徒然なるままに ~ Mikako Husselのブログ

ドイツ情報、ヨーロッパ旅行記、書評、その他「心にうつりゆくよしなし事」

スペイン・アンダルシア旅行記 II(2):グラナダ~アルハンブラ宮殿

2018年06月08日 | 旅行

マラガの次の目的地はグラナダのアルハンブラ宮殿でした。グラナダには去年も行ったのですが、前売りチケットを買わなかったためにアルハンブラ宮殿に入れなかったので、今回はそのリベンジでアルハンブラ宮殿のみに焦点を当ててグラナダに訪れました。

ホテル

5月の初めにGetYourGuideというサイトで6月2日のアルハンブラ・ツアーをブッキングし、ホテルはアルハンブラの中央入口から徒歩2~3分のところにある Hotel Alixares を予約しました。Booking.comというサイトの割引があっても、お値段は高めで、2人2泊朝食付きで220€でした。テラス付きの部屋だと追加料金25€かかるようです。改装して間もないそうで、どこも真新しい感じでした。内装にはアルハンブラ宮殿のモチーフや写真がふんだんに使われており、アルハンブラのイメージに相応しいホテルと言えます。朝食ビュッフェも四つ星ホテルに相応しい豪華さでした。私たちが泊まった部屋はプールの見える部屋でした。

  

朝食 ↓ サラダやフルーツ、温かい料理が豊富。

 

アルハンブラ見学の合間にホテルに戻って頂いた昼食ビュッフェ(一人16€、飲み物は別料金)もなかなかでした。

 

 

アルハンブラ見学

6月2日の英語ガイド付きアルハンブラツアーの見学ルートは、ヘネラリーフェ(Generalife、上の青い部分)→アルカサーバ(Alcazaba、左下の△に近い形の部分)→パルタル宮殿(El Partal、中央部のナスリ朝宮殿の隣)を含む庭園で、3時間。残念ながら一番豪華な王宮部分のナスル朝宮殿(Paracios Nazries)はルートには含まれていませんでした。ナスル朝宮殿が含まれているツアーは5月初めに既に売り切れになっていたので。。。(´;ω;`)

ツアーの集合場所は Plaza Nueva の近くで、そこから歩いてアルハンブラへ登り(バスまたはタクシーで正門まで行った人たちもいた)、さらに上記ルートを休憩なしで見学したため、ツアー終了後は足が棒になってしまい、終了地点のパルタル宮殿の池の前のベンチに座り込んだまましばらく動けませんでした。

グラナダ市街地からアルハンブラへ登る道の最初の門、グラナダス(ザクロ)の門(Puerto de las Granadas) ↓

大量の観光客のために舗装されたアルハンブラへの道 ↓

Pilar de Carlos V ↓

Generalife

ヘネラリーフェは夏宮殿で、アルハンブラ城塞都市の北西にあるさらに高い丘の上にあります。建物自体はそれほど豪華ではありませんが、たくさんのパティオを含む美しい庭園が見ものです。

Jardines Nuevos del Generalife(ヘネラリーフェの下の庭園、元は果樹園)↓

  

バラのアーチが美しい! ↓

Patio de la Acequia ↓

 

Sala Regia の天井 ↓

Patio de los Cipreses ↓

 

Alhambra(アルハンブラ)

アルハンブラとは城壁に囲まれた王城を含む一つの都市です。遺跡しか残っていない区域もありますが、モスクの跡に建てられたサンタマリア・アルハンブラ教会や元聖フランシスコ修道院のホテル(Parador de Granada)、カルロス5世宮殿(現在博物館)の他、お土産物ショップなどがある、裁きの門(Puerta de la Justicia)に近い門から無料で入場できるエリアもあります。

ヘネラリーフェとアルハンブラを結ぶ糸杉の並木道(セカーノの散歩道)↓

Parador de Granada(パラドール・デ・グラナダ・ホテル、元聖フランシスコ修道院)↓

   

サンタマリア・アルハンブラ教会 ↓

 

モスク(現サンタマリア教会)の隣にあったハマム(浴場の遺跡)↓

  

カルロス5世宮殿の西側ファサード ↓ (ナスル朝の都をカトリック化するための布石として建てられた宮殿)

 

個人的に非常に変な建物だと思います。建物全体は正方形で、その中に円形の中庭があり、それをぐるっと囲む柱廊が特徴的です(下の写真はドイツ語版ウィキペディアより借用)

 

アルカサーバ(Alcazaba)

アルカサーバはカルロス5世宮殿の向かい側にある葡萄酒の門(Puerta del Vino)を通って、アルヒベの広場(Plaza de los Aljibes)を横切ったところにあります。内側と外側の二重構造で、内側は積石の様子からローマ時代のものと推測されています。アルカサーバの舳先ともいえる堡塁は15世紀ナスル朝時代に増築されたものです。外敵よりも朝廷への謀反に対してにらみを利かすためにグラナダ市街地に向かって砲台が置かれていたそうです。外側の構造の一部(桶の塔、城壁前庭、警備用通路の埋め立て部分)はキリスト教徒による増築部分です。アルヒベ(貯水槽)の広場は元は窪地で、1549年のキリスト教徒による征服後に貯水槽を作るために埋め立てられました。

  

アルカサーバから見下ろしたグラナダ市街地 ↓


パルタル(Partal)

パルタルはナスル朝宮殿に隣接している建物と庭園の総称で、「貴婦人の塔」はアルバイシン地区及びヘネラリーフェの庭園、さらに池の水面に映る柱廊(パルタル)を見渡せる豪奢な望楼です。庭園は標高差のある地形を利用した「空中庭園」及びヘネラリーフェに繋がる広大な庭園で、かつては優美な邸宅や華麗な宮殿が立ち並ぶ緑地だったそうです。

パルタルの入り口に行く途中、壁を隔てて見えるナスル朝宮殿のライオン宮。星型のような屋根はアベンセラッヘスの間の屋根で、その天井はムカルナスと呼ばれる小さな尖った窪みが層を成して繰り返す形式の装飾が施されています(外からはもちろん見えませんけど(´;ω;`))

四角い池に面した貴婦人の塔の柱廊 ↓ (すでに天候が崩れ出しています)

  

貴婦人の塔の脇にある祈祷室 ↓

この場所でアルハンブラツアーが終了しました。ツアーに含まれていなかったナスル朝宮殿(Paracios Nazries)を見学しようと、ナイトツアーのチケットを入手しようとしましたが、とっくに売り切れでした。一日の入場人数には制限があり、一日分のチケットの35%は現地発行の当日券という情報を読んだので、6月3日の朝一番でナスル朝宮殿のチケット入手に再度トライしてみましたが、「売り切れです」の一言。ナスル朝宮殿以外の入場券ならあるとのことでしたが、前日に既に見学済みでしたので、諦めるしかありませんでした。ナイトツアーとかも含めて前日売り切れ。一体どのくらい前から前売り券を買っておかなければならないのかと驚くばかりです。

パルタルの庭園 ↓

    

パルタルの庭園に限らず、アルハンブラにはたくさんネコが住み着いているようです。

 

 

サクロモンテ

6月2日は午後から天候が崩れ、雨が少々降りましたが、予報されていた雷雨は来ませんでした。翌日はよく晴れて、絶好の遠足日和となりました。ナスル朝宮殿の見学ができないと分かった時点で、代わりにサクロモンテの丘に建つ古い教会を見てからグラナダを出て次の目的地のアルメリアに向かうことにしました。

サクロモンテは谷を挟んでアルハンブラの向かい側にある丘で、洞窟住居があるところでもあります。その丘の頂上に建つ小さな教会は La Ermita de San Miguel Alto といい、隠者の僧院らしく地味な作りで、以前イスラム教の塔があった場所に1671年に建設されました。19世紀にナポレオン占領下で教会は一度破壊されましたが、その後再建され今に至っています。中を見学することはできませんが、グラナダ市街地とアルハンブラ、さらにシエラネヴァダまで一望できる素晴らしいパノラマを堪能できます。

   

 

スペイン・アンダルシア旅行記 II (3):シエラネヴァダ山脈


スペイン・アンダルシア旅行記(1)

スペイン・アンダルシア旅行記(2):セビリア

スペイン・アンダルシア旅行記(3):モンテフリオ(グラナダ県)

スペイン・アンダルシア旅行記(4):グラナダ

スペイン・アンダルシア旅行記(5):グアディックス(グラナダ県)

スペイン・アンダルシア旅行記 II(1):マラガ


スペイン・アンダルシア旅行記 II(1):マラガ

2018年06月08日 | 旅行

 

第2回アンダルシア旅行に行って参りました。

今回の旅程は、5月30日~6月7日の8泊9日で、マラガ・グラナダ・アルメリア・アルムニエーカルの4か所にそれぞれ2泊しました。

最初のロケーションは空港のあるマラガ。Norwegian Air でデュセッルドルフ空港から20時20分に出発(予定だったところ30分遅延)し、真夜中にマラガ空港に到着してそのままタクシーでホテルに直行。

ホテル

泊まったホテルは港およびツーリストインフォや旧市街に近接したホテル ヴェネシア(Hotel Venecia)という三ツ星ホテルでした。

朝食ビュッフェは三ツ星ホテルとしてはレベルが低く、どちらかというと二つ星のバジェットホテルみたいでとても残念。肉よりは野菜や果物が食べたい場合や乳製品アレルギーがあって、ヨーグルトや牛乳をかけて食べるシリアルなどを食べられない場合、何も食べるものがない感じです。パンも3種類くらい置いてありましたが、甘くないのは1種類だけで、ぱさぱさして全然美味しくありませんでした。これで二人1泊89€はぼったくりな気がします。老舗と言えば聞こえはいいですが、要は色々と設備が古いということで、調度品が古いのは気になりませんが、水回りのさびつきなどから分かる古さや使いづらさはがっかりですね。

マラガについて

マラガ(Málaga)はアンダルシア自治州でセビリアに次ぐ2番目に大きな都市です。地中海に面した「コスタ・デル・ソル(Costa del Sol、太陽海岸)」に位置しており、 シエラ・デ・ミハス(Sierra de Mijas)及びモンテス・デ・マラガ(Montes de Málaga)という山脈に囲まれています。南北を軸に流れるGuadalmedina川によって東西に二分され、主に東側の旧市街に観光スポットが集中しています。

紀元前8世紀にフェニキア人によって創設された港町マラカ(Malaca)がこの町の始まりです。その後長い間カルタゴの支配下にありましたが、ローマがカルタゴに勝利した紀元前206年以降はローマの重要な貿易拠点となります。しかしマラガの最盛期はモーロ人の支配下で、グラナダの海の玄関口として機能していた711年から1487年までの期間です。リコンキスタによってキリスト教徒の支配下になってからは大分廃れてしまったそうですが、19世紀に「マラガワイン」の人気が出て栄えたようです。その後ブドウネアブラムシの異常増殖によってブドウの木が破壊されてしまい、ワイン生産は一気に減少したとのことです。

1936~1939年のスペイン内戦においては共和国側に属していたマラガは最前線となり、1937年2月のマラガの戦いにおいてフランコ麾下のナショナリストたちによる大虐殺が起こった場所でもありますが、現在は冬のバカンスのロケーションとして人気があるそうです。

マラガは「ゲルニカ」などキュービズムの画家として有名なパブロ・ピカソの生地でもあり、ピカソ美術館(Museo Picasso)もあります。ピカソの生家はピカソ財団の所在地になっています。

 

観光

さて、まずは港周辺を探索しました。天気は快晴でしたが、風があるためかさほど気温が高くなくて、歩き回るにはもってこいの気候でした。


港に平行して作られた公園の散策道 Paseo del Parque はアラビア風の噴水や池が所々に作られていて、さながら王城の庭園のようです。港と公園の間に車道があるので、静けさは味わえないかもしれませんが、真夏に涼むにはいい場所なのではないでしょうか。

 

  

港の規模は中程度なのではないでしょうか。歩いて回るには大きすぎますが、ハンブルクのような大規模な港ほどではありません。散策道やちょっとした公園、それにレストラン街(Muelle Uno)や海洋博物館などがあり、結構楽しめるスポットだと思います。

レストラン街(Muelle Uno)から見た港 ↓

 

レストラン街(Muelle Uno)から見た旧市街 ↓

レストラン街(Muelle Uno)から見たアルカサーバ(要塞) ↓

マラガ港 ↓

灯台 レストラン街(Muelle Uno)    

