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白井恭弘「ことばの力学-応用言語学への招待」

2013年07月31日 | 新書

 

岩波新書

2013年3月 第1刷発行

199頁

 

 

ことばは知らない間に人間の行動を左右する

標準語と方言、英語と現地語など、複数の言語が関わる状況では、優劣を生み出す無意識の力学が働く

問題を科学的に解決するための言語学――応用言語学の最新の研究から、外国語教育、バイリンガリズム、異文化との接し方、法言語学、手話、言語障害など幅広い話題を紹介

 

 

映画やドラマなどでは標準語を話す人が方言を話す人より能力や地位が優れている設定が多いです

外国映画や海外ドラマの吹き替えではそれが顕著で、先入観を持ちたくない自分は映画館もテレビも極力字幕スーパーを選ぶようにしています

本書によれば、外国のスポーツ選手のインタビューを日本語に訳した時、白人の場合の一人称は「ぼく」「わたし」が多いのに対し、黒人は「オレ」が使われることが多いのだそうです

実際に本人の話している言葉にそのニュアンスがあるのかどうかまではわかりませんが、どうなのでしょうね

自分が、原語を解せれば問題はないのですが…

 

第一部      多言語状況

 標準語と方言

 国家と方言-言語政策

 バイリンガルは悪か

 外国語教育

 手話という言語

 

第二部      社会の中の言語

 言語と文化

 無意識への働きかけ-政治・メディアのことば

 法と言語

 言語障害

 言語情報処理はどこまで来たか

 

 

幼少期からの英語教育、裁判員制度に伴う法律用語の平易化など

身近な話題にも触れられており、言語学という学問を知らなくても日常言語を使う私たちならば十分に理解できる内容です

 

 


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Engilsh education (noga)
2013-08-05 00:20:29
宇宙の成り立ち、古代文明の有様、外国の実情などを知る場合にも、我々は英語を使わなくてはならない。
外国人が我々日本人を理解する場合にも、英語を通して行われている。かな・漢字を通して理解されているわけではない。
だから、英語は、我々にとって単なる一外国語ではなく、とりわけ重要な国際語というにふさわしい情報交換の手段となっている。

英語圏に行けば、片言の英語でも通じる。暮らしてゆける。
完全な英語でなくても、英語環境がととのっているから通用するのである。
英語環境がととのっている環境で生活していれば、そのうちに、英語も上達する。

我が国においては、どんなに英語が堪能であっても就職先に困る。
それは、人々が英語を使わないからである。これでは、暮らしそのものが成り立たない。

日本の学校で6年間英語の授業を受けてもまず話せるようにならないのは、英語環境が整わないからである。
一歩学校の外に出ると英語を使わないのでは、せっかく習った英語も錆ついてしまう。
日々の学習努力も賽の河原の石積みのようなものになっている。

日本の学生のために英語環境を整えることが、英語力を増すことにつながると考えられる。
それには、英語を我が国の第二公用語にするのが効果的である。
国民も政治指導者も、英語の使用を日本人の ’あるべき姿’ の一つと考えることが大切である。

国際社会において、我が国を代表する政治家にも英語の堪能さが見られない。
日本語のみを使用する社会において、実用にならない言語の学習は空しいばかりである。それにもかかわらず、我が国においては英語教育に名を借りた序列争いばかりが激しく行われている。
英語の学習を民間に奨励するだけでは充分ではなく、英語を習得したことに対する国家の強力な報奨(incentive)が必要である。
英語を実用の言語とする政治指導者の先を見据えた努力が欠かせない。
たとえば、公務員採用試験に英語の能力にすぐれた人物に優遇処置を施すなどの法的裏づけなどが効果的でありましょう。

英米人には、手先・目先の事柄に神経を集中する特技は得られないようである。彼等は、生涯、日本人のような歌詠みにはなれないでしょう。
日本人には、英語を使って考えることはきわめて難しい。しかし、これは不可能なことではない。全員ではないが、知識人には為せばなる学習であると私は考えています。
わが国民の作る細工物は出来栄えが良い。なおその上、英米流の哲学にも良き理解を示す民族となれば、未来の日本人は鬼に金棒ということになる。
だから、英語を我が国の第二の公用語とすることには大きな意義がある。実現の暁には、我が国民のみならず、世界の人々に対しても大きな未来が開けることと考えられます。

一見我が国は教育大国を目指しているようであるが、大人の教育はない。つまり、子供が大人になるための教育は存在しない。
我が国においては、教育といえば子供の教育のことを指している。目先・手先のことのみを述べる人は、子供のようである。
大人には考える教育が必要です。つまり、一人一人に哲学が必要です。
現実と非現実の間に区別を置くことなく語る人の内容には意味がない。だから、日本の知識人の価値は低い。

我が国には「感情的にならず、理性的になれ」と国民に訴える指導者がいない。
「国民の感情に反する、、、、、」と言うのでは、主張の論拠にならないが、それのみを言う。
感性 (現実) あって理性 (非現実) なし。我が国は、一億総歌詠みの国にとどまっている。

大学生は入学しても、キャンパスで4年間遊んで過ごすことになる。
無哲学・能天気の大学生は、平和ボケ・太平の眠りの中にとどまっている。
「入学を易しく、卒業を難しく」というような教育方針は現状を観察すれば空しい限りである。

日本人は、国連中心主義が好きなようだ。
国連の議場で世界の人々を説得するためには、自己の言葉に冴えが必要である。
議論のできない人があえて国連中心主義を唱えるのは、自己の他力本願を表明するための手段という結果になるのであろうか。









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