老後の日々

果物に野菜作り等、
今では趣味にして気間々にやっています。

六十二年目の終戦記念日八月十五日も過ぎた

2007年08月17日 | Weblog

この時期になると各マスコミも戦中戦後の事を毎日沢山の記事で伝えてくれる。戦争体験者がまだまだおられる今だからこそ大切な時期だと思う。まだ小さかった私は、戦場の事などは知らない。

でも、父のいない、電灯もない、狭い部屋で、家族が額を付き合わして暮らし、その日、食べるものさえ十分でないのに、なんとか足下が見えるうちは外でアリやミツバチのように働き、冬場の雪や雨風で外に出られない時の為に食糧や薪、内職の材料など少しずつ集めた。

それも数十キロもの山に登っで、収穫したものをかついで帰るえるのだから、少しのものしか持ち帰れないし、それで一日が終わってしまう。

家族みんな、言葉には出さなかったが父がいてくれたら、そろった家族の家庭を見ては、自分たちも、やがて父がいて楽しい会話が出来ることを信じて居たに違いない。そして終戦日のちょうど二ヶ月前六月十五日父戦死。やがて終戦、村でも一人二人と帰って、楽しげな話だけが伝わって来る。

覚えられるはずもない本物の父の顔も大きな花輪の中にかざられている写真の顔。それでも死んでしまったなんて信じられなかった。終戦日の数日後時間などわからないが、みんな寝ていた、私も眠っていたと思う。

雨戸をたたき、たたいま、と言う声にお父さん戻った、、、、とさけんで雨戸の所に駆け寄ると姉達も同じ気持ちだったのだろう、眠っていたはずなのに駆け寄った時は皆んな一緒だった。 ただ母だけは起きてこなかった。

雨戸を私が開けるとそこには 軍服姿で、りっくを背負って、にこにこしながら兄が立っていた。

兄のことを(あんにゃ)と呼んでいたから、私があんにゃ、じゃと言った言葉が余りにもげっそりした言葉だったのだろう、母も側に来ていて、戒めがあったことを覚えている。この兄と私は十二歳違っていて、兄は生まれてまもなく母の実家でもある母の兄のもとに養子として入っているので兄弟と言っても馴染みは薄かったのです。

兄はまだ徳島の練兵場にいたので解放されると三十数キロ歩いて帰ったのでこんなに遅くなったと言っていたので、夜もだいぶ更けていたのだろうと今思うのだが、その数年後から山仕事をする兄と、学校以外は父が使っていた形見のゲートルを足に巻いて一緒に山に行くようになった。

話し相手と言うことになっていましたが、大人についていくだけが大変な重動労でした。

それにゲートルもうまく巻くことが出来ません。最初一回は母が巻くいてくれたのですが後は自分で付けるとほとんど途中でずれ落ちてしまい、まき直すと遅れてしまうので手早く取り外し一生懸命兄の後についていった思い出があります。

現在30歳40歳の方達5歳だったの時の記憶どれくらいあるでしょうか? 当然私も他のことはほとんど記憶にありません。父の遺骨を受け取りに4キロの道を歩いたのに道中のことは全く記憶に残っていません。

でもこれは父を待つ私の5歳だった時のはっきりした出来事です。純情な子供心に、ここまで焼き付けられたことは、戦争のいたずら以外に何者でもないと思います。

この八月と:憲法九条の話が出た時は沢山の記事などが取り上げられますが、月も変わり、沢山の記事もあって、マスコミも取り上げられないのかも知れませんが、そのとき時、八月の草花であってはいけないと思うのです。

体験者が語ってくれる今、次々つぼみを持つ花木に育て、どこででも目や耳に入るようにしないと、戦後生まれの方には、なか々理解しにくいのではないでしょうか。

思い出すことさえも悲しいことなのです、でも沢山の犠牲者があって現在があることを絶対に忘れてはならないのです。そして戦争は戦場に行く人は言うまでもなく大変な犠牲者ですが、女性も子供も大変なことになることをこ知ってほしいと思います。

 

 


はかない運命の叫び

2007年08月08日 | Weblog

古謡...作家歌手、合田 道人、熊本県五木は秘境と言う名にふさわしい。平家落人伝説も残り、その末裔とう人々が近代まで村の有力者だったと言う。歌調に出てくる、あん人たちゃ よか衆、、である。民は幡主に年貢米を納め、余りはよか衆に納めた。

貧しい民たちは田畑を耕し、子供は奉公に上がった。その風習は受け継がれ五木だけでなく、ふもとの人吉などに奉公にでる娘が昭和になっても存在していた。「いつ父や母に会えるだろうか?」という苦しみの日々を歌った歌調は七十以上にも上がる。

戦後に古関裕而が編曲したものが全国的に流布したが、当時五木周辺で歌われていた旋津は異なる。そこには哀愁と郷愁が擬縮されている。「おどま」とは私、「盆ぎり」は盆限りとかく。

「お盆過ぎたらもうここにはいない」と言う意味だ。奉公先を変えながらも、いつか故郷五木に帰りたい、、、と願いながら、悲しさと辛さに絶える子守娘のはかない運命の叫びが、今も聞こえて来るようだ。