白い波のような屋根(といっても隙間があるので雨をしのげるわけではなく、少し影をつくる程度)のある遊歩道の終点とレストラン街の通りが交差する地点になぜか「ポンピドゥーセンター(Centre Pompidou)」なる奇妙なキューブ型の建物があります。外見が目立つので写真を撮りましたが、中がどうなっているのかは分かりません。

ポンピドゥーセンター

海水浴場は港に隣接していて、砂浜の長さはかなりのものです。まだメインシーズンではないので、さほど混雑はしていませんでした。

 

港と海水浴場を見た後、一度ホテルに戻ってから旧市街の方へ昼食を食べに行きました。

メイン通り ↓

レストランは大抵脇道にあります。

私たちが食べたレストランは「Meson de la Alegria」というところで、パエリアは作り置きでないため、注文してから25分かかりました。二人分のミックス・パエリア(肉と魚の両方入っているので「ミックス」)。

 

取り皿は素敵な花柄。

 

デザートはフランというプリン。

チップも含めてトータル47€。ランチとしては割高になりました。

夕方は旧市街を散策し、19時からあるという英語ガイド付き徒歩ツアーに参加しようと集合場所に行ったのですが、参加者不足だからやらないとのことでした。それで翌日の11時に毎日あるはずの別の英語ガイド付き徒歩ツアーに参加しようとしたら、「今日はやらない」と言われてしまい、仕方ないので City Sightseeing という24時間乗り降り自由の赤い観光バスを利用することにしました。ツーリストインフォでもいまいち正確な情報を得られないのは不便ですね。

さて、旧市街の中心には大聖堂(Catedral de Malaga)があります。キリスト教の国ではごく普通のことですが。この教会の建設は1528年にディエゴ・デ・シオエによって開始されましたが、長期にわたって建設されたこともあって、いろんな建築様式がかなりミックスされており、また二つ目の塔が未完成のままになっているのも面白いです。大きく豪華に始めて、予算が足りなくなって中途半端に終わってしまったプロジェクトの典型的な例と言えます。

   

マラガのアルカサーバ(Alcazaba、要塞)は、ローマ人居住地跡に8世紀から11世紀の間に建設されました。この要塞の海とは反対側にある窪地には1951年に発見されたローマ時代の円形劇場があります。アルカサーバの入場料は2.20€。豪華とは言えませんが、町と港が一望でき、また、キリスト教徒の要塞にはないイスラム建築ならではの庭園の優雅さが堪能できます。考古学博物館の展示物が興味のある方には面白いかも知れません。

 

マラガの町のモデル ↓

 

アルカサーバから見た港 ↓

 

アルカサーバから見た Castillo de Gibralfaro ↓

 

Plaza de Armas

 

門にローマ時代の柱が転用されている ↓

 

アルカサーバの中庭 ↓

  

       

 

マラガ旧市街の主要広場の1つ、Plaza de la constitucion(憲法広場)↓

 

晩ごはんはなかなか気に入ったレストランが見つからず、適当なところ(La Taperia de Sybaris)で手を打ったのですが、食前酒として頼んだ Vermut に少々悪酔いしてしまい、折角頼んだタパスもあまり食べられませんでした。Vermut は甘みがあっておいしいのですが、アルコール度数は結構あるので、疲れて空腹のところに飲んだのがよくなかったみたいです。写真を撮ったのは最初に来たタパスのみ。

  

 

翌日は観光バスでヴィラの立ち並ぶ丘を登り、Castillo de Gibralfaroというお城に行きました。こちらも入場料は2.20€でした。

  

カスティロ・デ・ヒブラルファロ(Castillo de Gibralfaro)は「灯台の立つ岩の城」という意味で、135mほどの丘は古代から要塞として使用されてきました。その古代の遺跡を新たに要塞化したのは後ウマイヤ朝の第8代アミールにして初代カリフのアブド・アッラフマーン3世(アミール在位:912年 - 929年、カリフ在位:929年 - 961年)でした。その後グラナダのアミール、ユースフ1世(在位:1333年 - 1354年)が在位中に改築し、宮城施設を拡張させました。二重の城壁に守られた要塞城です。1487年にカスティリャ王国のイザベラ1世とアラゴン王国のフェルディナンド2世のペアが3か月の攻城の末にこの城を陥落させました。

     

要塞ですので、憩いの場的な場所はあっても、大部分は城壁からなる建築物です。歴史に興味のある方は中の情報センターを見るのも面白いかも知れませんが、基本的には高い所からの展望を堪能する以外にさほど見どころはありません。

お昼ご飯は前日に海岸で見たイワシの炭火焼きを食べるために海岸へ行きました。街中では焼いているところはないようでしたが、海岸では数件レストランの外で炭火焼きしているところがあり、お昼時(14時前後)には行列ができてました。

 

  

3件目のレストランでようやく席が取れて、お目当てのイワシの炭火焼きにありつけました。😋😋😋 前菜にはアンチョビとトロピカルサラダ、デザートにはチョコレートケーキを頂きました。とっても満足 😊

   

この後にマラガ駅でレンタカーを借りて、グラナダへ移動しました。

マラガは「一生に一度のヨーロッパ旅行」に相応しい観光地ではありませんが、気軽にスペインに行ける人にとってはなかなかいいところだと思います。


スペイン・アンダルシア旅行記(1)

スペイン・アンダルシア旅行記(2):セビリア

スペイン・アンダルシア旅行記(3):モンテフリオ(グラナダ県)

スペイン・アンダルシア旅行記(4):グラナダ

スペイン・アンダルシア旅行記(5):グアディックス(グラナダ県)


ドイツ、バートノイエンアールのアールテルメ(温泉スパ)

2018年03月25日 | 旅行

がん治療が終わって、段階的復職を始めましたが、療養を兼ねて温泉に行きたいと思っていて、その念願を昨日(3月24日)に果たすことができました。行き先はうち(ボン)からほど近いバートノイエンアール(Bad Neuenahr)という伝統ある保養地のアールテルメ(Ahr-Thermen)というところです。地下359メートルのところから湧き出る温泉水を利用したスパ施設で、アール・リゾートというホテルやカジノが隣接しています。

私たちはプール、サウナ、30分の背中マッサージ、サウナセレモニーとなぜかシャンペン1本がセットになったプログラムチケットを前売りで124€で買いました。バラバラに買った場合の総額は130€を超えるので、セットだと若干お得ですね。バスタオル、バスローブ、ビーチサンダルは持参しましたが、タオルとバスローブはレンタルも可能です。

プールエリアは広々としていて、いくつものプールがあり、時間さでウイールプール仕様になるので、噴流の出るところを追いかけるようにプールを移動するなんてこともしました(笑)中には足を延ばして座ると丁度頭が出る感じのプールもあります。水温は基本的に31℃ですが、小さめの37℃のプールというか丸い浴槽が4つあります。その温度の高い所には5分以上浸かるのはお勧めできないそうです。

一番大きいプールは外にもつながっています。昨日の気温はせいぜい10℃くらいでしたが、外に出ても水中にいる限りは寒いとは感じませんでした。

レストランでの飲食は入り口でもらうアームバンドに入っているチップに料金がチャージされ、施設を出る時に清算します。飲食のためにわざわざお財布を持ち歩いたり取りに行ったりしなくていいところが便利ですね。レストランは味はまあまあで、量はたっぷり、値段は普通という感じです。メインの料理が10~14€、コーヒーや紅茶が2€位。リゾート地にありがちな割高感はありませんでした。

さほど混んでいなかったのでビーチチェアも問題なく使うことができ、ごろごろしながら読書もしてました。

マッサージ用のキャビンは上の階にあります。色んなマッサージメニューがありますが、標準的な背中のマッサージは20分20€、30分30€です。

サウナエリアは地下と戸外(サウナ村)で、地下の施設はまあ普通な感じですが、戸外のサウナ村はなかなかおしゃれな感じでした。

「サウナセレモニー」は毎日14時と19時にあり、プログラムは日替わりで、電話での予約が必要です。水曜日と金曜日の夜はかなり混むそうです。私たちの選んだ土曜日夜の「リラックス(Entspannung)」プログラムは総勢6名でゆったりとプログラムを堪能できました。

「サウナセレモニー」は戸外のサウナ村の「イベントサウナ」というサウナ小屋で催されます。休憩も含めて大体2時間かかります。

「リラックス」のプログラムは3ラウンドあり、第1ラウンドではポルトガルオレンジのフレグランスがサウナストーンにかけられ、スタッフがアロマを行き渡らせるために濡れタオルで扇いでくれます。その後に海藻コラーゲンのパックを顔に塗ってもらいます。首やデコルテには自分で塗ります。その後またフレグランスを入れて、スタッフがタオルを扇いで二回りして、第1ラウンド終了です。休憩のために外に出て、お茶をいただきます。

第2ラウンドではメリッサのフレグランスが使われました。タオルで扇ぐのは第1ラウンドと同様です。スキンケアは、砂糖とオレンジオイルのピーリングで、スタッフが背中をケアしてくれます。後はご自分でどうぞ、と砂糖とオレンジオイルのピーリング剤を掌にたっぷりと載せてくれます。これで肘や膝や踵などを重点的にこすったりします。第2ラウンド終了後の休憩にはフルーツサラダが今日されます(冷たくて美味しかった!)

第3ラウンドでは白檀とシトラスのフレグランスで鎮静効果を高めます。タオルで扇ぐのは第1・2ラウンドと同様です。スキンケアは保湿ローションで、スタッフが背中に塗ってくれます。残りは自分で塗ります。第3ラウンド終了後は軽食とウエルネスドリンクが出てきます。

サウナの中でスキンケアというのが面白いですね。とっても気持ちよかったです。お肌も全身すべすべになりました

サウナセレモニーは一人11.50€で、とってもお得なお値段です。ただし、参加者が3人そろわないと開催されません。

サウナとは別にスキンケアやマニキュア、ペディキュア、脱毛などの美容プログラムも充実しているようです。機会があれば試してみたいですね。

サウナセレモニーの後はまたプール。軽くシャワーを浴びても、プールに入っても、石鹸を使わない限り保湿ローションの保護フィルムは有効のようです。昨日は午後2時頃にテルメに入って、出てきたのは閉館間際の10時50分でした。9時間近く滞在して、セットプログラム124€プラス飲食費約38€、駐車料金13€(後日調べたところ、テルメ利用客には特別料金があり、たったの2.50€で済むことが判明しました)、合計約175€の出費となりました。一人当たり87.50€は安くはありませんが、お値段に見合うだけの体験ができたと思います

写真は全てアールテルメのホームページからの借用です。

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スペイン・アンダルシア旅行記(5):グアディックス(グラナダ県)

2017年05月22日 | 旅行

スペイン・アンダルシア旅行記もいよいよ最終章となりました。最後を飾るのはグラナダから東へ約60㎞の高原にあるグアディックス(Guadix)です。旅行記の最後を飾りはしますけど、ここが旅行の最終ポイントだったわけではありません。旅行記(1)でも述べましたが、最初にセビリアに1泊してからグラナダに向かい、そこに3泊してまたセビリアに戻って3泊という旅程でしたので。

グアディックスはグラナダからの「遠足」みたいなものです。同じグラナダ県ですし。ただ、60㎞も離れていれば天気も違うかもと期待して、雨の降るグラナダ市を離れて遠出したのですが…

天気はもっと悪かったというか、高原なだけあって、気温が低く(9℃くらい)、いきなりドイツに引き戻されたようで、凍える羽目になりました。

それで、ここは何が見所なのかというと、「Cueva(英語のCaveに当たります)」と呼ばれる洞窟住居です。

さて、グアディックスの街に北側のAvenida de Buenos Airesから入るとすぐに目につくのが少し小高い所に建つ教会です。16世紀から18世紀に建てられたため、例によってゴシック、ルネサンス、バロック様式がミックスされています。

下の写真が教会の東側。北側に見える鐘楼とのスタイルの違いがはっきりと分かります。

天気が悪く、教会も閉まっていたので、これ以上詳しくは見ませんでした。主目的は洞窟住居でしたしね。

この教会前にツーリストインフォがあり、観光トレインもここから出ています。一人5€で、Cueva Museo(洞窟住居博物館)と展望台のある所に連れて行ってくれます。その目的地で降ろされた後、30分後にまた来るので、その時に一緒に下りるか、さもなければ歩きで下りることになると言われたので、取りあえず展望台とそのすぐ下の洞窟住居を見学しました。

