散歩の閑人:メタ坊っちゃまのYOASOBI?

若気の至りが過ぎてメタボでも、世遊びは辞められない。

神奈川近代文学館・いま輝く林芙美子

2011年11月05日 | ☆横浜じゃん

花の命はみじかくて苦しきことのみ多かりき

このフレーズを聞いたことのある人は多いが、これを小説家・林芙美子が好んで色紙などに書いていたことを知っている人は少ないだろう。
パソコンやインターネットのために、自分自身も最近は本を読まなくなったと痛感しているが、横浜ベイスターズの身売り問題で浮上したモバゲーのようなケータイ世代となると、まったく本に興味がないといっても過言ではない時代に突入した。

女優・森光子がライフワークとして演じてきた「放浪記」の原作者であったからだろうか、幾世代もの人々に林芙美子の名が記憶されたともいえそうで、今回の展覧会はいつになく来館者が多いようだ。

かくいう私も、名前は知っていながらも、その膨大な作品群の中の1冊とて読んだことがないが興味はあった。

林芙美子は、昭和26(1951)年6月連載記事取材のために2軒の料亭で食事をし、帰宅後に心臓麻痺でこの世を去る。
展覧会の中では、その死因については明らかにされていないから、今にいう、要因は別にありながら何でも直接死因は“心不全”、つまり心臓が止まったから死亡と診断するの類だったのだろうか?
彼女は、出版社から求められるままに書き、執筆を断ったことがなかったから、「出版社に殺された」とまで表現する報道もあったほどだというが、真相はわからない。

出生もまた謎だ。

日本ペンクラブ電子文藝館の佐藤公平「林芙美子の年齢」によると、
本籍 鹿児島県鹿児島郡東桜島村古里356
戸主 林久吉(母キクの兄)
本人 林フミコ 林キクの私生児 女
    明治36年12月31日生
    明治37年1月5日に出生届出
  ※ 戸主は戸籍上養子「弟」である
学籍簿
明治43年4月  長崎市立勝山尋常小学校に入学(数え年8歳)
明治43年11月 佐世保市立八幡女児尋常小学校に転入
明治44年1月  下関市立名池尋常小学校に転入
大正3年10月  下関市立名池尋常小学校を退学(鹿児島市無届転住)
    ?      2年間不就学
            鹿児島市山下尋常小学校から転出
大正5年6月   第二尾道尋常小学校5年に転入
大正7年3月   第二尾道尋常小学校卒業
大正7年4月   尾道市立高等女学校入学
大正11年3月  広島県立高等女学校卒業

芙美子は、明治37年に山口県下関で生まれたと自称していたが、戸籍の記載は異なる。
昔は、数え年が習慣となっていたので、小学校就学年齢も数え年を採用していたために、1月生まれの子と12月生まれの子とでは、知能も体力も1年分の差が生じてしまい、子どもに不利と考えた親(家長)がよくやった届出がある。
1月1日に生まれても、12月31日に生まれても、その年は1歳で、年が明けると生まれた日付に関係なく、1月1日に2歳と数えた。
学制が発布されて、小学校へあがることが義務化されるに及んで、年の後半に生まれた子を1月1日生まれとして届け出ることが増えたのだ。
特に終戦前に生まれた人に1月1日生まれが多いから、まわりの人に確かめてみると実感できると思う。
当時、出産経験者が出産介助をしたり、産婆を家に呼んで出産したから生年月日が実際と異なるのは当たり前な時代だった。
家庭の事情を察するのも腕のうちといわれ、頼れる産婆の第一条件になる。
病院で出産するようになったのは、昭和40年代からで、さすがに複数の人が立ち会っていては出生日をごまかすことはできない。
一方、あえて12月生まれにする例として、丙午(ひのえうま)を避けるためと、1歳でも早く年齢加算させるためというのがある。
直近の丙午(ひのえうま)は1906年。
四民平等として江戸幕府の身分制度を廃した明治政府だったが、相変わらず人身売買が横行し、欧米から指摘を受けるたびに、政府は人身売買を禁じる通達を出した。
年季奉公の名目で子どもをやりとりする場合もあり、奉公年齢の制限をしたために、数え年齢を増やす、年の前半に生まれの子が年末生まれとして届けられる現象を引き起こした。
ただ、貧乏人の子だくさんの例えどおり、届け出ても良いことなどなかったし、7歳になるまで育つ子も少なかったので、学校へ行くか、奉公に出すかする必要が生じてはじめて届け出るケースがかなりあった。
明治43年4月尋常小学校入学と、その年の旧正月に番頭・喜三郎と母キクとともに下関の家を出たことは、戸籍の上で何か因果関係がありそうだ。
なお、私生児というのは、父から認知を受けられないために、戸籍上父の記載がないことをいう。
にもかかわらず、家出前、下関で実父・麻太郎と暮らしている。
貧富の差というものが、届出ひとつにも見えてくる。
戸籍の読み解きをはじめるときりがない・・・実際の戸籍を見ればもっと真相がわかってきそうだが。

出生から死亡するまで、芙美子は作品として発表し続けた。
ある意味では、自分の出自を引きずりながらも、文筆という活動を通して、自由に自分らしく生きようと、もがき苦しんだのかもしれない。
そして、多くの読者は、自分の身に置き換えて、またあるときは羨望のまなざしで読んだのだろう。
展示は、11月13日まで。400点にも及ぶ資料は見応えがある。

(コンパクトにまとめられた常設展示)


(近くの山手111番館)



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