川瀬有希の時の旅


「今日は何の日」と題し、過去のその日に起こった出来事を、自由気ままに語るブログです。

2014(平成26)年2月の出来事

2014-02-28 22:00:00 | 2014(平成26)年

(2月5日)佐村河内守氏のゴーストライター疑惑が発覚

全聾という障害がありながら数々の楽曲を制作し、音楽業界だけでなく世評も高かったが、実際は佐村河内氏の自作ではないことを、ゴーストライターを務めた新垣隆氏が『週刊文春』誌上で告白、その記事が掲載されることが発売前日にあたるこの日に発覚。
そこから、単なる代作疑惑にとどまらず、聴覚障害を疑われる事態にまで発展。
2月末現在、浮上した数々の疑惑の真相は依然解明されておらず、また、予告された本人による記者会見も行われていない。

>作曲以前に譜面もろくに書けなかったのでは?

>身体障害者手帳交付には医者による診断が不可欠だが、担当医師もグルだったのか?

>妻は何も知らなかったというが、彼女の筆跡を疑われる文書もあり、実は全て把握していたのでは?

>取材したマスコミ各社は今になって、前からおかしいところがあったと弁明しているが、本当は耳が聴こえることなどを知りつつも自らの意思で真実を封印していただけなのではないか?

……挙げれば切りがない。
本人にとどまらず、その周辺も含め、正に疑惑のオンパレード。
各々の細かい追及は今後の報道に委ねるとして、ここでは〈作品の評価〉という点に絞り、論じてみる。



音楽評論家やメディア関係者、そして一般大衆は果たして、佐村河内氏がつくったとされる曲そのものを、これまで評価してきたのか?
聴覚障害者でなく、被爆2世でなく、『HIROSHIMA』というタイトルがつけられてなくても、あの交響曲を絶賛していたか?
いや『HIROSHIMA』だけでなく、その他の曲も手放しで褒め称えていたか?
僕はかなり怪しいと睨んでいる。
作品そのものでなく、作品や作曲者が身に纏う〈背景〉或いは〈物語〉に惹かれていただけではないのか?

実に厄介な問題を孕んだ事件だと思う。

まず、先に挙げた障害や被爆といったキーワードは、我が国に於いてはある種のタブーを帯びている。
誤解を恐れず言えば、それらに纏わるものに関しては何ら疑いを差し挟んではならないような風潮すらある。
途中でおかしいと思っても口にはしない、そういった誤った自制心が働く状況が多々あり、このたびのケースでは、それが彼の暴走を手助けしたと言っては言い過ぎか。

そして、今回はクラシックの世界で起こった事件だが、音楽だけでなく芸術分野全般に於いて、純粋に作品そのものを批評することは可能なのか、というより根本的な問題も浮び上がった。
本当に作品の良さそれ自体は変わらないというのなら、佐村河内氏がどうなろうと、また実際の作曲者が誰であれ、曲は絶対に残しておくべき筈が、今のところそんな機運は見受けられない。
それどころかCDは出荷停止、コンサートも全てキャンセル、ゴールドディスク認定も取り消された。
曲の価値が不変であるなら、この動きは明らかにおかしい。
どんな理由があろうと、真に価値ある作品なら、これからも高く評価し続けていくべきなのに、あれだけ絶賛していた人々の誰一人もそれを訴えようとしない。
要するに、誰も〈音楽〉を聴いてなかったのだ。
持ち上げてきた人々は、一体何に心を奪われたのか。



今後どういう決着を見るかは分からないが、これだけははっきりと言える。
この事件で佐村河内氏が明らかにしたのは、自らの偽りだけでなく、この世の中の、価値あるものとされる存在の疑わしさである。