今戸神社から道沿いに進んでいく。
ちょうど並行する隅田川を上流へ遡っていくのと同じ方向になる。
安政の江戸絵図を見ると、今戸の長昌寺裏手から千住大橋あたりまでが橋場町になっている。
現在の橋場一・二丁目から南千住の東側がほぼ町域だ。
すると、左手の路地の先に赤いノボリが見えた。
うっかりすると、見過ごして通り過ぎてしまいそうな、家並みの途切れたようなところに路地がある。
こじんまりとした本堂は、弘化2(1845)年の建立。
天平宝字4(760)年に寂昇上人が開創したと伝えられる。
本尊の不動明王は、秘仏で、奈良・東大寺の開山(初代別当)良弁僧正が、相州大山寺で1本の木から3体の不動明王を彫り、1体を持仏、1体を大山寺、そして残りの1体を弟子の寂昇に与えた。
良弁が没すると、寂昇は不動明王とともに上総国(千葉)に向かう途中、橋場に至り、霊告を得、村人を集め、草堂を結んだという。
開創の760年と、良弁の没年773年ということに異論もあろうが、言い伝えや由緒というもの、特に宗教という分野では、信仰の前には絶対真理という鉄則があるので、気にしてはいけない。
「信ずる者こそ救われる」のだ。
この不動尊は、明治の大火、関東大震災、第2次大戦の戦災にも、周辺を災禍から守った「火伏せの橋場不動尊」として、多くの信仰を集めている。
浅草名所七福神の布袋尊のほか、信者の霊夢の相談が相次いだことで修復するに至った富貴弁財天、本堂の横には子育て地蔵尊(下写真)、また寺の栞には、薬師如来の記述もある。
ところで名称の「天台宗砂尾山橋場寺不動院」の“砂尾”、“橋場”が気になった。
古くこのあたりは、石濱荘といい、治承4(1180)年8月挙兵した源頼朝が石橋山の戦いに敗れ、安房国(千葉)に船で渡り、上総広常と千葉常胤の参集を受けて再起を図った折、隅田川に浮き橋を架けて渡河し、豊島に陣を敷いた。
また、太田道灌が長橋を三條架けて、兵を進め、下総・千葉を攻めた。
など、“橋場”の地名の由来が諸々ある中に、
むかし、砂尾修理太夫という者が砂尾に住んでおり、太田道灌と合戦した。それを石濱の戦という。その砂尾が建立した寺が、天台宗砂尾山不動院橋邊寺という。
と書かれている。
また、
石濱城は、千葉實胤(1442-1466)以来歴代の居城だったが、天正の末に廃された。総泉寺はその旧地にあるという。総泉寺中興の開基は實胤の子・守胤で、再中興の開基は佐竹義宣。天正18(1590)年豊臣秀吉の小田原攻めのとき、徳川家康に旗竿を献上したことから、家康江戸入国にあたり、御札朱印と2万8千坪の寺地を給わった。
という記述も見える。
そういえば、江戸絵図には、不動院に接して大きな寺域を持つ「総泉寺」がある。
曹洞宗江戸三箇寺のひとつだったが、関東大震災で罹災し、板橋区へ移転したという。
不動院近くの名所として、平賀源内の墓や妙亀塚があるのは、その総泉寺の寺域だったからだ。
(真言宗豊山派金剛院の般若心経)
5>砂尾山橋場寺不動院「布袋尊」ご朱印
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