川瀬有希の時の旅


「今日は何の日」と題し、過去のその日に起こった出来事を、自由気ままに語るブログです。

12月31日/ 今日は何の日

2012-12-31 00:15:00 | テレビ・ラジオ

(1963年)紅白歌合戦が歴代最高視聴率81.4%をマーク

大晦日の国民的番組とは言え、81.4%とは凄過ぎる。
この数字を塗り変えることは、当の紅白でさえも出来ないだろう。
人々の趣向が細分化し、加えてテレビ自体が飽きられている現状では、ほぼ全ての国民の関心をひとつのプログラムに集めることは、まず不可能と思われる。

昔程数字がとれなくなったことを理由に、各民放が番組打ち切りを主張するのも毎年の恒例行事と化しているが、振り返ってみて、紅白を越える数字をあげた裏番組がかつてあっただろうか。
一度たりともなかった。
それは即ち、民放が、紅白より優れた番組をつくれなかったことを意味する。
自らの腑甲斐なさを差し置いて、今なおそれなりに高い数字を誇る、つまり視聴者を惹き付ける番組を、一方的にやめてしまえと叫ぶ態度は如何なものか。
アイデアを出し、紅白以上の番組をつくって対抗すればいいだけの話で、肝心なことはせず、闇雲に批判するその姿に、クリエイターとしての矜持は感じられない。
それを、情けないとは思わないのだろうか。

ちなみに、僕自身は紅白を観たことがない。
全然興味がないから。
誰もが観る番組に背を向けるなんて、ある意味、僕は非国民だな(笑)。


12月30日/ 今日は何の日

2012-12-30 00:15:00 | テレビ・ラジオ

(1979年)アニメ『赤毛のアン』最終回

フジテレビ毎週日曜夜7時30分から放送されていた「世界名作劇場」シリーズのひとつ。
原作はカナダの女性作家ルーシー・モード・モンゴメリで、これは、いわゆるアン・ブックスの第一巻にあたる部分をアニメ化したものである。

リアルタイムで鑑賞した当時、それ程印象に残る作品ではなかったことを正直に告白する。
その前のペリーヌや次のトム・ソーヤー、更にはフローネの方を自分は気に入っていた。
放送された1979年1月から12月は、僕の場合小学1年の3学期から2年の2学期にあたる。
7歳の子供には前半は兎も角、後半の展開は理解しきれなかった。
エイブリー奨学金だのアベイ銀行の破産などと言われてもピンと来なかった。
分からないイコールつまらない、と僕の頭の中では処理された。

実際に原作を読んだのは随分遅く、世界名作劇場のアニメが全てだった僕は、その後更に物語が続いていくことを知って少なからず驚いた。
子供、それも女の子向けの児童小説だという別の思い込みも手伝い、作品を敬遠していた為、まさかあんなに奥深いストーリーだとは思ってもみなかった。
今でも子供向けの幼稚な作品だと先入観を持つ人はいるだろうが、そういう人にこそお薦めしたい。
アンは本来、大人向けの小説だと僕は考える。
昔の自分同様活字は苦手という方は、このアニメから入るのもいいだろう。
DVDが発売されているので、テレビの再放送を待たずとも今は容易に作品世界に触れてみることが可能だ。
僕のようにアニメから入った者は少数派だろうし、筋金入りのアン信者には邪道扱いされるかも知れないが、どんなかたちであれ、実際にそこに飛び込んでみるのが肝心。
僕も原作先行派に負けないくらいちゃんとアンの世界を受け止められたし、何より、触れもせず誤った認識を抱き続けることこそが不幸なのだ。
また、子供の時分に読んでそれっきりという方にも再読をお薦めする。
間違いなく昔とは違う視点で読み進める自分に気付く筈である。

さて、僕がこのアニメを薦めるもうひとつの理由は、原作本に忠実な姿勢でつくられてるからで、オリジナルのエピソードが過剰になることの多い名作劇場に於いて、この制作方針は実はとても珍しい。
だから、アニメを観終えた後、原作に目を通しても、ある種の失望に襲われる心配はない。

もっとも、全くオリジナルのエピソードが無いかというとそうではなく、ところどころに挿入されてはいるが、それらは原作の良さを引き出す為に注意深くはさまれており、そのどれもが成功している。
一例として、第44章「クィーン学院の冬」の回。
原作では第35章にあたる部分だが、週末毎の帰省を取り止め、試験勉強に打ち込む姿が描かれている原作に対し、アニメではミス・バリーの話からマシュウが発作で倒れたこと、以前から狭心症を患い度々そのような症状があらわれるにも関わらず、本人に心配させまいとの気遣いからマリラと共に黙っていたという事実を知ったアンが、居ても立っても入られず汽車に飛び乗り、グリーン・ゲイブルズへと向かうエピソードが展開する。
第44章は僕も大変好きな回で、アンが心からマシュウを愛していることが非常に上手く描かれている。
あのシーンがあるからこそ、例の第47章がより悲劇的に映るのであり、アンの哀しみが観る者に一層迫って来るのである。
原作では第36章で漸くマシュウの異変に気付くことになっているが、あの程度の描写では少々物足りなく思うぐらいそのエピソードは効果をあげている。
また、第50章(最終回)の手紙の演出も素晴らしい。
原作ではモンゴメリの地の文でアンの心象風景が描写されるが、ステラ・メイナードとステイシー先生への返事の手紙の中でアン自らが語りかけるように綴るあのオリジナルシーンの方が、より説得力があるように思う。
あのパートは、(僕の個人的な評価だが)原作よりアニメの方に軍配があがる。

