老後の日々

果物に野菜作り等、
今では趣味にして気間々にやっています。

樹齢百五十年のホルトノキ

2007年05月31日 | Weblog

        

徳島県徳島市の中心地に蜂須賀公が城を構えた城山があります。お城は焼けてしまって有りませんが、小さな山全体原生林に覆われています。近くに住む人達は一周したり、登ったりと、朝夕、日曜日などは沢山の方が利用されている所でも有ります。東坂口から石段を登ること五分。

かって徳島城の天守閣があった東二の丸後の再東端に、樹齢百五十年以上のホルトノキが二本並ぶ。ホルトノキは城山原生林の代表する木で、徳島市の木にも選定されている。でもホルトって何だろう。懸自然保護協会によると古くは椎(しい)トキと呼ばれていた。

江戸時代中期の博物学者・平賀源内(1728年ー79年)がオリーブと勘違いし「ボルトガルの木」と言ったのがなまった、との説が有るが、いつ呼び名が変わったかは判然とはしない。常禄樹で夏には白い花を咲かせる。城山にある群落は県内随一。20年程前まで250本以上あった。

しかし現在は三分の一以下に激減。車の排気ガスなどが指摘されるものの、原因は分からず、十数年で枯れ木の山になるのでは、と心配されている。東二の丸後の二本も南側の木は既に枯れ、もう一方も幹に空洞が出来、樹勢に陰が見える。街中に残る貴重な原生林。保護に向け徳島城址を愛する会などが植樹も初めてはいるが。?

 


人は死に竹は皮脱ぐ

2007年05月30日 | Weblog

人は死に竹は皮脱ぐまひるかな、竹の子は伸びるにしたがい、下の節から竹の皮を落として若竹となる。松本たかしは「竹の皮落ちて音する人のごと」詠んだ。掲出句は初五で゛「人は死に」と無常をを言う。

万物は生滅流転して、永遠に変わらないものはない。隠れない事実であり、それを象徴するのは座五の<まひるかな> である。「物には時節、花の咲き散り、人間の生死、嘆くべき事あらず。

   


1987年(丁卯年、生まれ)のもつ性格

2007年05月30日 | Weblog
昭和62年生まれの性格、外観もおっとりして、福徳円満にして柔和の性質、しかし、ややもすると、鳴かず飛ばずの事なかれ主義に陥ることも、本来が爐中火と言い、意気もっとも盛んなことを表し、ますます盛んに燃える状態を表す星です。何事も節度を失しなわないように心がければ人望を落とすことなく、手堅く出世して、物、心両面に満足する運勢を供えています。

日本近海水温上昇

2007年05月30日 | Weblog

         

日本周辺海域の年平均海面水温は、過去100年で1.6-7度上昇しており、一部海域を除き世界平均の最大三倍のペースで上がっていることが、気象庁の観測で分かった。世界の年平均海面水温の上昇度は過去100年で0.5度。日本近海はこの3.2-2.1/と四倍に当たることになる。

気象庁は「地球温暖化も一因と見られるが、ハッキリした原因は分からない」として今後、分析を進める。専門家から漁業への深刻な影響を懸念する声も出ている。気象庁は十九世紀末頃から観測船や一般商船などが測定した約二千万件海面水温(水深1.2メートル程度)レーターに基づき、日本周辺海域を13区分し、過去100年間の上昇度を調べた。

水温の上がり方が1.6度ともっとも大きかったのは日本海中部。黄海や東シナ海、東海ー四国沖などほとんどの海域で、世界平均の二倍の1.0度以上、上がっており、地球温暖化に伴う日本の地上気温の上昇度(100年で1.1度)と同程度と言う。一方、東北沖の太平洋や北海道・釧路沖、日本海北東部では顕著な上昇は見られなかった。

ユーラシア大陸の中・高緯度地域で地上気温の上昇が大きいため、日本近海はこの影響を受けた可能性があるとか、温暖化の影響がどれぐらいあるが調べる必要があるとしているが、国の気象庁、少しでも分かれば警告を出すべきで、調べる調べてからでは手遅れも益々ひどくなると思う。