この家の屋根に当たる部分が展望台になっています。

そこからの風景。分かりにくいかもしれませんが、ところどころ地中からにょっきり生えている白いまたは白っぽい穴の開いた小さい塔みたいなのが洞窟住居の煙突です。なんだかムーミンみたいに見えるのは私だけでしょうか。

 

ダンナが雨の中頑張って、ビデオにも撮ったので、カメラワークとかはあれですが、それを見れば、地形とかはもうちょっと良く分かるのではないかと思います。

洞窟住居と言っても、家全体が洞窟の中にすっぽり収まっているわけではなく、地面から出ている部分(大抵は玄関と台所)は普通の家のように屋根も窓もあり、その他の部屋が地中に掘られた穴に作られているので、遠景でちょっと見ただけでは分かりにくいかと思います。

グアディックスのこの住居形態には約2000年の歴史があります。ここには鉄、銅、そして銀山もあったそうで、その貴重な金属を求めて、古代からここに人が集まり、ローマ時代も、イスラム時代も、レコンキスタ以降も結構栄えていたようです。18世紀になって衰退し始め、洞窟住居からどんどん住民が居なくなったらしいですが、それでもまだ2000件以上人が住んでいて、ヨーロッパ最大の洞窟住居集落だそうです。

住居を改造してレストランにしたり、別荘として貸し出したりしているところもあるようです。

展望台を頭上に頂く住居、ホセの家(Cueva de Jose)は、一般公開されています。ホセさんご本人が「入ってて。ただだよ。」と招き入れてくれるのです。玄関の間は小さなショップになっていて、絵葉書やちょっとした小物、飲み物も置いてありました。その玄関の間を除けば、本当に住んでいたころのままの調度品が置かれていて、外から見ただけでは想像できない中の生活を垣間見ることができます。

  

台所。

 

ダイニング。天井部が丸いのがこの部屋でははっきりと分かります。

寝室。

 

意外と広々として、驚きました。もちろん、台所と玄関の間以外は自然光が一切入らないので、常に電気をつけていなければならないし、窓のない閉塞感というのもあるかもしれませんし、部屋と部屋がきっちりドアで仕切られているわけではないので、プライベートがないという欠点もあるでしょうけど。プライベートの問題はともかく、閉塞感に関しては、「天気がいい日が多いから、外に出れば済むこと」なんだそうです。そこらへんはやっぱりスペインだな、と思いましたね。

ポルトガルへ行った時もそうでしたが、家の中に対するこだわりがドイツ人に比べてかなり弱く、みんな外に出てるんですね。それで外には人が集まって座るところがたくさんあって。ドイツでは、お金を払わずに外で座れるところを探そうとすると結構苦労しますが、イベリア半島では違う。そういうところに気候の違いが出るのだな、となんか感心してしまいました。

展望台の上でビュービューと吹き付けて来る雨風の中で凍え、ホセさんの家でちょっとほっこりしながら見学を終えたころに観光トレインが来たので、私たちは一度下山して、遅い昼食を食べた後に、今度は車で戻ってきて、博物館の方へ行きました。

博物館は洞窟住居を改造拡張したもので、住居の構造や暮らしぶり、歴史などが分かるように展示されています。まずは玄関。スペインのどこでも見かける玄関ドアの前のカーテン。ドアを開けて風通しを良くし、カーテンでプライベートを守っている、という感じでしょうか。

玄関ドアは二つに分かれていて、上部だけ開けることもできます。こうして空気の循環をしたり、自然光を入れるのだそうです。

玄関の間にはテーブルと椅子があって、自然光の入る居間の役割を果たしていたことが分かります。

この博物館になっている洞窟住居の構造。水色で緑色の丸が書いてある部分が玄関の間。右側のオレンジや薄緑の部分と左側の紫や青の部分やその先にあるWCが拡張した部分です。

洞窟住居にはトイレはなかったので、増設せざるを得なかったそうで。確かにないと困りますものね。中世の住居ではトイレがないのが普通でしたが。今は寝たきり患者くらいにしか使用しない持ち運びのできる便器が当時は普通にベットの下に置かれていたんですよね。ドイツ語ではBettpfanne(ベットプファンネ)と言い、その名Pfanne(フライパン)の通り、丸い金属製の蓋つき便器。そういうものがスペインでも普通に使われていたようです。洞窟住居では結構長いこと(19世紀まで)それだったそうで…

台所は玄関の間のすぐ左で、窓があります。この玄関と台所で空気の流れを作り、換気するのだそうです。これは洞窟住居の基本です。その後ろをどれだけ深く掘って、何部屋作るかはそれぞれですが。

台所。

この台所のかまどの使用済みの灰を専用のお皿に取り分け、隣の玄関の間のテーブルの下に置いて、暖房したんだそうです。

 

寝室に至る中間の部屋。色んな道具が展示されてます。

その奥の寝室。

キッチンの奥の貯蔵庫と元家畜部屋(今は道具類を展示)。

 

家畜を中で飼っていたというのには、少なからず衝撃を受けました。毎朝一番に家畜の寝藁を外に出して取り替えていたから、臭いはそれほどでもなかったはずだとのことです。

色んな資料があって、結構じっくりと読んでたら、同時に入館した人たちが誰も居なくなってました。( ̄∇ ̄;)

博物館の近所でなかなかしゃれた家を見つけました。改装したばかりのように見えました。

 

一見その後ろに家が続くのかのように見えましたが、単なる飾り壁で、その後ろには何もありませんでした。( ´∀` )

 

余談ですが、グアディックスは田舎のためか、商店街は午後1時半くらいから17時までクローズでした。レストラン以外は本当にどこも開いてなくて、祭日かと思ったくらいでしたが、単に昼休み中とのことで、17時からまた開店する、と聞いてびっくりでした。

スペインでは生活時間帯がドイツとはずれていることは既に学習済みでしたが、セビリアやグラナダではお店が閉まっているのを見たわけではなかったので、「昼ごはんが遅くまで食べられる」程度の認識だったのですが、それはつまり「遅くまで昼休み」ということを意味しているのだとここではっきりと認識したわけです。

色々と勉強になりました。グラナダ地方ではずっと天気が悪くて、とても残念でしたけど。

 


スペイン・アンダルシア旅行記(1)

スペイン・アンダルシア旅行記(2):セビリア

スペイン・アンダルシア旅行記(3):モンテフリオ(グラナダ県)

スペイン・アンダルシア旅行記(4):グラナダ


スペイン・アンダルシア旅行記(4):グラナダ

2017年05月20日 | 旅行

薄闇に包まれつつある中、山道をくねくねと上り下りしながら、モテフリオからグラナダ市に向かいました。グラナダ県首都で、人口約24万人ほどの地方都市ですが、紀元前500年頃に既にフェニキア人とイベリア人の居住地として文献に言及されているくらい歴史の古ーい町です。紀元前500年と言えば、アンダルシアを支配していたタルテソス王国がカルタゴに滅ぼされた頃ですね。ローマ人による支配が700年、西ゴート族による支配が300年弱。そして711年から1492年までイスラム教徒の支配下にあったグラナダは、イベリア半島最後のムスリムの砦だったわけで、500年以上経った今でもそのイスラムの影響が濃厚に残されており、そのイスラム文化の頂点を成すのが、かの優美なアルハンブラ宮殿と言えるでしょう。

このページ最初の写真はそのアルハンブラ宮殿の中のPatio de los Leonos(ライオンの中庭)ですが、私が撮影したものではありません。ちょっと状況を甘く見てまして、旅行前に忙しかったこともあって、アルハンブラ宮殿の前売りチケットを買うように観光ガイドブックでも推奨されていたにもかかわらず、前日くらいでも何とかなるのではないかと思って、チケット買わなかったんです。で、いざグラナダに着いて、ツーリストインフォで聞いてみたら、「No chance」と言われる始末。ネットで調べてみたら、実際に5月21日くらいまで前売りチケットが売り切れになってました。

フェースブックのお友達の中には、1時間くらい並んだら入れた、という人もいたのですが、私のダンナは並ぶのが超・超・超嫌いな人です。時間が経つほどどんどん不機嫌になっていく人の隣で、1時間も耐える忍耐力は私にはありません。というわけで、今回はダルロ川を挟んだ対岸のアルバイシン地区からアルハンブラ宮殿を眺めることで良しとしました。元々何回かに分けてアンダルシア旅行する予定でしたので、次回にはしっかり前売りを買って、アルハンブラ宮殿とその美しい庭園を堪能する予定です。

下の写真はアルバイシンの丘の中腹あたりのMirador de los Carvajalesというちょっとした展望台から撮影したアルハンブラ宮殿。

次の写真はアルバイシンの丘の上の展望台になっているMirador de San Nicolasから撮影したアルハンブラ宮殿。

外側から見ると中の優美さが想像できない、要塞色の濃い外観です。まあ、実際要塞でもあったわけですが。王と貴族たちの街で、庶民から隔絶した世界です。その意味ではフランスのベルサイユと比較できると思うのですが、高台という立地と頑丈な壁に囲まれた要塞機能は、いかにも中世の戦略的な城という感じです。

アルハンブラ自体の長い歴史などは今度中に入ったときに旅行記に書くことにしまして、対岸のアルバイシンに目を向けましょう。

私たちはこの地区を無料のガイドさん付き散歩ツアーに参加して回りました。残念ながらガイドさんはあまり英語ができず、いろんな説明が不十分になりがちでした。定期的にやっているなら、もうちょっと英語での説明を準備して来ても良かったのでは、と思わずにはいられませんでした。無料と言っても、ツアー後にチップを払うことになっています。私たちは1人5€払いました。

ツアーのスタート地点はPlaza Nueva(新しい広場)。

 

そのすぐ近くにあるIglesia de Santa Ana(聖アンナ教会)。特にすごい教会というわけではないのですが、鐘楼などにイスラム建築の影響が色濃く見られます。

この教会の前にかかっている橋を最後にダルロ川は地下に隠れます。この教会の川を挟んだ左側がアルバイシン地区になります。

Casa de los Pisaの中庭。中庭に噴水と言うのがイスラム風ですが、16世紀に建設されたピサ家のパレスで、1550年にここで亡くなったという聖人、San Juan de Diosの追憶に包まれているそうです。現在は宗教美術館。

こんな狭い路地を通りながら、徐々に丘の中腹へ。

 

La granada(ラ・グラナダ)は「ざくろ」を意味します。この為、グラナダ市中では至る所にザクロを形どった杭のようなものや、電柱を見かけます。また通りの名前を示すタイルにもザクロが描かれています。

 

グラナダ市内にはローマ時代の水路や天水桶の他、イスラム教徒たちの時代に敷かれた水路もあり、複雑な水系を形成しているそうです。特にアルバイシン地区には公衆の水場が数多くあり、しかも飲み水だそうです。

ガイドさんの話によると、以前どこぞの大企業がグラナダ市の水道事業を買収しようとして、市と住民に水の供給路に関してしつこく聞き回ったらしいのですが、自分たちの水を取られたくなかった住民は誰一人として、その水路の秘密を明かさなかったとか。誰も正確なところを知らなかった、と言うのが真相なのではないかと考えられなくもないですが。

この水場の上が前述の展望台というかちょっとした広場のMirador de los Carvajalesです。

ここから結構下ったところにParroquia de San Gregorio Bético(聖グレゴリオ・ベティコ牧師館)があり、その前は結構にぎわいのある広場(Plaza San Gregorio)で、カフェやレストランがあります。

このPlaza San Gregorioから商店街と言うのでしょうか、狭い路地にごちゃごちゃと小さいショップがひしめいています。必ずしも地元のものを扱っているわけではないので、お土産を買う時は要注意かも。素敵なイスラム風のスカーフだなと思ってみたら中国製だったり、インドの織物とかもありした。

この通りを降りていくと、アルバイシン地区を出て、チェントロ(中央)地区に入ります。

途中で立ち寄った生鮮市場Mercado San Agustinで地元ワインVermutを頂きました。名前の由来はドイツ語のWermut(ニガヨモギ)らしいですが、白ワインをベースにした香草入りフレーバーワインで、食前酒として好まれているものです。

 あんまりおいしかったので、お土産に1本(0.75ℓ、4€)買いました。

チェントロ地区の一番の見ものはLa Catedral de Granada(グラナダ大聖堂)です。徒歩ツアーはここで終了でした。

私たちは昼休憩をして(食べたものの解説は、「スペイン・アンダルシア旅行記(1)」にまとめてあります)、ちょっとCorral del Carbónという隊商宿跡に寄りました。

