで死者が出ては洒落にならない。
この騒動に懲りて、翌1977年からジャンボ宝くじは予約制による販売体制となる。
もっとも、この制度も1996年に廃止となった。


12月17日/ 今日は何の日

2012-12-17 00:15:00 | その他

(1903年)ライト兄弟が人類初の動力飛行に成功

飛行船は既に存在していたが、動力飛行機の完成は不可能と考えられていた時代。
常識を覆すには並々ならぬ研究努力の他に、世の中の偏見や嘲笑に打ち克たねばならず、それに耐え、乗り越えたライト兄弟は称賛に値する。
ただ、初飛行に成功して僅か10年余り後に戦争の兵器として使われることまでは考えていなかっただろう。
戦闘機や爆撃機の登場で戦略形態が大きく変わった近代戦は、人類により甚大な被害をもたらすことになった。
ノーベルが発明したダイナマイト然り、それを世に送り出した兄弟の思惑を外れて進化し利用されたことを、本人達はあの世でどう思っているだろう。


12月14日/ 今日は何の日

2012-12-14 00:15:00 | その他

(1959年)北朝鮮への第1次帰国船が新潟港を出港

「地上の楽園」と持て囃された北朝鮮への帰還事業が、人道的な見地から進められた(この「人道的」というのが、今となっては悪い冗談にしか思えない)。
国の内情が殆んど判らない中で、在日朝鮮人は朝鮮総連や、左右を問わず多くのマスコミ各社、そして、当時「進歩的文化人」と呼ばれた知識人らの撒き散らす北朝鮮礼賛の言質を信じ、海を渡った。
その後の悲劇はご存知の通り。
激しい差別と理不尽な待遇の中、皆不幸な人生を歩んだと、脱北者の証言により後年次々と明らかになった。
同胞はもとより、朝鮮人の夫について行った日本人妻は特に悲惨だったと言われる。
このような許されざる政策を行った北朝鮮の罪は、遠くない将来に体制が崩壊した暁に徹底的に裁かれるだろうが、同時に、それに加担した上記の第三者も等しく責任を追及されなければならない。
たとえ善意の下に行ったことであれ、現実にもたらしたその罪科が見過ごされていい筈がない。
自らの罪を棚にあげて政府等を責める姿が容易に想像されるが、そのキャンペーンに安易に乗っかってはならない。
今から警告しておく。


12月6日/ 今日は何の日

2012-12-06 00:15:00 | その他

(1994年)「音の日」制定

1877年12月6日にエジソンが蓄音機を発明したことにちなみ、日本オーディオ協会が、オーディオや音楽文化の発展に寄与することを目的に1994年に制定。

客観的に見て、現在オーディオ熱は下火な状況にある。
何でもPCひとつで出来るようになった今、いい音を得るのに、わざわざ個別の機器を揃えたり、コードやケーブルを交換したりなどという面倒なことに取り組む人はめっきり少なくなった。
メーカーによる新作発表のペースも極端に落ちている(信じられないかも知れないが、今の携帯・スマートフォンのように、'90年代初頭までは年に最低二回、新製品が発売されていた)。
そもそも、音の良さを細かく追求する姿勢自体が薄れている。
高い機器を買った時点で満足し、それ以上のチューニングを殆んどの人はしない。
昔からのオーディオ好きとしては寂しい限りだが、これも時代の趨勢だろう。
ただ、僕はこれからもオーディオに対する関心を失うことはない。
PCの中の一機能程度に認識することは、絶対にない。
趣味だから、世の中の流れに妥協する必要なんてないのだから。

写真は、僕が子供の頃に憧れたYAMAHAのレコードプレーヤー・GT-2000。
欲しかったなぁ。
受注生産で構わないから、いつか復刻してくれないかなぁ……。


11月26日/ 今日は何の日

2012-11-26 00:15:00 | その他

(1941年)アメリカがハル・ノートを提示

太平洋戦争直前の日米交渉に於いて、日本側の妥協案を拒否するかたちで提示された米側の要求文書。
日本が日露戦争以降手にした領土・権益・軍事同盟の一切を直ちに放棄することを求める内容で、日本側はこれを事実上の最後通牒と見なし、妥協策に傾いていたそれまでの流れが、軍部を中心とする強硬策に一気に傾き、開戦が決まる。
日本の運命を決定づけた文書である。

後の研究で、米側の事実認識に一部誤解があったり、日本の外務省が文書に(開戦を促すように解釈される刺激的な)文言を加えていたこと等も判明するが、仮に日本がこれを受け入れていたとしても、日米開戦は避けられなかったと僕は考える。
米国としては膨張する日本の脅威そのものを認めていなかった訳で、要求はそれにとどまらず更にエスカレートしていただろうし、日本側の反発も当然拡大の一途を辿っただろう。
剥き出しの欲望が両国(を含む世界全体)に渦巻いていたあの時代、そして、戦争が今以上に打開の為の有効手段と考えられていた以上、一戦を交える他なかったという結論に達しざるを得ない。
良し悪しは別にして。