徒然なるままに ~ Mikako Husselのブログ

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書評:太宰治著、『トカトントン』『ヴィヨンの妻』『桜桃』(文春文庫)

2019年03月10日 | 書評ー小説:作者サ・タ・ナ行

『トカトントン』(『群像』1947.1)は日本に年末年始に行った時に本屋で見かけた太宰治作品集の9番目に収録されている往復書簡体形式を採った短編です。この小説は、太宰の愛読者である保知勇二郎という青年からの手紙の中に出てくる金槌の音がヒントとなって書かれたそうです。正体不明な「トカトントン」という音に取り憑かれた「私」の告白が中心的内容ですが、単に一復員青年の虚無的な心理模様が緻密に描かれているばかりでなく、玉音放送、復員、新円への切り替え、民主主義の提唱、総選挙、共産党の合法化、労働者のデモ、文化国家の建設といった当時の世相もふんだんに盛り込まれています。これらすべてに心を動かされ「これだ」と思った途端に例のまた「トカトントン」という音が聞こえてきて一気に気分が萎える、と青年は訴えます。結末の「某作家」による返信に新約聖書の「マタイ福音書」からの引用があることからも分かるように、「トカトントン」もまた、「駆込み訴へ」(『中央公論』一九四〇・二)などの太宰作品同様、聖書と切っても切れない関係を持っています。

ただ、引用されているマタイによる福音書第10章28「身を殺して霊魂(たましい)をころし得ぬ者どもを懼るな、身と霊魂とをゲヘナにて滅ぼし得るものをおそれよ。」は誰の訳なんでしょうかね?「ゲヘナ」=地獄という解釈を知っていたとしてもなんとも分かりにくい訳だと思うのですが。日本聖書協会の1954年改訳版では「また、からだを殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ、からだも魂も地獄で滅ぼす力のあるかたを恐れなさい。」と随分と平易で論理的つながりも訳出されて格段に分かりやすくなっています。

なにはともあれ、「このイエスの言葉に霹靂を感ずることができたら、君の幻聴は止むはずです。」という助言でこの作品は締めくくられていますが、これは青年の虚無感が「いかなる弁明も成立しない醜態」を避け、勇気を出さないことによるものと分析した上で、体しか殺せないものを恐れずに勇気を出せばその虚無感がなくなるものと考えているみたいですね。でも、これって、魂の不滅を信じていなければ何の意味も持たない助言ですよね(笑)

『ヴィヨンの妻』(『展望』1947.3)は、放蕩無類の生活を送ったとされる15世紀のフランスの詩人フランソワ・ヴィヨンのイメージと重なる昭和初期の大酒飲みの詩人・大谷の生活を、なんでも軽くさばいていく傷つくことのないように見受けられる内縁の妻の視点から語ります。夫が泥酔して帰宅するところから始まり、彼が店のお金を取ったので料理屋・椿屋の夫婦が彼を追いかけてきます。大谷は少々の言い争いの後、また家を出て行ってしまいますが、夫婦は大谷の妻に引き留められて事情説明をします。彼女は自分が何とかするから警察沙汰にするのはもう一日待ってもらうように椿屋の夫婦に頼み、何の計画もないまま翌日椿屋に向かい、お金を返す人が来るからそれまでの人質として自分が店で働くと嘘をつきますが、幸運にも大谷がひょっこり店に現れて盗んだ金を返します。その後彼女は椿屋で働いて大谷の残りの借金を返すと言って本格的にそこで働き始め、時々来る大谷と一緒に帰宅することに幸せを感じる、というようなお話です。

この、太宰治の分身のような詩人は、やはり酒を楽しくて飲んでいるのではなく、死にたいのに死ねずにいる不遇を嘆き、恐怖と戦い続け、それを紛らわすために酒を飲んでいる鬱病の人のようです。彼は言います。「女には、幸福も不幸もないものです。」「男には、不幸だけがあるんです。いつも恐怖と、戦ってばかりいるのです。」と。女性の私からすれば、これほどムカつく決めつけはありませんね。