特に何があるというわけではないのですが、この中庭に入ると街の喧騒がほとんど聞こえなくなるんです。中庭の真ん中に石柱2本に挟まれた水場があり、ラクダや馬などにここで水を飲ませたと思われます。1336年以前に建設され、メインモスク(現在グラナダ大聖堂が建っている位置)に行く人たちのための市も開かれていたそうです。建築様式はオリエンタルモデルに相応しますが、ディテールの装飾などはグラナダ独特のスタイルらしいです。またこの場所は実はムスリム支配よりずっと以前から市場として使われており、その起源はギリシャのアゴラにも遡れるとのこと。

色んな所に行って、そこの歴史とかをそれほど詳しくはないにせよ学ぶたびに思うのですが、時代や支配者が変わっても、その場所の根本的な機能が不変であることがよくあります。地形的なもの、地政的なもの、水利とか、すでにできてしまっている街道とかの関係かもしれませんが、支配者の居住する場所や、宗教的に重要な建物(教会やモスクなど)が建てられる場所や、市が立つ場所などが変わらなかったりするんですね。

とまあ、ちょっとばかり遠い過去へ思いを馳せた後に、大聖堂の中を見に行来ました。

大聖堂は困ったことに、周りが建物で囲まれているため、全容が掴めないくせものです。既に書いた通り、グラナダで最大だったモスクの跡地に当然のように建てられました。これにはもちろん政治的意味があります。モスクの上にキリスト教会が建つのですから。

 

セビリアの大聖堂もそうでしたが、シンプルな大聖堂ではなく、建物の複合体なため、ますます訳が分からない感じです。この建物の一番古い部分は南側の1517年に完成したCapilla Real(王家チャペル)ですが、実は18世紀まで増築があり、建築様式はゴシック、ルネサンス、バロックが混じってます。ここにはアラゴンのフェルディナンド2世とカスティリアのイザベル女王、その娘ホアンナとその夫であるハプスブルク家のフィリップなどのお墓があります。下の写真に写っている部分はゴシック様式だけのような気がするのですが…

 

Capilla Realと同じ側に隣接しているのがIglesia del Sagrario(サグラリオ教会)で、普通の教区教会として使われてますので、入場料なしに入れます。

  

お隣の大聖堂に比べれば小さいですが、これはこれでなかなか素敵な教会です。柱と天井のアーチが優美です。

複合体の建物の図解。

1.大聖堂

2.Capilla Real

3.Iglesia de Sangrario

4.聖具室

 

 

 

 

 

さて大聖堂の方ですが、礎石が置かれたのが「グラナダに豪華な大聖堂を建設すべし」と命令したイザベル女王の死後で、1523年のことでした。何度も建築家が交替し、設計図も何度か改変され、最初ゴシック様式だったのが、途中ルネサンス様式のバシリカに変わり、ファサードはバロックになってしまう程長い期間(181年間)かけて完成されました。

大聖堂の入場料は5€。オーディオガイドを貸してもらえます。中に入ってすぐに感じることは「白い」「明るい」ということでしょうか。光の教会です。

そして2台あるキンキラキンのパイプオルガン。Leonardo Fernández Dávilaの作品で、1740年代に作成されました。もろにバロックですね。

 

祭壇と聖歌隊席の方も豪華絢爛です。

そして身廊の両側にはずらっとチャペルが並んでます。これらのサイドチャペルは主に17-18世紀につくられたものです。

  

教会にはきれいなものばかりではなく、時に結構えぐいというかグロいものがあるものです。このグラナダの聖母大聖堂の北西(?)角に宝物保管庫のようなところがありまして、そこには豪華な法衣とかタペストリーとか燭台とか食器とかそういう価値のあるものが保管展示されています。

しかし、陳列ケースの一つにぎょっとするものが…!!!

 

近づいてよく見るまで分からなかったのですが、生首の作り物!San Juan Bautista、つまり洗礼者ヨハネの首と解説されていました。18世紀半ばのDel Peraiとかいう人の作品とのことです。戯曲「サロメ」では「預言者ヨカナン」として登場する洗礼者ヨハネですが、首をはねられ、銀皿に載せられてサロメの元に運ばれるという気の毒な最期を迎えたとされる人。だからこの不気味な作品も銀皿なんですね。キモ!

さて、大聖堂はもうちょっとゆっくり見たかったのですが、閉館時間になってしまったので、仕方なく外へ。

次はCapilla Realの正面にあるPalacio de la Madraza。マドラサはアラビア語で「学校」。ナスリ朝グラナダ王国の時代の大学だったところです。1349年にユスフ1世によって建立され、現在ではグラナダ大学に所属しています。現在の外観は主に16世紀にMudéjar様式で改築されたものです。元の建物で現存しているのは一階の祈りの間くらいです。

ここは閉館時間が少しばかり遅くて、最後の案内に間に合いました。

下の写真が美しい祈りの間。

祈りの間の手前のエントランス広間は既にクリスチャナイズされています。

二階は吹き抜けと回廊。

そして16世紀初頭に造られた「騎士たちの間」。

天井が面白い細工になってます。木片がジグソーパズルのように組まれたフレームワークはMudéjar様式、ペイント装飾はルネサンス風、1492年1月のレコンキスタの勝利・グラナダの陥落を語る金色の文字はゴシック風。

階段室は17世紀にバロックテイストが加えられたそうです。

マドラサ見学の後は、ダルロ川沿いの道Carrera del Darroをちょっと散歩しました。

Iglesia San Pedro y San Pablo

 

教会脇を通り抜けると広いテラスになったパティオ。左側にレストランが何件か並んでいます。観光客向けのお値段(割高)。

4月27日のグラナダ見学はここまで。翌日はグアディックスに行き、29日にまた少しグラナダの街を歩いてからセビリアに向かいました。

余談ですが、グラナダ市内にはあちこちにオレンジの木が街路樹として使われています。

 

結構いい感じにオレンジがなっているんですが、普通に手の届く高さには1個もありません。ガイドさんの話によると市の美化局(?)が定期的に集めているんだそうです。

アラビア語のカリグラフィーで名前を書いてくれるところも。

私の名前はこんな風に。私にはもちろん読めませんけど、カリグラフィーと言うだけあって、形状の美しさは感じられます。

これが私がグラナダで買った唯一のお土産になりました。

グラナダを出発する日、グラナダ市街地の西側にある駐車場に車を止めて、もう一度旧市街を見学することにしました。駐車場はJardines del Triunfo(凱旋公園)のちかくでした。なんか放射線状に設計された庭園に噴水とモニュメンタルな柱や彫刻があるのですが、あまり興味がわかなかったので、ちょっと見てだけで素通りした感じです。「憩いの場」という感じはしました。

そこからえっちらおっちらとまだアルバイシンの高台まで登り、物凄い息を切らしてこの記事の最初の方で言及したMirador de San Nicolasまでたどり着きました。でもそこは物凄い人だかりで…(天気で分かると思いますが、下の写真は私が撮影したものではありません)。

なかなかいい場所が取れる感じではなかったので、そのすぐ隣にあるモスクのお庭に入りました。

下の2枚の写真がこのモスクの庭から見えた風景です。

グラナダは海抜800m近くの高地にあるためか、天気も悪くて、アルハンブラ宮殿に入り損ねたことも含めてあまり満足のいく滞在ではありませんでしたが、より濃厚に残るイスラムの影響とキリスト教徒のせめぎあいで生まれた独特の「グラナディアン」の雰囲気が少しは体感できたと思います。

秋に絶対リベンジだ!と決意を新たに…


スペイン・アンダルシア旅行記(1)

スペイン・アンダルシア旅行記(2):セビリア

スペイン・アンダルシア旅行記(3):モンテフリオ(グラナダ県)

スペイン・アンダルシア旅行記(5):グアディックス(グラナダ県)


スペイン・アンダルシア旅行記(3):モンテフリオ(グラナダ県)

2017年05月20日 | 旅行

セビリアからグラナダへレンタカーで向かっていた私たちは、高速道路(Autovia)A92を東に走っていたのですが、グラナダ市の手前にモンテフリオ(直訳すると「寒い山」)という小さな村があり、崖の上に教会があって、見晴らしがよいと観光案内に書いてあったので、ちょっと寄ってみることにしました。National Geographicに「世界で最も見晴らしの良い場所」トップ10に選ばれたらしいです。

というわけで、GoogleMapに「Montefrio」と入れて、その村に向かったのですが、いつまで経ってもオリーブ畑の広がる山。変だなと思っているうちに「目的地に着きました」とのアナウンスが。えーっ!?山の中だよ!?とびっくりして、マップを拡大。

 

村は遠くはなかったけど、山道を結構戻ることになってしまいました。今度は間違いのないように、とナビにモンテフリオにある教会「Iglesia de la Villa」を入力しました。「村の教会」と言う何の変哲もない16世紀に建てられた教会ですが、立地が崖の上で、要塞の態を成しているのが面白いところです。

村の入り口に着いたところで、車から降りました。そこに住んでいる人たちは平気で狭くて急な坂を車で登っているようでしたが、よそ者の私たちにはその勇気がなく、崖の上に聳え立つ教会に歩いて行くことにしました。

車では絶対に通れない、狭い階段のある路地を登りました。

そして見えてきたのが絶壁に掘られた墓穴。そこは駐車場にもなっていて、別ルートなら車でここまで来れたことを確認して、ちょっと悔しい思いをしましたが、別ルートがどんな道か分かったものではないので、まあ良しとしましょう。

上の写真の右下に見える門が開いていれば、車で上の教会まで行けるようになっています。

私たちの徒歩ルートはこんな感じ。

勾配がきつすぎて、信じられないくらい息切れしました。距離的には大したことないはずなんですけど…

上の教会の入り口。かつてモーロ人たちの要塞だったところに、レコンキスタで勝利したキリスト教徒たちが、自分たちの勝利を形にするために何をするかと言えば、やはり「教会を建てる」のが王道だったのでしょうね。現在では中は博物館になっています。

上から見下ろしたモンテフリオの町並み。

石灰岩が多い地域なので、家の壁も石灰岩で白くて涼しそうなのが特徴的です。分かりにくいかもしれませんが、中央よりやや右側手前に移っている茶色っぽいドームに塔がついている建物は、18世紀に建てられた古典主義様式の教会、Iglesia de la Encarnación(受肉教会)です。

モンテフリオは豚肉の生産でも有名らしいのです。「イベリコ豚」の一部はここで飼育されているわけですね。小さな檻に閉じ込められたりせず、放し飼いなのが特徴的です。

 

次はグラナダ市へ。


スペイン・アンダルシア旅行記(1)

スペイン・アンダルシア旅行記(2):セビリア

スペイン・アンダルシア旅行記(4):グラナダ

スペイン・アンダルシア旅行記(5):グアディックス(グラナダ県)


スペイン・アンダルシア旅行記(2):セビリア

2017年05月11日 | 旅行

少し間が空いてしまいましたが、スペイン・アンダルシア旅行記の続編です。前回は日程、ホテル、食べ物について報告しました。今回は観光スポット等について。その前にアンダルシア地域の歴史概略をまとめておきたいと思います。歴史的蘊蓄を長々書くつもりはありませんが、概略くらいは知っておいた方が観光スポットとなっているものの位置づけや意味が理解しやすいかと思います。世の中には取りあえず有名な観光スポットに行って、セルフィーを撮って、はい次、で満足しちゃってる方も結構いらっしゃるようですが、私はいつも、なぜそこにそれがそういう状態で存在するのか、を問わずにはいられません。

歴史概略

スペイン南部の先史時代は何と100万年前から始まります。ネアンデルタール人の居住は紀元前5万年辺りから、そしてホモ・サピエンスの登場は紀元前25,000年辺り。人類発祥の地であるアフリカ大陸から近いことを考えれば当然の帰結なのかもしれませんが。

新石器時代は紀元前7000年辺りにアフリカから来た部族たちによってもたらされます。フェニキア人が通商のためにイベリア半島を訪れるころにはタルテソス王国という非常に発達した文化圏が完成していたようです。次にケルト民族が入植し、ギリシャ人もイベリア半島北部から南下し、文化的融合も混血も起こります。タルテソス王国は紀元前500年にカルタゴによって滅ぼされた、と伝説は語っています。

