(1987年)渡辺晋死去
渡辺プロダクション(通称ナベプロ)創業者。
'70年代までのナベプロは、今のジャニーズを遥かに上回る権勢を誇った芸能事務所だった。
'80年代に入り、その勢いに陰りが見え出すが、今でも芸能界に於いて有力な存在であることには変わりない。
それまで極めて不安定な立場にあったタレントの為に、一般のサラリーマンのように給料制を導入し、収入の安定化と社会的地位向上に貢献したが、これは諸刃の剣でもあった。
当初はタレント本人にも歓迎されたが、こなす仕事の量に見合う収入を得られていないのではないかという疑念を、特に人気のあるタレント程抱く傾向を生み出し、最悪の場合、稼ぎ頭のトップスターが独立を図る事態がしばしば起こることにも繋がった(ナベプロに限らず、今日でも同様のケースが多々見られる)。
また、原盤権に着目した点も見逃せない。
音楽ビジネスに於ける絶対的収入源をおさえることで、事務所の経営スタイルを確立させた人物でもある。
今ある芸能事務所は皆、渡辺晋時代のナベプロに多かれ少なかれ影響を受けていると言っても過言ではない。
さて、渡辺晋並びにナベプロと言えば、ファンとして、やはりキャンディーズのことが真っ先に頭に浮かぶ。
元々、デビューから3年経ったら活動に終止符を打とうとメンバーは決めていたそうで、結局この時は説得され、あと1年延長することとなったが、約束の4年目の終わりが近付いても一向に事務所側にそれらしき気配は見られず、業を煮やした三人は1977年6月23日(契約更新の回答期限は同年6月30日)に社長に直談判に及ぶ。
彼女達の固い意思を知り、解散自体は了承されたものの、具体的な日程等は決まらず、その後、松下治夫氏(同社企画部長)を通じての数回に渡る話し合いも平行線を辿る(渡辺氏としては、そのうち翻意出来るかも、ぐらいに考えていたのかも)。
このままずるずる進めば、解散了承の件はなかったことにされるかも知れない、……そう考えたかどうかは本人達のみ知ることだが、メンバー三人は事ここに及び、遂に実力行使に打って出る。
それが、「普通の女の子に戻りたい」というセリフで有名な、日比谷野音での解散宣言だ。
ここから今に語られる、社会現象にまで拡大したキャンディーズの解散劇が始まった。
この一連の動きを、渡辺氏はどのように感じていただろう。