環境破壊

2007年05月28日 | Weblog

自然は、沈黙した。鳥たちは、何処え行ってしまったのか。ああ鳥がいた、と思っても、死にかけていた。ぶるぶる体をふるはせ、飛ぶことも出来なかった。春が来たが、沈黙の春だった。米国の生物学者レイチェル・カーソンが「沈黙の春」を出版したのは1962年。農薬や合成殺虫剤による環境破壊に警告をならし、米国に環境保護庁が設けられたきっかけとなった。世界各国で翻訳され、環境保護のバイブル敵存在にもなった。

農薬などの乱用は川の水や地下水、土壌を汚染する。魚や鳥、家畜ばかりか人間の身体にも発ガン物質を蓄積させる、とカーソンは警告した。同書の出版から2年後、カーソン自身も、乳ガンで56歳の生涯を閉じている。沈黙の春の出版から45年警告は。心ある人々を啓発し続けたが、環境破壊は地球的規模で進んだ。カーソンが生きていれば、どんなに悲しんだか、

カーソンは書いている。そんなの環境破壊などは空想の物語さ、とみんな言うかも知れない。だが、これらの禍いがいつ現実となって、私たちに襲いかかるか、思い知らされる日が来るだろう。:現実になった、しかし、何処まで思い知ったか?。と言われれば、まだまただそんなに知る人も少ない。でも、来てしまった。

 

 

 


古代布、太布

2007年05月26日 | Weblog

全国でも徳島県那賀町の木頭にしか伝承されていない古代布「太布」(楮布)とも言う。その展示会「楮布織展」が鳴門市の喫茶店、店内ギヤラリーで開かれている。古代、働く布、とよばれ、穀物の袋や衣服に使われた楮布。

時代は移って現代の暮らしにあった、テーブルセンターやクッション、ショルターバック等が展示、即売されている。和紙の原料にもなるコウゾの仲間、カジの樹皮から紡いた糸で織られた製品は、ざっくりとした手触りで、生成りの自然な色合いが美しい。

使えば使うほど、布の強さも嘆じられると言う。大量生産品にはない、本物の良さだろう。木頭には、戦後途絶えていた太布織を復活させた伝承会がある。沖縄には芭蕉布と言うのがある。根気のいる二十近い工程のうち、カジの枝を山から集め、庭で蒸す作業から始まる。

あまり遠くない私の「故郷」村では、三つ叉と言う木を自然のものを集めたり栽培していました。これは和紙に使うものですがいずれも、何でもなさそうなものから、立派な製品を作り上げた先人達の知恵は素晴らしいものです。そして苦労を重ねた末の製品、見捨てることは許されないことなのです。

 

 


出生の情報子を奪いに出向く役人

2007年05月25日 | Weblog

今全世界の人口が60億、100数年前日本では明治時代、世界の総人口は15億程度だった。これから100年後には100億に達するとの見通し。国連の発表、人口の多い国と言えばオーストラリア・中国だろう、日本の人口は1億2千800万と言われてはいるが、外国移住者がふえ、数に大きな変化はないようだが日本の民族は果たして?。高齢化が進み集落の減少、農地の荒廃、2000年には13万5千の集落数が20年には11万6千となる見通し、中国では人口13億とも言われていますが、ここも正確な数字でなくもっと多いかも知れないとの事です。

地球上で生産される食料は限られています。今私たちのように、いつでも欲しいものが食べられる、欲しいものが手に入る人は、先進国と言われる国の人達で総人口の3割にも満たないとのことです。発展途上国呼ばれる国々の人達、例えば中国などはすざましい勢いで発展してきています。これらの国の何割かの人達だけでも贅沢になってきます、今73%を輸入に頼る日本、今後の食料確保は??