紀元前206年にはカルタゴと戦争するために、ローマ人も来ます。まだジュリアス・シーザー以前のローマ共和国の時代から入植・侵略が始まり、200年後にはローマ帝国がイベリア半島全土を支配下に置き、いくつかのProvinciaに分割します。現在のアンダルシア自治州にほぼ重なるローマ時代の州はベーティカ(Baetica)と呼ばれ、コルドゥバ(Corduba、現在のコルドバ)が州都でした。オリーブオイルと小麦をローマに輸出していたと記録されています。現在でもアンダルシアは高原や山岳地方までオリーブ畑が一面に広がり、ドイツの鬱蒼とした森に慣れた目にはやたらと明るく映ります。

 

ローマの支配は約700年続き、西ローマ帝国崩壊後、ゲルマン民族大移動の中で、様々なゲルマン民族がイベリア半島に入りますが、415年にイベリア半島に来た西ゴート族は王国を建立し、476年にはイベリア半島全土を支配下に置きます。西ゴート王国の痕跡はローマ帝国の痕跡よりもさらに少なく、711年に来たモーロ人によるイスラム文化に破壊されたか、上書きされています。

モーロ人の帝国は「アル・アンダルス」と言い、その支配領域は北部を除くイベリア半島で、その名称が現在の自治州に受け継がれています。アル・アンダルスの首都はコルドバ。11世紀にはこの帝国は崩壊してしまい、いくつかの小国に分裂します。1086年には北アフリカから来たイスラム教徒がアンダルシア地方にアルモラヴィド朝(別名ムラビード朝)を打ち立てます。しかし長続きはせず、12世紀には新たにモロッコから来たムワヒッド朝(別名アルモハード朝)に滅ぼされます。ムワヒッド朝はセビリアを首都としました。この時代に建立された建物(例えば黄金塔、Torre del Oro = 写真)が今日のセビリアの観光スポットのベースとなっています。

キリスト教徒によるイベリア半島の再征服(レコンキスタ)の開始は一般に722年のトバゴンダの戦いとされ、1492年のグラナダ陥落を以て終了します。レコンキスタ第3期(1213–1492)ではグラナダを首都とするナスリ朝のみが唯一のイスラム国として生き残り、カスティリア王国の朝貢国として比較的安定した地位を保ち、アルハンブラ宮殿などの豪奢な建造物を残します。セビリアやコルドバは13世紀初頭に既にキリスト教徒の支配下になりましたが、イスラム建築技術がモーロ人の工夫たちによって維持され、アルカサル(王城)を始めとするキリスト教的要素を取り入れたイスラム建築が残されました。カスティリア王ペドロ1世は34歳の短い生涯を閉じるまで、まさに「戦に明け暮れた」と言っていい人生を歩んだにもかかわらず、現在のアルカサル城(=写真)の大部分を建造しました。

彼の時代のイベリア半島にはカスティリアとナスリ朝の他にポルトガル、アラゴン、ナヴァール王国が存在していましたが、1469年にアラゴン王フェルディナンドとカスティリア女王イザベラ1世が婚姻し、1479年にアラゴン王国の後継不足により、両国は統一されます。この二人の下でレコンキスタが終了しますが、グラナダにおいて正当な支配者と認められていたのはイザベラ1世のみで夫フェルディナンドはよそ者扱いでした。だからグラナダの街中にイザベラ1世の銅像(=写真)はあってもフェルディナンドの銅像は存在しないのです。

大航海時代の16世紀、セビリアは新大陸との貿易を独占し、黄金時代を迎えます。王朝は1516年にハプスブルク家に移り、建設様式はルネサンスからバロックへ移行していきます。スペインのハプスブルク家は近親相姦が続いたためか、18世紀初頭にほぼ御家断絶に陥り、13年間にわたる後継争いが勃発。1713年にフランスのブルボン王家がスペインの王権を獲得。イギリスによって一時的にフランス人は追放されましたが、ブルボン王家がスペインに復活した後、植民地をすべて失い、アンダルシアはスペインの最貧州に転落してしまいます。20世紀初頭の内戦、フランコ独裁政権を経て、1960-70年代の経済成長の際に、アンダルシアは特に観光業の発展によって長い停滞から抜け出し、1982年には自治州に。現在スペインで最も人口の多い州ですが、高い失業率に悩まされています。

セビリアの見所

セビリアの観光スポットは大抵旧市街の中心であるSanta Cruz地区にあるので、歩いて見て回ることができます。というか、道路が狭くて入り組んでいるため、車や観光バスでは殆ど侵入不可能です。楽をしたい方はセビリア大聖堂のLa Giralda側の広場から出ている馬車を利用するとよいでしょう。1周40分位だそうです。値段は業者によって違うような気がしますが、きちんと聞いたわけではないので、分かりません。

観光バスは2系統あり、世界各国で展開している観光バスチェーン、Sightseeing(赤いバス)とローカルなTour por Sevillaという緑のバスがあります。私たちは緑のバスを利用しました。チケットは2日間有効で、一人18€(2017年5月1日現在)。スタートはTorre del Oroで、ルート1「La Sevilla monumental」という史跡巡りツアーは10-19時まで30分置き、ルート2「La Sevilla romantica/La Sevilla illuminada」は19:30-21:00までやはり30分置きにバスが出て、セビリアの夜景を楽しめます。旧万博会場のExpo del 92や旧市街の対岸にあるTriana地区やマリア・ルイザ公園など歩いて行くにはちょっと距離があり過ぎるところに行けます。バスにはオーディオガイドがついています。チケットにはさらに「Tour a pie(散歩ツアー)」も含まれています。このツアーのスタート地点はLa Giraldaの近くのPl. del Triunfoだそうです。

Real Alcázar(アルカサル王城)

青池保子の作品に「アルカサル―王城」というマンガがあります。カスティリア王ペドロ1世(作品中ではドン・ペドロ)を主人公にした歴史ロマンです。この影響で、セビリアのアルカサル王城を実際に訪れたいとずっと思っていたのですが、ようやく念願がかないました。

「アルカサル」という名称はアラビア語の「宮殿」または「王城」を意味する単語al-qaṣr /に由来します。レコンキスタでセビリアを征服した13世紀のキリスト教徒たちにとって何の戦略的意味のない、ほぼ平地に建つ要塞機能のない城は未知のものだったので、アラビア語の名称がそのまま引き継がれました。Alcázarは固有名詞ではなく、一般名詞です。トレドやセゴヴィアやアヴィラなどにあるお城も「アルカサル」です。

セビリアの元の宮殿はアルモハード朝によって建立されたもので、かなり破壊されましたが、1364年からペドロ1世によってイスラム建築の影響を色濃く受けたムデハル様式で再建・新築されました。アルハンブラ宮殿を意識して建てられたと言われています。15-16世紀にも増築されたため、ゴシックやルネサンス様式も混じってます。

入り口。開城は9時半。前売り券を買っておくと、あまり並ばずに入れます。私たちはガイド付きの見学ツアー(GetYourGuide)を利用しました。料金は日によって若干変わるようですが、私たちは一人28.60€でした。

パラシオのファサードに刻まれたペドロ1世の碑文:「最も高位の最も高貴な最も強力で最大の征服者、神の恩寵によりカスティリアとレオンの王ドン・ペドロが1402年(セビリア歴=西暦1364年)この王城と宮殿と玄関を建設させた」

 Pacio del Yeso

Salón de Embajadores (大使たちのサロン)

Salón de Embajadores (大使たちのサロン)の天井

アルカサル王城のどの部分だったかもう覚えていないのですが、ユダヤのシンボルである「ダビデの星」が入ってる装飾。ペドロ1世の異教徒に対する寛容性の表れ。ムスリムばかりでなくユダヤ教徒の工人も建設に携わっていたそうです。

これもどの部分か不明。

2階に上がるといきなりチャペル。この急激な変化に少々戸惑います。

Salón de los Tapices(タペストリーのサロン)

タペストリーは世界地図。地図の終わりに二本の柱と「Non plus ultra(これより先はなし=世界の終わり)」をラテン語で記すのがアメリカ大陸発見以前の慣習でしたが。これは世界が平らな円盤状で、海の彼方は滝になって水か落ち、その先はないと考えられていたことによります。しかしこのタペストリーはアメリカ大陸発見以後のものであるため、Nonが取り除かれ、「Plus ultra(その先もある)」(ここではUがVで代用されている)だけになっています。この二本の柱と両者を結びつけているリボンのようなものと「Plus ultra」の銘はスペイン帝国の象徴で、世界征服の野望を表現しているとか。

El estanque de Mercurio(メルキュールの池から撮影したPalacio gotico)。ガイド付きの見学ツアーはここで終わり。

Jardín de la Danza(ダンスの庭)

その他の庭

 

出口


セビリア大聖堂とGiralda

アルカサル王城から出てくるとすぐにセビリア大聖堂の塔(元はミナレット)が見えます。写真は5月1日に撮影。

全体像(4月26日撮影)

ミナレットは1198年に完成。14世紀に先端部のイスラム教のブロンズ球が十字架に代えられ、 1568年にルネサンス様式の小塔が増築されました。頂上に据えられたブロンズ像は信仰を象徴しているそうですが、この像の持つ天候旗(Giraldillo)からGiraldaと呼ばれるようになりました。セビリア大聖堂の鐘のある塔です。大聖堂は12世紀に建立されたモスクの跡地に1401年から建設され、1世紀ちょっとを経て完成。ヨーロッパ最大という話です。

 

周りの石材よりも濃い色の石材でカーブのある外壁のところはSacristia Mayorと呼ばれ、多くの美術品が収蔵されています。

セビリア大聖堂の正面入り口。シーズン中はかなり並ばないと中に入れないことがあります。この入り口の近くに1890年代に作られたコロンブスのお墓があります。中に入らなかったので、どんな感じか分かりませんが。並ぶのが大嫌いな人と一緒だと色々諦めることが多くなります。

Puerta de la Asunción(マリア昇天祭の正面玄関)。ペディメントのレリーフはマリア昇天祭を表し、1833年に完成。正面玄関のはずですが、現在は出入りできません。

この使えない正面玄関の左側にIglesia del Sagrario(サグラリオ教会)の入り口があります。そこは今日教区教会として使われているため、入場料なしに入れます。

 

この教区教会部分を出て、建物に沿って右に曲がるとPatio de los Naranjos(オレンジのパティオ)というモスクとして使われていた時代の名残である祈りの前に体を清めるための噴水がオレンジの木に囲まれています。そのパティオに繋がる門はPuerta del Perdón(ぺルドン門)と呼ばれ、イスラム建築に特徴的な装飾的なアーチが見られます。パティオにはこの門からは入れません。覗くだけです。

 

Hospital de la Caridad(慈善病院)

この慈善施設は1674年に創設され、今日まで老人ホームとして使用されています。写真は施設に付属するチャペルのファサードで、白いカルキの壁のタイル装飾(azulejos)が美しいセビリア・バロック建築の代表例です。

 

Torre del Oro(黄金塔)

歴史概要のところでフルサイズの写真を既に掲載したので、ここではサムネイルだけ。

この黄金塔はアルカサル王城と共に防衛設備の一部を成しています。1220年に見張り塔として建てられました。かつてはもう一つの塔が川の向こう岸にあり、船が街中に侵入しないように両塔の間に太い鎖が張られていました。1760年に上部の小塔が増築されました。名前の由来はかつて金色に染色したタイルが壁に貼られていたからとか、新大陸からの宝物が収蔵されていたからとか諸説あります。ペドロ1世が一時ここに愛妾を囲ったこともあります。現在はMuseo Martimo(海洋博物館)で、海図や航海道具などが展示されています。

 

Plaza de Toros de la Maestraza(闘牛場)

セビリアの闘牛場はスペインで最も美しいと言われています。収容キャパシティは12500人。1761-1881年に建設されたアーケードに縁どられた建物は確かに素敵ですが、闘牛はたとえ伝統でも動物愛護の観点からいただけませんね。

 

Palacio de San Telmo(聖テルモ宮殿)

聖テルモ宮殿はメトロまたはバス停Puerta Jerezのすぐ近くにあります。アルカサル王城から歩いてもせいぜい10分くらいのところです。この宮殿は1682年に海兵養成のための海軍研究所として建立されました。船乗りの守護聖人である聖テルモの像が入り口の上に鎮座しています。現在は地方議会議長の官邸。この建物の見所はスペインバロック、チュリゲレスク(Churrigueresque)様式の正面玄関で、1734年にAntonio Matias de Figueroaによって建立されました。

