この時期になると各マスコミも戦中戦後の事を毎日沢山の記事で伝えてくれる。戦争体験者がまだまだおられる今だからこそ大切な時期だと思う。まだ小さかった私は、戦場の事などは知らない。
でも、父のいない、電灯もない、狭い部屋で、家族が額を付き合わして暮らし、その日、食べるものさえ十分でないのに、なんとか足下が見えるうちは外でアリやミツバチのように働き、冬場の雪や雨風で外に出られない時の為に食糧や薪、内職の材料など少しずつ集めた。
それも数十キロもの山に登っで、収穫したものをかついで帰るえるのだから、少しのものしか持ち帰れないし、それで一日が終わってしまう。
家族みんな、言葉には出さなかったが父がいてくれたら、そろった家族の家庭を見ては、自分たちも、やがて父がいて楽しい会話が出来ることを信じて居たに違いない。そして終戦日のちょうど二ヶ月前六月十五日父戦死。やがて終戦、村でも一人二人と帰って、楽しげな話だけが伝わって来る。
覚えられるはずもない本物の父の顔も大きな花輪の中にかざられている写真の顔。それでも死んでしまったなんて信じられなかった。終戦日の数日後時間などわからないが、みんな寝ていた、私も眠っていたと思う。
雨戸をたたき、たたいま、と言う声にお父さん戻った、、、、とさけんで雨戸の所に駆け寄ると姉達も同じ気持ちだったのだろう、眠っていたはずなのに駆け寄った時は皆んな一緒だった。 ただ母だけは起きてこなかった。
雨戸を私が開けるとそこには 軍服姿で、りっくを背負って、にこにこしながら兄が立っていた。
兄のことを(あんにゃ)と呼んでいたから、私があんにゃ、じゃと言った言葉が余りにもげっそりした言葉だったのだろう、母も側に来ていて、戒めがあったことを覚えている。この兄と私は十二歳違っていて、兄は生まれてまもなく母の実家でもある母の兄のもとに養子として入っているので兄弟と言っても馴染みは薄かったのです。
兄はまだ徳島の練兵場にいたので解放されると三十数キロ歩いて帰ったのでこんなに遅くなったと言っていたので、夜もだいぶ更けていたのだろうと今思うのだが、その数年後から山仕事をする兄と、学校以外は父が使っていた形見のゲートルを足に巻いて一緒に山に行くようになった。
話し相手と言うことになっていましたが、大人についていくだけが大変な重動労でした。
それにゲートルもうまく巻くことが出来ません。最初一回は母が巻くいてくれたのですが後は自分で付けるとほとんど途中でずれ落ちてしまい、まき直すと遅れてしまうので手早く取り外し一生懸命兄の後についていった思い出があります。
現在30歳40歳の方達5歳だったの時の記憶どれくらいあるでしょうか? 当然私も他のことはほとんど記憶にありません。父の遺骨を受け取りに4キロの道を歩いたのに道中のことは全く記憶に残っていません。
でもこれは父を待つ私の5歳だった時のはっきりした出来事です。純情な子供心に、ここまで焼き付けられたことは、戦争のいたずら以外に何者でもないと思います。
この八月と:憲法九条の話が出た時は沢山の記事などが取り上げられますが、月も変わり、沢山の記事もあって、マスコミも取り上げられないのかも知れませんが、そのとき時、八月の草花であってはいけないと思うのです。
体験者が語ってくれる今、次々つぼみを持つ花木に育て、どこででも目や耳に入るようにしないと、戦後生まれの方には、なか々理解しにくいのではないでしょうか。
思い出すことさえも悲しいことなのです、でも沢山の犠牲者があって現在があることを絶対に忘れてはならないのです。そして戦争は戦場に行く人は言うまでもなく大変な犠牲者ですが、女性も子供も大変なことになることをこ知ってほしいと思います。