 

おどま 盆ぎり盆ぎり

盆から先ゃ おらんと

盆が早よ来りゃ早よもどる

おどま かんじんかんじん

あの人たちゃ よか衆(し)

よか衆 よか帯 よか着物(きもん)

花は何の花

つんつん椿(つばき)

水は天から もらい水

 

 


町中を走る流れよ夏の月

2007年08月08日 | Weblog
城下町とか山の町では、道の両側の家の軒下に溝を作ってあって、清らかな水が流れているのを良く見かけた。水を生活の中に引き込む町作りの計画によって実現したものだ。近代の車社会になって過去の遺物とほとんど整備されてしまったが、古くは至る所で見られる光景だつた。昼間はいろいろ便利な利用の仕方があり、夜になると月を映して納涼の気分を盛り上げたものである。

我が国人口連続で減少

2007年08月08日 | Weblog

今年3月31日現在の住民基本台帳に基づく人工動態によると、全国人口は、例年に比べ千五百五十四人減の一億二千七百五万三千四百七十一人となった。人口減少は1968年の調査開始以来、初めて減った昨年に続き二年連続となった。徳島県は四千六百四十三人、0.57%減の八十一万千六百七十八人。

65才以上の老年人口の割合は21%と過去最高の更新。死亡者は八千八百九十三人増しの百八万千百七十四人で過去最大となり、総務省は「老年人口や死亡者の増加で、少子年齢化や人口減少社会の進行が早くなっている」と分析している。東京・名古屋・大阪の三大都市園の人工は六千三百五十三万九千三百六十二人、92年に三大都市園の調査区域を変更して以来、初めて人工の半数を上回り、大都市園への人工集中を裏付けた。

農村主流だつた我が国も戦後、国の成長と共に人工も都市へと移動、農村地域には若者がいなくなり、山間部の開拓をして自給を助けてきた人々も高齢化、死亡したり、村では生活が出来なくなり、身内の居る所へ移り、貧しいながらも、人々が助け合って生活してきたの家々は潰れ、葛がそれを覆う。

こんな風景があちらこちらで年年増えている現状です。皆さん一寸だけ振り返ってて見て下さい。戦後まだ62年です。60年前、現在70才の人が子供時代、特に田舎等では急斜面の小さな畑の補修をしながら作物を作る大人を見たり、手伝ったりして来たのです。外から買うものと言えば、農作業をするために必要な衣類を作る生地。

年に何度かの魚類位でほとんど100%自給でした。それが生産を捨て、みんなが買う側に集まっています。我が国だけではありません。発展途上国と呼ばれる東南アジア諸国の人達も望んでいることなのです。特に日本、自給率2.7%と言われていますが、現在70才以上の人達がまだまだ農業をしてくれています。でも、どんな条件の良い田畑でも高齢者には出来ません。

どんどん宅地に変わっています。自給率も早い速度でゼロに近かずいてきくのではないでしょうか。又、給料が安くて子供も生めないとの声も聞えます。現状は厳しいと思いますが、過去の日本も現在の他国もそうです、貧しい時代、貧しい家の子沢山なのです。今世界人工はどんどん増えています。子供を作れず、人工減少の日本に生活場所をなくした民族が入り込んでくることも将来は考えられることです。
日本のエスキモウー民族の勉強も必要になりそうです??。

 


 


断水時に威力発揮

2007年08月01日 | Weblog

新潟県中越沖地震では断水が続き、トイレに困った人が多い。そんな時、役に立ちそうなのが、市敗の簡易トイレだ。東京の東急ハンズ渋谷店の防災コーナーには、数種類の簡易トイレが並ぶ。

家庭トイレにポリ袋をかぶせ、使用後に凝固剤を入れるタイプ、(50回分でやく9500円)段ボール素材のキットで便器を組み立てる商品(約2800円)いずれも使用後に水を流す必要がなく、断水時に威力を発揮する。

抗菌消臭剤がセットになっているものもあり、衛生上の不安も解消されそうだ。防災用品と言うと、まず非常食を用意する人が多い。だが、同店の防災用品担当者は、「ライフライン」が断たれた時の事を考え、

「水と簡易トイレの準備をおすすめします」と話す。一人が一日にトイレを使用する回数は5~6回と言われている。家族の人数に合わせて、数日分は用意しておくとよいでしょう。


お盆月こんなエビソード

2007年08月01日 | Weblog

あの世、と とやらには地獄と極楽と言う所があるらしい。私も出来ることなら、ごく、らくな方に行きたいと思っているが、そちらに導いて下さるだろうか。

ある寺の境内に、地獄と極楽の絵が掲げてありました。どちらも食事の様子が書かれています。そこでまず地獄の絵を見ますと、人々の手には、一間もある長い箸が結びつけられています。

ご馳走を食べようとしても、なかなか自分の口に入れることが出来ません。みんな痩せ衰えて、もがきづくめにもがいています。次に極楽の絵を見ますと、やはり一間もある長い箸を結びつけられていますが、みんな楽しそうです。

それは、互いに向かい合った者同士が、相手の口に食べ物を入れているからです。、、、、相手に喜びを与えることが、極楽の世界ではないでしょうか。