北側のファサードの上は数多くのセビリアの有名人の彫像(1895年)が飾られているらしいですが、そちらまで見ている時間はありませんでした。

 

フラメンコ

スペイン、特にアンダルシアはフラメンコなしには語れません。ちょっと街を歩くとあちこちでフラメンコのパフォーマンスが見られます。質は様々です。私が見たパフォーマンスはYouTubeにアップしました。

1つ目のカスタネットのパフォーマンスの方が良かったと思ったのですが、気が付くのが遅くて、最後の方しかビデオに収められなかったのが残念です。

フラメンコショーをやっているところもたくさんあります。その多くがディナー付きなのですが、私たちは「ピュア・フラメンコ」「伝統的なフラメンコ」という触れ込みのCasa de la Memoriaという劇場でショーを見ました。ドリンクや食べ物など一切なしで、お一人様18€。ショーは毎晩2回。劇場はすごく小さく、舞台と客席の距離もあまりないですし、座席も2列のみ。2階席もあります。

 

上演中は撮影禁止ですが、アンコールの時は撮影が許可されます。私たちが見たチームは男性と女性のダンサー、男性の歌手、男性のギター二人でした。それぞれソロもありました。歌とギターまたはギター演奏のみでもそれなりに味わい深いのですが、やはりフラメンコは歌・ギター・ダンス揃っていた方が面白く、迫力もあります。男性ダンサーがとってもセクシーでした。

  

最後の部分はビデオにしました。Flamenco Show in Casa de la Memoria in Sevilla

全体的にアラビア音楽の影響が濃厚な印象を受けました。ストリートパフォーマンスとはかなり毛色が違うと申しましょうか。フラメンコにもいろいろあるようですね。

 

Feria de Abril(4月祭)

Feria de Abrilは復活祭の2週間後にセビリアで開催されるアンダルシア最大のお祭りです。1864年にカタロニア人とバスク人によって家畜市として始められましたが、家畜小屋が姿を消した現在でもフェリア会場で重要な契約が締結されるそうです。会場はセビリア市の南西部Los Remediosという区域で、2017年のフェリアは4月30日から5月7日まででした。真夜中に会場のイリュミネーションが一斉に点火されてフェリアが始まります。昼間は馬車や馬に乗った伝統的なツーピース(男性)またはフラメンコドレス(女性)を着て飾り立てた人たちで街中も会場も溢れかえり、遅い時間帯になると歌って踊ってが佳境に達します。

ビデオ:Feria de Abril 2017

会場はテントというか小屋で埋め尽くされており、それだけでも壮観ですが、その大部分が個人の所有というからびっくりです。中に入れるのは基本的に招待客だけです。数は少ないですが、一般人向けの小屋もあり、チケットを買えば入れるとのことでした。残念ながらどこでそのチケットを手に入れるのか案内所で聞いてもらちが明かず、私たちは取りあえず見るだけ見て、夜は上述のフラメンコショーに行ったのでした。

馬車もフラメンコドレスも豪華で、見てるだけでも楽しかったです。

フェリアの期間中は路面電車も帽子をかぶっているようです。

フェリア会場の隣にはジェットコースターや観覧車などのある遊園地が設置されており、飲食店もありました。この観覧車は、ゆっくり1回回って終わりなどという悠長な乗り物ではなく、回転が非常に速く、何回も回ります。一人4€はちょっと高いなと思いましたが、乗ってみて、目が回りました( ̄∇ ̄;)

 

ドレスは母と娘でおそろいというのもよく見かけました。

フェリア会場の様子

    

街中を行く着飾った人々

     

馬車を引く馬をよく見ると、場合によってはしっぽがきれいに三つ編みにされて、鈴の付いた飾り紐が編み込まれていたりします。大抵は邪魔にならないようにしっぽがまとめられて、付け根のところに飾りまたは鈴が付けられています。頭部にもジャラジャラ鈴の飾りを着けられることもあり、大抵の馬はそれでもおとなしく耐えているみたいですが、何頭か頭の飾りが邪魔で、何とか取れないかと隙あらば頭をぶるぶる振ったりしている馬も見かけました。確かに馬にとってはいい迷惑ですよね。

このフェリアの前の枝の主日(復活祭前の日曜日)から聖金曜日までの期間をSemana Santa(聖なる週)といい、セビリアでは100体以上のPasos(聖体人形)の行列が出て、かなり見ごたえがあるようです。いつかSemana Santaに合わせてセビリアを訪れてみたいですね。


スペイン・アンダルシア旅行記(1)

スペイン・アンダルシア旅行記(3):モンテフリオ(グラナダ県)

スペイン・アンダルシア旅行記(4):グラナダ

スペイン・アンダルシア旅行記(5):グアディックス(グラナダ県)


スペイン・アンダルシア旅行記(1)

2017年05月04日 | 旅行

旅行の日程、ホテルなど

アンダルシアを回るのに2週間まとまって休暇を取るか、1週間ずつ2回に分けるか悩んだ末、1週間ずつ2回に分けることにしました。というのもだんだん年を取って疲れがたまりやすくなっているので、自分の脚でいろんなものを見て回るスタイルの旅行を2週間も続けられないと思ったのが理由です。

というわけでアンダルシア旅行第1弾は、4月25日~5月2日の1週間。ただし4月25日のフランクフルトからのフライトが早朝だったため、前日にフランクフルト空港近くのホテルにお泊りしたのでトータルで8泊となりました。

4月24日 フランクフルト宿泊(Ibis Frankfurt Airport

4月25日 フランクフルト発セビリヤ着、セビリヤで1泊(Novotel Sevilla Marqués del Nervion

4月26日~4月28日 グラナダ宿泊 (Ibis Granada

4月29日~5月1日 セビリヤ宿泊 (Ibis Sevilla

5月2日 セビリヤ発フランクフルト着、ICEで帰宅

今回の旅行ではすべて Accorhotels チェーンのホテルを利用しました。Accorhotels のメンバーズカードで10%の割引が効くというのが理由です。Ibis は三ツ星ホテルで、Novotel は四つ星ホテルです。設備や朝食は四つ星ホテルの方がいいに決まってますが、1泊や2泊ならともかく、8泊も四つ星ホテルとなると予算が厳しくなってしまうので、結局殆ど Ibis に泊ることになりました。バカンスの豪華さは味わえませんが、フツーに満足できるホテルです。

Ibis Frankfurt Airport:

Novotel Sevilla:

Ibis Granada:

Ibis Sevilla:

スペインの Ibis ホテルの朝食の特徴はサラダバーなどの野菜類がなく、その代わりに果物が豊富にあるということでしょうか。ゆで卵やかき卵の代わりに地元料理の一つ Tortilla de patatas と呼ばれるジャガイモの入ったオムレツがあること、そしてハムは決まってセラノ・(生)ハムが提供されるのも特徴ですね。

食べ歩き

ホテルの朝食では地域色は大して出ませんが、旅行の大きな楽しみはやはり旅先の地元料理を堪能することでしょう。できるだけ観光客が多くないところ、地元の人が好んで行くようなところを探して食べるようにしていました。

スペインとドイツでは食べる時間が大分違います。ドイツではランチタイムと言えばすでに11時半に始まり、遅くとも3時には終了します。ところがスペインではランチタイムが1時に始まり、遅い所で5時に終わります。朝食が遅ければそれで問題有りませんが、早起きして朝食を8時くらいに食べていると、ランチにありつけるまでちょっとつらい思いをすることになります。

ランチタイムがずれているので、もちろんディナータイムもずれます。ドイツではディナータイムは既に6時半から始まるところがあり、9時または10時にはキッチンが終わってしまい、温かいものが提供されなくなりますが、スペインではディナータイムは早くて8時からのようです。7時に開いてるレストランは多分観光客向けのところだけではないでしょうか。キッチンが終わるのは11時とか0時のようです。スペインのリズムは夜型の私たちにはぴったりだと思いました。

さて、地元の人たちが行くようなレストランを目指したのはいいのですが、そういうところは大抵メニューがスペイン語のみです。私もダンナもスペイン語はできないため、英語・フランス語・イタリア語の知識を総動員してスペイン語の意味を推察したり、またはオンライン辞書を引いたりしながら、メニューの読解に励みました。

4月25日、セビリア:

Taberna Galia は Novotel Sevilla の隣にあるレストランというか居酒屋で、この時は空腹が酷くて色々探すのはやめて、取りあえず近くだから座ってみた、感じでした。Menu del dia(日替わりメニュー)はドリンク、前菜、主菜、デザートまたはコーヒーから成り、前菜と主菜はいくつかある中から選べるようになっています。値段は11.50€。

前菜:Salmorejo&Paella

主菜:残念ながらスペイン語名はメモできませんでしたが、ピーマンの白身魚詰めとポークリブ。

デザートはチョコレートケーキのようなケーキでしたが、上の白っぽい部分が何かは不明。

 

夕食はもうちょっとまともなレストラン、Tapas Viapol で。

ここではアラカルトで食べました。

注文する前に出されたオリーブオイルたっぷりのポテトサラダ。

チーズを焼いたものとTataki de atun(マグロのたたき)。

Champiñones con Trigueros y Langostinos(マッシュルーム、グリーンアスパラ、エビ)。これは Tapa ではなく、確か Racio(大皿)。隅っこしか映ってませんが、Aceitunas Gordales(ゴルダレス・オリーブ)。

Calamares Fritos(イカリング)、大皿。

飲み物を加えて、〆て48€と言った所でした。どれもおいしかったです。

4月26日、グラナダ:

お昼ご飯は移動中、Autovia(高速道路)沿線のレストラン Rio Blanco で軽く済ませました。このレストランは TripAdvisor や Google には掲載されていません。

ダンナが頼んだツナサラダはまあ普通でしたが、私が頼んだ Bocadillo con atun (ツナサンド)は本当にツナしか入ってなくてびっくりでした。

 

夜はグラナダでもかなり人気のあるレストラン、Bodegas Castañeda で。

Gazpacho(冷たい野菜スープ)、Pastel de salmón(サーモンパイ)。

カナペ盛り合わせ(小)。

Mejillones con anchoas(貽貝とアンチョビ)。

写真は撮りませんでしたが、この他にベーコンとソラマメの炒め物を食べました(これはあまりおいしくなかった)。お値段はトータルで50€弱で、スペインのレストランにしては割高な感じでした。

4月27日、グラナダ:

この日はお昼からガイド付きでグラナダ散歩ツアーに参加しました。無料ですが、ツアー終了の時にチップを渡すことになってます。Plaza nueva にあるツーリストオフィスでバウチャーをもらって参加します。そのツアーの途中で立ち寄った生鮮市場 Mercado San Agustin で地元ワイン Vermut を頂きました。名前の由来はドイツ語の Wermut(ニガヨモギ)らしいですが、白ワインをベースにした香草入りフレーバーワインで、食前酒として好まれているものです。

 あんまりおいしかったので、お土産に1本(0.75ℓ、4€)買いました。

地元の方はこの Mercado でよくお昼ご飯を安く食べるそうです。私たちはツアー中でしたのでちょっとヴェルムートを飲んだだけでしたが。15時には Mercado の中のお店が殆ど閉まってしまうので、要注意。

ツアー終了後に遅い昼食を食べたのはLa Vinoteca。Menu del dia (前菜、主菜、デザート、ドリンク)は10.95€。

Queso manchego(羊のチーズ)はサービス。

マッシュルーム入りかき卵。Tortilla con Champiñones だったかな?