実際、妻の視点で書かれているはずの作品には彼女の心情についての細やかな描写が一切ありません。小さな、どうやら知的障害があるらしい子どもを抱え、3・4晩帰ってこないことが当たり前、帰って来ても泥酔している夫。時々出版社の誰かが持ってきてくれるお金でどうにか飢え死にせずに暮らしているうら若い女性が、籍もいれていない内縁の妻という立場や現在・未来の生活についてなんら心配らしいことをしていないというのはまるで説得力に欠けますし、知的障害のあるわが子(太宰治自身の一人息子もダウン症で知的障害があったのがモデルとなっているらしい)を「阿呆のようだ」と思うだけで何の心配もせずにただ受け止めていることも不自然に感じますし、椿屋のお客の一人が送り狼に変貌してレイプされても平然といつも通りに店に出る(「うわべは」と断ってはありますが)というのも女性としてはやはり違和感があります。そして彼女をして最後に「人でもいいじゃないの。私たちは、生きてさえすればいいのよ。」と言わしめるところが詩人の放蕩生活(ひいては作者自身の乱れた生活)を肯定するためのご都合主義的人物配置としか思えず腹が立ちます。いかに彼が女性の内面に興味がなく、見ていなかったかがうかがわれるようです。結局作者は自分の存在のことしか興味なかったのでは?

 

この作品集の最後を飾る『桜桃』(1948)は作者の死の直前に書いた短編で、何とも身勝手な言い訳私小説のようです。「子供より親が大事、と思いたい。子供よりも、その親のほうが弱いのだ」と冒頭と最後に言い訳がましく掲げられており、父=夫=私と主語を変えながら子供3人いる家庭とその日の珍しい夫婦喧嘩を描いています。長女7歳、長男4歳(唖、知的障害児)、次女1歳の面倒を、妹の看病に行こうとしていた妻に押し付け、仕事だと言って家を出て酒を飲みに行き、行った先で出てきた桜桃を見て、これを子供にやったら喜ぶだろう、と思いながら1人まずそうにそれを食し、つぶやく言葉は「子供より親が大事」( ゚Д゚)

作者の実生活の家族構成がそのまま作品に現れているので、どこまでが真実でどこから脚色なのかは不明ですが、「生きるということは、たいへんなことだ。あちこちから鎖がからまっていて、少しでも動くと、血が噴き出す。」とか「もう、仕事どころではない。自殺のことばかり考えている。」というのは作者自身の本音だったのではないでしょうか。ちゃんとした遺書もあったそうですけど。この奥さんに3人の子どもを任せ、さらに婚外子1人残し、別の愛人と玉川上水で入水自殺を図る無責任さ。女の敵ですね、この男は。

『桜桃』に対する私の正直な感想は、「だめだ、こいつ」でした。せめてもの慰めに、タイトルの桜桃の花の写真を上に入れてみました。

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書評:太宰治著、『走れメロス』(文春文庫)とその文学的系譜

2019年03月10日 | 書評ー小説:作者サ・タ・ナ行

『走れメロス』(1940)は、中学だか高校だかの国語教科書に掲載されていたような気がします。日本に年末年始に行った時に本屋で見かけた太宰治作品集の8番目に収録されています。あまりにも有名な短編小説ですが、まともに読んだことはなかったように思います。

「古伝説と、シルレルの詩から」と作品の最後に書かれていることから、この作品が太宰治のオリジナルの創作でないことは明らかです。その文学的系譜を見る前に作品自体の感想を言いますと、文体は軽やかでリズム感があり、ひたすら突っ走るメロスの動きを描写するところは言葉そのものに躍動感すら感じられるようです。

しかし、内容的にはツッコミどころ満載です。一般に『走れメロス』は信頼に基づく固い友情の物語とされていますが、そもそもなぜメロスが友人セリヌンティウスを死刑から解放するために走る羽目になったかと言えば、メロス自身が、人間不信のために多くの人を処刑している暴君ディオニス王(=ディオニュソス2世)を無謀にも亡き者にしようとし、何の計画もなく王城に向かって取っ捕まったことに端を発し、すぐに処刑されるところを「あ、いや、妹を結婚させなければならないので、三日待ってくれ」と猶予を願い、自分が戻ってくるまでの人質として友人セリヌンティウスを差し出したからです。つまり単純な自己陶酔的ヒロイズムによって無謀な行動に出ただけでなく、その尻拭いに大切な友人を本人に断りなく勝手に人質に指定したと言えます。そうして王城に連れてこられたセリヌンティウスはメロスのために人質になることに同意しますが、「なんて馬鹿なことをしでかしたんだ」くらいメロスを責めてもよさそうなのに、それすらしないのはよっぽどのお人好しなのか何なのか、美談にしてもできすぎていて、読んでいて恥ずかしくなってしまうほどです。

