「せや・ガイドの会」7月の催しに参加しました。
今回のテーマは「海老名の史跡」をめぐります。
せや・ガイドの会の催しは、事前予約の必要なし、
当日参集受付なので、その日の体調、急な用事にも気兼ねなく、
行く行かないを気分次第で決められるのが、ちょっとほかにはない特長です。
さて、相鉄線かしわ台駅から出発です。
いまだかつて降りたことのない駅で、
車窓からの景色を見て、ずいぶん高台にあるんだなぁ、と思っていました。
この風景の右手に駅があります。
左手のゆるやかに蛇行しているのが目久尻川です。
河岸段丘にしては、かなりの落差です。
聞くところによれば、相模川は東京湾に流れ込んでいたものが、
度重なる富士山や箱根山などの噴火により堰き止められたために、
相模湾へと流れを変えているのだそうで、
目久尻川はその痕跡を残している川なのだそうです。
相模川の河岸段丘が15mほどなので、この高さは納得できます。
目久尻川に向かって坂を下りかけた途中の公園に、
柏ヶ谷長ヲサ(かしわがやながをさ)遺跡の案内板があります。
縄文と先史時代の石器や土器類などが出土していて、
中でも「国府型ナイフ型石器」は珍しいものだそうです。
さらに坂を下りて行くと、目久尻川の産川橋を渡ります。
目久尻は「めくじり」と読み、
河童伝説により名が付いた(ここをクリック)といわれています。
橋の名の産川は「さんがわ」と読み、
室町期に起こった戦乱にまつわる護王姫の話が由来となっています。
(一方、ここを北上した座間市には、護王姫社があり、
義経が奥州へ向かう伝説と結びつけられています。)
この裏手には、湧き水のせせらぎが流れているのですが、
柿田川湧水を思わせるような、涼しげで、きれいな流れです。
ここから丘を登って行くと、秋葉山古墳群にたどり着きます。
3世紀後期~4世紀にかけての豪族の古墳で、1~6号墳まであります。
この辺りを治めていた首長歴代の墳墓が継続的につくられたと考えられています。
最初につくられたとされる3号墳は、前方後円形でしたが、
何らかの事情で前方部が削られ、戦後、養護学校が建っていたそうです。
今は円墳状になっている頂上部分には、下のようなコンクリート建造物があり、
その傍らには、掲揚塔のようなものもありました。
このコンクリート建造物は、京都の船岡山山頂にも似たようなものがありました。
秋葉山なので、やはり秋葉社があったところで、修験道にも関係があるのかと思いました。
また、戦中は士官候補生たちがこの山によく集まっていたという話もあるそうです。
ここからの眺めは、木々が茂っていて見渡すことはできませんが、
海老名市で一番標高が高い場所なので、丹沢から相模湾まで一望できたと思われます。
秋葉山から龍峰寺へ、護王姫の伝説がある「かいな坂」を通り、
国道246線の陸橋を渡ると、下のような景色が広がります。
古代の人々が富士山の噴煙を見ながら日々を暮らしていたとすると、
ここの首長はどのような祭祀を行い、統治していたのでしょう?
のちに相模国の国府が置かれたのは、ただ地政学的なものだけではない気がします。
ただし、国府跡はまだ発見されておらず、国分寺・国分尼寺跡があるための推定です。
龍峰寺は、臨済宗建長寺派のお寺で、創建は室町時代にまで遡ります。
昭和初期に今の海老名中学校辺りから、旧清水寺のあった現在地に移転しました。
境内は、質実剛健といった趣きを感じさせます。
西側に下りて行くと、弥生神社があります。
明治42年3月、国分の八幡社、上今泉の比良神社、柏ケ谷の第六天社、望地の大綱神社、
の4社を合祀して創建され、3月と弥栄えにあやかり「弥生」の名が付けられました。
龍峰寺が学校関連で移転していることを考えると、
弥生神社を創建した明治42年に海老名小学校が開校していることに何か関係がありそうです。
階段を下りて、相模国分尼寺跡に向かいます。
天平13(741)年に聖武天皇が「国分寺建立の詔」を発したのを受けて建てられました。
今は小さな公園のようになっていて、中心に庚申塔(板碑)を祀る祠が建っています。
国分尼寺を南下して、相鉄線を横切り、細い路地に入ると「逆川船着場跡」があります。
平安時代以前に相模川支流の目久尻川から水路を切り開き、
国分寺付近の南から北に向かって流れていた(今は暗渠)ので「逆川」と呼ばれました。
やっと、相模国分寺跡に到着。でっかくて、広い。
その前(横?)にある海老名市立郷土資料館「温故館」で、
史跡や発掘された史料のレクチャーを受けました。
国分寺の特徴は、法隆寺様式であることと、七重塔が建っていたことだそうで、
全国の国分寺の中でも珍しく、また七重塔が相模国の豊かさを物語っているとのことでした。
また、出土した瓦により、相模国の至るところから集められていることがわかりました。
そして、海路沿いに相模川使って行き来することが海老名の発展につながっっていることも。
また、南下した辺りに大ケヤキがあります。
樹齢は不明ですが、根回りは15.3mあり、
舟を繋ぐために打った杭が根付いたと言い伝えがあり、県の指定天然記念物になっています。
そこを登って行くと、高野山真言宗国分寺です。
数多の戦火や地震などの災害により衰微し、
国分寺の長い歴史の中で、時の権力者・有力者の庇護を受けながら、
唯一、薬師堂が残り、その薬師如来を本尊として今に至ります。
今回のウォーキングは、ここで解散。
メタ坊は、国分寺跡近くにある「国分寺そば」へ行き、
「天せいろ(見出し写真)1500円税別」でランチしました。
いつも、昼どきは「行列のできるお店」のようで、待ち合いスペースがかなりありました。
炎天下、歩いたこともあって、冷たいおそばと、温かい天ぷらが美味しかった。
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