グリーンアスパラのリゾット(Risotto de esparragas だったと思います)。

デザートはバニラアイスのチョコソースがけ。

これで10.95€なんて、本当にドイツでは考えられないお値段。ドイツなら最低15€はしそうですね。どれもおいしかったです。

ガイドなしで市街観光をした後のディナーは、ガイドさんに勧められた地元の人に人気のレストラン Los Diamantes が混雑し過ぎて入れなかったため、裏道 Calle Hospital de Santa Ana にあった Google にも登録されてないレストランで Menu del dia を頂きました。こちらは前菜、主菜、デザートのみで9€、ドリンクは別でした。

なんとなくパスタの気分だったので、Macarrones boloñeses(ボロネーゼ風マカロニ)。

Pescadilla frita(メルルーサの若魚のフライ)。

Flan(プリン)。なんとなく形がプッチンプリンを思い出させるような…

安かったですが、お味の方はまあまあという程度でした。

4月28日、グアディクス(Guadix):

この日はグラナダから東へ約60㎞の高原にある洞窟住居で有名なグアディクスへ行きました。60㎞も移動すれば雨から逃れられるのではと期待していたのですが、こちらも雨でした。Sierra Nevada というスペインのアルプスとも言うべき山脈に連なる高原なので、グラナダよりも寒くて日中でも9-10度でした。あまりの寒さにディスカウントショップに駆け込んで、適当なポンチョを買って寒さをしのぎました。商店街は14時くらいから17時まで閉まっているので、17時過ぎるまでは洞窟住居博物館で寒さをしのいだ次第です。

昼食は市役所の近くの Liceo Accitano という TripAdvisor には登録されていないレストラン(Google には登録されています)で例によって Menu del dia を頂きました。ここではドリンク抜きで10€。

Crema de calabacín(ズッキーニのクリームスープ)。

 

Merluza en salsa(メルルーサのトマトソース煮)。ダンナの方はサーロインステーキ。

デザートはパンナコッタとエスプレッソ。

スープとパンナコッタはとてもおいしかったですが、メルルーサはまあまあという感じでした。

夜はグラナダに戻って、ホテルの隣の Restaurante Palatino という TripAdvisor に登録されていないレストランへ。現代的な内装と言えばいいのか分かりませんが、好みではありませんでした。うるさいのもマイナスですね。

手始めに albondigas(ミートボール)。

続いてイカリング(Calamares)と蛸足(スペイン語は失念)。蛸足は噛むのがちょっと大変でした。

もう一品、ensalada rusa(ロシア風サラダ)。基本的にポテトサラダにニンジンなどの野菜とツナが入ってます。

ミートボールは美味しかったのですが、他はそこそこでしたね。ビールにオレンジジュース。締めて20€にもなりませんでした。チップ込みで22€。

4月29日、グラナダ~セビリヤ:

この日はお昼くらいまでグラナダをうろつき、その後に西へ約250㎞のセビリヤに向かいました。昼食は高速道路A92沿いの Fuensanta(グラナダ県)というところにある Restaurante Casa Enrique というレストランで。若干高級感のあるレストランで、ウエイターはアラカルトで色々お勧めしてましたが、気を付けて見れば Menu del dia が11€であるではないですか!ドリンク抜きで11€は若干割高になりますが、アラカルトで頼むよりはずっと安く済むので、ウエイターのおすすめを無視して日替わりメニューにしました。担当のウエイターは英語がほとんどできず、会話はフランス語でした。ネイティブ並みにフランス語を話すダンナにほぼお任せ。

アスパラスープ。グリーンアスパラがたっぷりの卵入り野菜スープで美味。

Chuleta de cerdo(ポークカツ)。

Tocino de cielo (カスタードプリン・カラメルソースかけ)。とても上品な味でした。

グラナダ県ではずっとどんよりしてましたが、セビリヤでは素晴らしい青空でした。

夕食は Ibis Sevilla から歩いて行ける範囲で地元の人に人気のあるらしいレストランを Google で探し、Poseidon というレストランに辿り着きました。9時半を過ぎてましたが、結構混んでいて、テイクアウトするお客も割といました。

Ensaladillo(小さいポテトサラダ)。

Gambas al ajillo(ニンニクとオリーブオイルで焼いたスカンピ)。超絶美味!

Pimento del Padrón(シシトウのフライ)ともう半分以上食べてしまった後の Entrecot de ternera (子牛の背肉のステーキ)。シシトウもおいしくて、二皿ぺろりと食べてしまいました。

Choco frito (セピアイカのフライ)。イカ天ぷらに通じるものがあり、さほど脂っぽくなくてとても美味しかったです。

二人で凄く食べた感じがしたのですが、トータルたったの37€でした。物凄いお得感ですね!

4月30日、セビリヤ:

セビリヤではこの日から Feria de Abril(4月祭、復活祭の2週間後に開催)がスタートし、伝統的な晴れ着を着て馬車や馬に乗ってフェリア会場に向かう人たちで非常にカラフルににぎわっていました。フェリア会場近くで道行く人たちを眺めながら食べたのがこれ、Montadito。フランスパンのスライスしたものや、この写真のように小さなパンをトーストしたサンドイッチで、Bocadillo よりも小さいものです。お店の名前は Los Alcalarenos。美味しかったのですが、割高でしたね。Montadito二つとジュース二つで11€でした。

フェリアを見るのに飽きてきて、セビリヤの中心街に戻ってなんとなく入ったのがレバノン料理のレストラン、El Rincón de Beirut

前菜の Mutabal はまだ普通な感じしましたが、

主菜として頼んだご飯ものがびっくりのこんもり山!Kabseh はラム肉とアーモンドの入ったごはん山。

 

Salteado de Pollo は鶏肉と野菜がいっぱい入ったごはん山。

二人で一つで十分でしたね。どちらも半分くらい残してしまったので、持ち帰れるように包んでくれましたが、結局食べずじまいでゴミ箱行きでした。

5月1日、セビリヤ:

この日は朝からアルカサル城の見学ツアーでした(詳細は別途書きます)。ガイド付きの見学ツアー終了後、アルカサル城内のレストランで軽く腹ごしらえ。Empanadilla(パイの一種。これは鶏肉と野菜入り)と Pastel de manzana(アップルパイ)。パイ二つ、コーヒー二つで14€。まさに観光スポットのツーリストプライスでした。アルカサル城は一度出てしまうと再度入場することができないので、もっと庭をゆっくり見るつもりでしたので、仕方ないです。

アルカサル城の庭園をたっぷりと堪能した後は乗り降り自由の観光バスに乗って市内見学。遅い昼食というか早すぎる夕食というか午後5時という半端な時間にバスを降りて Plaza de la Alameda de Hércules という大きな広場にあるレストランの一つ Casa Paco というところでタパスをたくさんいただきました。普段はこの時間帯にはやってないそうですが、5月1日は例外的に一日中営業してたそうです。

Salmón marinada(サーモンのマリナーデ)とensalada de gambas(エビサラダ)。

Dátiles con bacon(ナツメヤシ(またはデーツ)のベーコン巻き)。

Espárragos gratinados(アスパラのグラタン)。

Solomillio a la mostaza (サーロイン、マスタードソース和え)。

Jamoncitos de pollo en salsa (鶏の腿、ソース煮込み)。

Berenjenas con cabra y miel(茄子と山羊のチーズ、ハチミツかけ)。

タパスは一品3-4€。観光スポットのお値段ですね。でもおいしかったです。特にナツメヤシが美味でした。

これだけよく食べたにもかかわらず、体重が変わらなかったのは嬉しい限りです。(* ̄▽ ̄)フフフッ♪

スペイン・アンダルシア旅行記(2)では私たちが訪れた観光スポットについていろいろ書こうと思います。


スペイン・アンダルシア旅行記(2):セビリア

スペイン・アンダルシア旅行記(3):モンテフリオ(グラナダ県)

スペイン・アンダルシア旅行記(4):グラナダ

スペイン・アンダルシア旅行記(5):グアディックス(グラナダ県)



ドイツ・バイエルン州周遊旅行記(9)~ヴュルツブルク・ロマンチック街道終点

2016年08月08日 | 旅行

ヴュルツブルクがこの度のバイエルン州周遊旅行の最後の街となります。

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ヴュルツブルクの歴史は公式な文献にカステルム・ヴィルテブルク(Castellum Virteburch)として初めて登場した704年からスタートしますが、マイン川左岸の高台マリエンベルクに骨壺墓地文化時代(紀元前1000年頃)のケルト人が住んでいたことが分かっています。ケルト人は防備を固めた居住地をブリガ(briga)と呼ぶ習慣があったので、virti-briga(ヴィルトゥスの城塞都市)というのが8世紀のVirteburchとなり、現在のWürzburgとなった可能性があります。現地名の字面だけ見ると、Würz-「香辛料」プラスBurg「城、都市」のように分析できるので、それが語源だと考える人が昔から多かったようですが、ケルト語源説の方が整合性があり、有力な説とされています。

ヴュルツブルクはローマ帝国の属州になったことはなく、ゲルマン民族大移動の時代(4-5世紀)にまずアレマン族が入居し、その後6世紀にはフランク族がこの土地を取得し、650年ごろからメロヴィング王朝の将軍居城となったようです。

1168年、赤髭王フリートリヒ1世(Friedrich I. Barbarossa)がヴュルツブルクで開催された帝国議会において、当時の司教ヘロルトに公爵(Herzog)の位を与えたため、以降ヴュルツブルクの司教は侯爵司教(Fürstbischof)と名乗ることが許されました。

近世では宗教改革、対抗宗教改革そして魔女狩りなど陰惨な歴史の舞台となりました。1631-34年にはスウェーデンの占領下にありました。18世紀末-19世紀初頭はフランス軍に占領されていたこともあります。1802年、まだ帝国代表者主要決議(1803)の前に既にバイエルン選帝侯軍がヴュルツブルクを占領し、同年11月に侯爵司教ゲオルク・カール・フォン・フェヒェンバッハは侯爵位を退位して、ただの司教になりまた。その翌日バイエルン選帝侯王マクシミリアン1世がヴュルツブルクを実質的にバイエルン領としましたが、改革を急ぎ、市民に愛されていた祝日をなくすなどで民衆にかなり恨まれたそうです。1806年2月、第3次対仏大同盟戦争に終止符を打ったプレスベルクの和約で、ヴュルツブルクは大公領となり、トスカーナから来たフェルディナント3世の手に渡りました。同年10月にはナポレオンがヴュルツブルクに来て、大公領はライン同盟(Rheinbund)に加盟。しかし1813年、ナポレオンから離れたバイエルンがオーストリア軍と共にヴュルツブルクを攻撃し、フランス軍を撃退。1814年、ヴュルツブルクは再びバイエルン領になりました。その時バイエルン選帝侯王国皇太子はヴュルツブルクに居を構えることが決められ、それにより1821年ルイトポルトがヴュルツブルクのレジデンツで誕生しました。随分と忙しい近世ですね。でも、これ以降はずっとバイエルンの一都市で現在に至ります。現在人口約12万5千人の小都市。

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私たちがヴュルツブルクに到着した日、8月1日は非常にハードな日でした。私のこの旅行記シリーズをずっと読んでいただいている方にはお分かりかと思いますが、この日私たちはまずネルトリンゲンで城壁の巡視路を歩き、ヘッセルベルクを登り、ディンケルスビュール観光もこなしていました。だから、ヴュルツブルク入りしたらいい加減ホテルで休んでしまっても良さそうなんですが… そうはならないのが私たち、というか。

何はともあれ夜7時ころにホテルにチェックイン。ホテル・リントラインミューレという三ツ星ホテル。部屋もバスルームもすごく手狭な感じで二つ星かと見紛うばかり。口コミが全く当てにならないケースでした。

ひと風呂ならぬひとシャワー浴びた後、旧市街へ繰り出し(ホテルは旧市街から2.4㎞離れている)、レストランを求めてふらふらしました。結局、レストラン・ヴュルツブルク(Restraunt Würtzburg)という市名を掲げた(でもtがよけいにある)ホテルレストランに決定。

地元のワイン、地元のスープを頂きましたが、メインはローカルなものとは関係のないウィーン風子牛カツにラムフィレ。美味でした。

    

 

食べて元気になったら、ちょっと市内観光。

夜のアルテ・マインブリュッケ(Alte Mainbrücke、古マイン橋)。1473-1543年に建立されたもの。1730年頃に聖人像が飾られたそうです。歩行者専用で、橋の端に居酒屋があるので、橋の上でお酒飲んでる人たちが一杯。

 

向こう岸の高台に見えるのはマリエンベルク要塞。706年にマリア教会が建てられ、1200年頃に教会を囲むように要塞と居城が作られ、増築に増築を繰り返して今に至る建物群。最後の増築は17世紀。

ノイミュンスター教会。バロックのファサードは18世紀のもの。

マリエンカペレ(聖母礼拝堂)。もう暗すぎて碌な写真にならない。

旧市街の散歩だけでは飽き足らず、私たちは高台のマリエンベルク要塞に登りました。もちろん駐車場のある所までは車で。でもそこから夜景が見えるところまで結構な距離を歩きました。
 

この日、私の万歩計アプリは22,000歩を記録しました。今回の旅行中の最高記録です。さすがに最後は足が上がらなくなってしまいました ( ̄∇ ̄;)