このように勝手な都合で友人を巻き込んで命の危険に晒してしまったのですから、それで約束を違えて友人を見殺しにするなどもっての外です。巻き込んだ責任を取るために死ぬ気で爆走するのは当然のことで、自業自得、身から出た錆でしょう。それでメロスがギリギリで戻ってきて、二人の友情を確かめ合うように抱き合い、その姿に感動したディオニス王が改心してめでたしめでたし、と終わるところがなんともご都合主義的で、思わず眉をひそめてしまいます。曲がりなりにも権力者が一介の牧人が約束を違えずに戻って来たからと言って、そう簡単に自分の非を認め、改心などするものでしょうか?しかも「暴君」で通っている人間ですよ?実は素直な善人だったというわけですか?びっくりですよ。

まあでも、これは太宰治の創作ではなく、元のモチーフがそうなってたので仕方がないとも言えます。

古伝説「ダモンとフィンティアス」

元となっている「古伝説」とは、古代ギリシャの伝承「ダモン(Damon)とフィンティアス(Phintias)」のことで、ウイキペディア(ドイツ語版)によると、紀元前6世紀のピタゴラス派教団員間の団結の固さ、無条件の信頼を示す逸話として発生したものです。この伝承には2つのバージョンがあり、1つはダモンとフィンティアスと同時代の哲学者アリストクセノス(Aristoxenos, Ἀριστόξενος)によるもので、もう1つは紀元前1世紀の史料編纂官ディオドーロス(Diodoros, Διόδωρος)によるものです。

アリストクセノスのバージョンでは、ディオニュソス王が固い友情を自慢するピタゴラス派教団員を試すために、フィンティアスを王城に呼び出し、陰謀に加担したと非難し、死刑を宣告します。フィンティアスは刑を受け入れますが、その前に私的な用事を済ませたいと猶予を願い出ます。ディオニュソスはそれを、彼の友人であるダモンを人質として差し出し、同日の日没までに戻らなければ代わりに死刑になることを条件に許可します。宮廷人たちはフィンティアスが戻ってくるはずがないと友情を信じるダモンを嘲笑しましたが、フィンティアスはきちんと戻ってきたため、ディオニュソス王は感銘を受け、その友情の仲間に入れて欲しいと頼みますが、二人はそれを拒絶します。

ディオドーロスのバージョンでは、アリストクセノスのバージョンとは違って、フィンティアスが実際にディオニュソス王暗殺を企んでいたことになっています。その後の経緯はほぼ同じですが、フィンティアスの帰還が本当にギリギリ、ダモンの処刑の寸前となっている所と、仲間に入れて欲しいとディオニュソス王に頼まれた後の二人の反応がないところが違っています。

どちらのバージョンが歴史的に正しいのか議論がありますが、アリストクセノスは、政権転覆後コリントに亡命してきたディオニュソス王本人に聞いたと言っているので、ディオニュソス王自身の役割が軽く扱われている可能性があるのに対して、ディオドーロスは時代が違うとはいえ、ディオニュソス王が支配したシシリアの出身のため、現地の詳細な言い伝えを反映している可能性があるとのことです。

この題材をローマ共和国で最初に取り上げたのはキケロで、次にヴァレリウス・マクシムス(Valerius Maximus、紀元後1世紀)、ヒュギニウス・ミュトグラフス(Hyginius Mythographus、紀元後2世紀)がこれを文学的に装飾しました。

シラーの『保証』

「シルレル」ことフリートリヒ・フォン・シラー(Friedrich von Schiller)はヒュギニウス・ミュトグラフスの『説話集(Genealogiae)』をベースとして1798年に『保証(Die Bürgschaft)』という物語詩(バラード)を書きました。そこでは名前が変えられて、メロス(Möros)とセリヌンティウス(Selinuntius)となっています。メロスのシラクスへの帰還を悪天候や洪水、盗賊の襲撃などで無意味に困難にさせることで友愛と忠誠の絶対的理想(absolutes Ideal freundschaftlicher Liebe und Treue)を際立たせています。その粗筋はそのまま『走れメロス』に反映されています。つまり、わざとらしくツッコミどころ満載の物語にしたのはシラーだったわけですね。

ちなみに、文春文庫に掲載されている「シルレルの詩」の注釈「シルレルの一七九五年作の物語詩「保証」のことである」とありますが、1798年が正しい作成年です。

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