このようにアニメ版『赤毛のアン』は、決して大袈裟でなく非常に完成度の高い作品だ。
当時観ていた人が懐かしがって鑑賞するにとどまる程度のアニメではない。
そして今時珍しい、家族が一緒になって観られる名作でもある。
原作共々、このアニメをより多くの人に知ってもらいたいと思う理由がここにある。

余談だが、2008年は小説『赤毛のアン』誕生100周年で、それを記念して、カナダでは『こんにちはアン』なる作品が出版された。
これは、グリーン・ゲイブルズのマシュウとマリラに引き取られる前のアンを描いた物語で、僕はまだ読んでいない。
アンに限らず、こういう後付けのストーリーはどうも読む気になれない。
作者バッジ・ウィルソンを責めるつもりは毛頭ない。
不朽の名作の前段階をかたちにする作業は、想像を絶するプレッシャーのもと行われたであろうし、それを完成させたこと自体は賞賛に値する。
けれど、仕上がった作品を好きになるかどうかは別。
はっきり言って、読むのが怖い。
これまで自分の心に築かれてきたアンの世界に影が差しはしないか、崩れはしないか、気を揉んでしまうのだ。
興味はあるから、時々読んでみたい誘惑にも駆られるが、実際に本に目を通すのは当分無理。
日本でもアニメ『赤毛のアン』放送30周年を祝い、BSでそれがアニメ化されたが、そちらも観ていない。
この目で実際に確かめるのは、原作同様もう少し先になるだろう。


12月19日/ 今日は何の日

2012-12-19 00:15:00 | テレビ・ラジオ

(1992年)「クイズダービー」放送終了

大橋巨泉司会でスタートしたクイズ番組。
とてもシンプルな構成・演出で、長く続いたクイズ番組の代表作。
外しまくりでもいつもニコニコ顔の1枠・篠沢秀夫(余りの不正解率に本当に大学教授なのか疑ってしまった)、驚異の正解率で番組の顔的存在だった3枠・はらたいら(しかし、当時からはらの漫画を読んでいた人は非常に少なかった)、そして、〈三択の女王〉と呼ばれた4枠・竹下景子と、レギュラー解答者の面々も皆個性的。
この番組の人気に乗じてボードゲームも発売され、僕もそれを購入し、友達とよく遊んだものだ。

あの頃、我が家では週末土曜のテレビはTBSに完全ロックされ、

「まんが日本昔ばなし」
  ↓
「クイズダービー」
  ↓
「8時だョ! 全員集合」
  ↓
「Gメン'75」(後に「ザ・サスペンス」)

という流れは同夜の定番ラインナップだった。
これが崩れたのは、僕が「全員集合」を観なくなってから。
自然と他チャンネルにも目を向けるようになり、必然的に「クイズダービー」からも離れていった。
92年に終了告知を聞いた時は「えっ、まだやってたの?」と驚いた。


11月1日/ 今日は何の日

2012-11-01 00:15:00 | テレビ・ラジオ

(1928年)ラジオ体操の放送が開始される

この程度の体操が本格的運動をする前のウォーミングアップとして本当に有効なのか、子供の頃は疑問を抱いていたが、大人になり、いざやってみると、想像以上に疲労した。
非常に効果的な全身運動だと気付かされたと同時に、「この程度」と思っていた体操で疲れてしまったことに、自らの体力の衰えを痛感せずにはいられなかった。

現在の体操は3代目(初代は軍国主義的な存在として戦後一旦禁止されたが、間もなく復活)。
学校では大抵『ラジオ体操第一』だけだったが、夏休み、近所の子供会が催す早朝体操では『第二』もやるので、ちょっとした物珍しさも手伝って、苦手な早起きをして参加し、せっせとスタンプを集めていた。
あれって今でも行われているのかな?


10月7日/ 今日は何の日

2012-10-07 00:15:00 | テレビ・ラジオ

(1985年)『ニュースステーション』放送開始

ニュース番組のイメージは、Nステ以前・以降に分けられると思う。
確か放送がスタートする前のCMで、「ニュースを解りやすく伝える」とかなんとか言ってたように記憶するが、その通り、Nステはそれまでのニュース番組にはない、素人にも理解しやすい丁寧な解説が行われた。
なので、はじめの頃は決して悪い印象はなかった。

しかし、ある時期からやたらセンセーショナルな演出を行うようになり、番組がおかしな道を歩むようになる。
映像に煽るようなBGMをあてたり、多面的なアプローチを捨て、兎に角一定の方向に視聴者の意識を持っていこうとする強引な構成を繰り返したり、感情的な判断を優先させたり……。
それは最早ニュースではなくワイドショーである。
元々日本のマスコミの批評性は程度が低かったが、Nステ的番組作りを他局も進めたことで、テレビ界全体の質の低下は決定的となった。
それは今の惨状を見れば明らかだろう。
特に民放で、この番組の報道なら信用出来ると言えるものがひとつでもあるだろうか。

功罪を比べた時、Nステは罪の方が上回ると考える。