翌朝、そこそこ満足のいく朝食ビュッフェで機嫌を直し、新たな一日のスタート。 

ヴュルツブルクには普通の歩きの市内観光ツアーの他にオーディオガイドがあります。観光スポット11か所プラス街の歴史がデータとして入っています。順序不順で呼び出して聞くことも可能です。GPS機能がついているので登録された観光スポットのそばに来るとその観光スポットの解説がスタンバイします。3時間7.50ユーロ。チェックアウトに時間がかかってしまったので私たちはこのアオーディオガイドを借りて市内観光することにしたのですが、雨が降って散々でした。

まずはユネスコ世界遺産であるレジデンツ。ドイツバロックの最高峰と言われる宮殿で、侯爵司教ヨハン・フィリップ・フランツ・フォン・シェーンボルンの命により1720-1744年にバルターザー・ノイマン(Balthasar Neumann)の設計に基づいて建立されました。第2次世界大戦中の1945年3月16日の空襲で街の90%は破壊されましたが、このレジデンツは被害を受けずに済みました。現在博物館になっている部分の他、ヴュルツブルク大学のいくつかの学科や研究所が入っています。

  

ホーフキルヒェ(Hofkirche)は大学や研究所の入っている棟にあるので、入場料なしに見られます。祭壇分が2階建てになっている珍しい構造です。

   

入場料の要る博物館の方は観光客でごった返していたのと、かばんや上着などあらゆるものを預けなければいけないうえ、写真撮影も何もかも禁止という条件になんとなくもう嫌気がさし、「じゃあいいか」という感じで、レジデンツを出て旧市街の方へ。レジデンツから旧市街へ向かう道はホーフシュトラッセ(Hofstraße)というのですが、この道はダイレクトに聖キリアン大聖堂に続いてい。侯爵司教たちはここに埋葬されたので、生きている時から自分の埋葬場所をレジデンツから見ることができたのだそうで、いいんだか悪いんだか。。。

後ろ側から見た大聖堂とノイミュンスター教会。狭い広場を挟んで隣り合っているので、全体像がつかめません。

聖キリアン大聖堂。正面から。

ヴュルツブルクの聖キリアン大聖堂はドイツで4番目に古くて大きいロマネスク様式のホール型教会。11世紀に建てられ、18世紀にバロック風に模様替えされ(祭壇・聖歌隊席部分)、戦後の再建の際に現代的要素も取り入れられました(天井画等)。
      

お隣のノイミュンスター教会。ノイミュンスターは1000年の歴史があります。ここで3聖人キリアン、コロナート、トトナンが斬首刑にされたそうです。それを偲ぶために8世紀に記念碑が建てられ、教会の基礎になってます。大元はお隣の聖キリアン大聖堂同様ロマネスク様式のホール型教会で18世紀に例によってバロック風に改装されました。

バロックファサードの後ろには丸屋根。
     

面白いのは真ん中のカーテンの彫刻。

3聖人キリアン、コロナート、トトナン。

ノイミュンスター教会の裏手には少々分かりづらいのですがルーザムゲルトヒェン(Lusamgärtchen)と呼ばれる中庭があります。後期ロマネスク様式の歩廊に囲まれたなかなか風情のあるところです。そこには日本ではほとんど知られていないと思いますが、12世紀の吟遊詩人ヴァルター・フォン・フォーゲルヴァイデのお墓があります。彼が本当にそこに埋葬されたかどうかは実は定かではないのですが、伝説に従い恐らく18世紀中様に墓碑をここに置いたとのことです。


場所は変わりまして、マルクト広場のファルケンハウス。ロココファサードが素晴らしい。元はホテル&レストラン。現在は市営図書館とツーリストインフォメーションが入居してます。ロイヤルエアフォースによる爆撃で旧市街の90%は破壊されましたが、ファルケンハウスは戦後最初にオリジナル通りに再建されたそうです。

ファルケンハウスの向かい側にあるのは1377-1480年に建てられた後期バロック様式のマリエンカペレ。大きいのにチャペル(カペレ)というのは司祭権がないことによるそうです。建設費は金持ちの市民が負担しました。ここに埋葬されるのは金持ち市民の特権だったそうです。中の装備品は戦後に新調したもの。
  

なぜか「信仰のアップデート」という箱物が置いてあるのがわらえました。電源は入ってなかったので、どんなものなのか判断しかねますが。

マルクト広場の近くにある、1413年に既に文書に登場するレストラン・シュタッヘル(Stachel)。ここは市民暴動の連絡場所にもなったとか。今でもレストランです。

市庁舎は13世紀に建てられたロマネスク様式の塔のある建物なのですが、補修工事中で、包まれてしまっているので何も見れませんでした(´;ω;`)

アルテ・マインブリュッケ再び。どんより~
 

ヴュルツブルクにはもっと見どころがあるのですが、何分雨で歩き回る気力も萎えてしまい、オーディオガイドの紹介するポイントだけ見て観光を終了し、帰途につきました。

天候にあまり恵まれなかったせいもあるでしょうが、今回の周遊旅行は異常に疲れました。4年前のフランス横断旅行よりもずっとハードに感じました。多分、文化・歴史の詰め込みが多く、自然の景観を楽しんで頭を休める日が雨のせいでなくなってしまったからではないかと思いますが、年のせいもあるかもしれません。今後こういう旅行の仕方は止めようかと反省しております。


ドイツ: ローマ帝国軍駐屯地ザールブルク

ドイツ・バイエルン州周遊旅行記(1)~ニュルンベルク前編

ドイツ・バイエルン州周遊旅行記(1)~ニュルンベルク後編

ドイツ・バイエルン州周遊旅行記(2)~レーゲンスブルク(ユネスコ世界文化遺産)

ドイツ・バイエルン州周遊旅行記(3)~ドナウシュタウフ・ヴァルハラ

ドイツ・バイエルン州周遊旅行記(4)~バイエルンの森・ガラス街道

ドイツ・バイエルン州周遊旅行記(5)~パッサウ・イタリアンバロックの街

ドイツ・バイエルン州周遊旅行記(6)~アウクスブルク・ドイツで2番目に古い街

ドイツ・バイエルン州周遊旅行記(7)~ネルトリンゲン・隕石クレータの街

ドイツ・バイエルン州周遊旅行記(8)~ヘッセルベルク&ディンケルスビュール(ロマンチック街道の街)


ドイツ・バイエルン州周遊旅行記(8)~ヘッセルベルク&ディンケルスビュール(ロマンチック街道の街)

2016年08月08日 | 旅行

ヘッセルベルク(Hesselberg)のことはネルトリンゲンの観光ガイドさんに聞きました。ネルトリンゲンに1500万年前に落ちた隕石は半径23-25㎞の窪地を作っただけではなく、そのエネルギーによってその窪地の外にも地質構造上の影響を与え、ヘッセルベルクと言う逆転地層を示す【証人山】ができたらしいのです。ジュラ紀の地層が表面に出ているらしいです。地学的な知識がないので、詳しいことは分かりませんが。とにかくフランケンアルプと呼ばれる地域で一番高い山です。

 

 

ダンナは、本当はネルトリンガー・リースと呼ばれる窪地の縁を成す丘陵地に行きたがっていたのですが、正確な地名が思い出せず、記憶していたのがヘッセルベルクだけでしたので、そこに向かった次第です。ロマンチック街道からは外れますが、そういう寄り道もよかろうということで。。。

 

天気が良かったので、平地に囲まれた標高689mのヘッセルベルクからの眺めは非常に気持ちよかったです。

  

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このなんてことないような山にも歴史があり、石器自体から継続的に人が住んでいたようです。紀元前13世紀から8世紀辺りには既にかなり堅固な防御壁に囲まれていたようです。紀元前6世紀から紀元前後まではラ・テーヌ期のケルト人が住んでいた痕跡もあります。紀元後1世紀にはローマ人が来ていましたが、ヘッセルベルクから少し離れたところにリーメス(国境防御壁)を築き、ヘッセルベルク自体は防衛システムに組み込まれなかったようです。

その後は、アレマン族とフランク族の境界を成す山として取ったり取られたりが繰り返されたようです。現在でもヘッセルベルクはアレマン方言(シュヴァーベン方言)とフランケン方言の境界線を成しています。中世・近世もこの山の持ち主はころころ変わり、1806年にバイエルン領となり、現在はキリスト教会の所有となっています。

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歴史はこの辺にして、実はヘッセルベルクの頂上付近には休憩所があるのですが、トイレがないんです。( ´゚д゚`)エー なので、当初の予定ではロマンチック街道に戻ってローテンブルク・オプ・デァ・タウバー(Rothenburg ob der Tauber)と言うところに行く予定だったのですが、それは離れすぎているということで、途中でトイレがないかどうか探しながらヘッセルベルクから一番近いロマンチック街道の街・ディンケルスビュール(Dinkelsbühl)を目指しました。そしたら見事に途中に何もなくて、ディンケルスビュールについて、最初に目にした営業中のカフェに飛び込んで用を足す羽目に… なんとも情けない話ですが、そういういきさつで到着した街でした。わざわざこの街を目指していらっしゃる観光客の方々には申し訳ないかもしれませんが…

 

取りあえずカフェで一息つきました。ザッハートルテで、「ザッハー」と書いてあるケーキは初めて見ました( ´∀` ) 美味でした。

 

カフェで一服している間に街のホームページを呼び出すと、なんと「ドイツで最も美しい旧市街」と言うタイトルが!それはまた随分と大きく出たものだ、と思いつつ現在位置とツーリストインフォのある場所を確認しました。

私たちはローテンブルガー門の近くに居たので、ツーリストインフォに辿り着くまでに観光のメインは見てしまいました。驚いたのは、いくらロマンチック街道とはいえノイシュヴァンシュタイン城に比べればかなりマイナーな所にもかかわらず日本人観光客グループが居たことです。女性ばかりだったような気がします。

実際かわいらしい素敵なところです。

    

 

   

 

   

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ディンケルスビュールは私たちが今回訪れた街の中では珍しく中世からその歴史が始まります。地形が防衛に適していたことと、重要な交易路・東海→ドイツ中部→イタリアとヴォルムス→プラハ→クラーカウの交差点が近くにあったことが理由で、ホーエンシュタウフェン家とヴェルフ家が覇権争いをしていた時代、1130年にシュタウフェン家の所領を結ぶ防衛拠点の一部として形成されたもので、元々カロリング朝時代に創られたヴェルニッツ川渡渉地点沿いの入植地を拡充させてできた街です。街の中心に大きな市場がなく、あちこちに分散していろんな市場(壺市場、パン市場、食用油市場、家畜市場、皮革製品市場など)があったことが特徴的です。街の象徴ともいえる聖ゲオルグ教会は1499年に完成。これ以降街並みは基本的に変わっていないそうです。それでも、ディンケルスビュールの旧市街は、19世紀から20世紀に大規模な拡張がなされました。市を完全に取り巻く壁が完成し、西側と南側には濠が掘られ、北にはローテンブルガー池が設けられ、東側はヴェルニッツ川につながる洪水調整池が造られました。つまり外側から見る旧市街の景観は15世紀とは大分違うわけですね。

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ツーリストインフォで入手した地図を手にぐるっと街を回って満足した後、私たちはディンケルスビュールを後にし、ロマンチック街道の終点(あるいは始点)であるヴュルツブルクに向かいました。本当のロマンチック街道を車で走らせると時間がかかってしまうので、アウトバーンを使ってびゅんと( ´∀` )

 

ヴュルツブルク編に続く。


 

ドイツ: ローマ帝国軍駐屯地ザールブルク

ドイツ・バイエルン州周遊旅行記(1)~ニュルンベルク前編

ドイツ・バイエルン州周遊旅行記(1)~ニュルンベルク後編

ドイツ・バイエルン州周遊旅行記(2)~レーゲンスブルク(ユネスコ世界文化遺産)

ドイツ・バイエルン州周遊旅行記(3)~ドナウシュタウフ・ヴァルハラ

ドイツ・バイエルン州周遊旅行記(4)~バイエルンの森・ガラス街道

ドイツ・バイエルン州周遊旅行記(5)~パッサウ・イタリアンバロックの街

ドイツ・バイエルン州周遊旅行記(6)~アウクスブルク・ドイツで2番目に古い街

ドイツ・バイエルン州周遊旅行記(7)~ネルトリンゲン・隕石クレータの街