中国、こんな食料問題も考えてかどうかは知れませんが、二十一日付の香港各紙によると、中国広西チワン族自軸治区玉林市で、当局がこのほど「一人っ子政策」の徹底を打ち出したところ、市内各地で住民が反発。警官隊と衝突し、多くの犠牲者が出た。報道によると、1980年以後に第二子を生んだ家庭に対し、「社会扶育費」として最高二万元(約32万円)を数日以内に納める事などを命じ、出来ない場合は財産などを没収すると通知した。

さらに子供を持つ一部の女性に対し強制的に避妊手術を行ったとされ、各地で衝突が起きたと言う。各紙によると、玉林市は上級政府から一人っ子政策を守っていないと批判され、八月までに事態を改善するよう指示を受けた。改善されない場合。担当の市職員は免職処分を受けるとされ、一人っ子政策を守らない住民から一人あたり五百元の罰金を取り立てるようノルマが課せられていたと言う。
  

    

 


教育改革法案今日参議

2007年05月21日 | Weblog

モスクワの北北西にある、日本よりやや広いだろうかと思われるぐらいの国、フインランド、この国の子供の学力が世界一として知られる。その秘密を探るため、元教育大臣ヘィノネン氏に聞いたNHKのBS特集「未来えの堤言」は日本の教育にも大きな示唆を与えてくれた。

フインランドの教育改革は1994年。当時教育大臣になった29歳のヘイノネン氏は、教育現場に大幅な裁量権を与える。授業の内容も教え方も現場の教師にすべて任せた。大臣ではなく、教師こそが教育のプロだからである。国が厳しく管理すると教師の意欲も生徒の意欲も失われ、何もかもだめなる。

大臣の狙い通り、授業には工夫が擬らされ、子供達は知識だけでなく考える力も身につけていく、今の日本の教育は全く逆だ。先日衆議院を通過した教育改革関連山法案には、教員免許更新制や、愛国心教育などが明記去れ、国家統制を強める内容、教育改革について、ヘイノネン氏は言う、教育制度を急転換するような法案は、無理矢理通すべきではないと言う。

そう言われてみると、私達子供の頃はそれぞれ個性のある先生だった。優しい人、教えの上手な人、厳しい人、厳しい先生の時間になると気が引き締まる、拡張する、そして何時間目かに優しい先生の時間になると気が休まる、それでも気を抜きすぎるとビンタが飛んでくる、同じような事をしても怒らなかったが、今日は叱られた、今日はあの先生機嫌が悪いぞ?、等と思ったものだが其処には、けじ目があったように思う。

二度までは許せても三度目は駄目とか、これには体罰が必要など。ここで考えなければいけないことは、外国はこうだとか、何処の国はこうなのに日本は駄目だとか、討論会などでは良く聞く言葉で力のある人はこれを現実に持っていこうとする。フィンランドの教育改革が良いと言っても、ここまで考え方の変わった今の日本人には当てはまらないだろう。教育改革関連三法案は、今日参議院で審議入りする、今の日本人に一番必要な改革を望む。


阿波歴史こぼれ話

2007年05月20日 | Weblog

寺子屋とは江戸時代の庶民のための初等教育機関。武士・僧侶・医者・神職などが師となり、手習い、読み、そろばんなどをおしえた。徳島県上板町の瀬部村教育沿革史には寺子屋について次のように書いてあるようだ。

「封建の時代に於ける一般人民の名誉心は、専ら武術を鍛錬し、武功をたつるに汲汲たりしを以て、千歳騒擾の間にありて僅かに文学事業を保持せしものは、彼の兵馬に関係なき僧侶・神官・医師の如き輩ありしのみにて、一般児童の教育はこれに属せしめて、その生徒を寺子と呼び、教場を寺子屋と称するに至れり」ーと。

「上板町史は上板町の寺子屋教育」という項をもうけて、特に詳しく寺子屋について述べている。明治に入って同五年(1872年8月)学制がしかれ、全国の村々に数多くの小学校が開設されたのは、江戸末期に寺子屋の普及があったためと言われる。

町史は「上板町内の現在の小学校のすべて創設の当初は、先覚者達の経営する寺子屋をそのまま借り受け、これを基盤として発送した」。

町内に残っている当時の寺子屋の二人机は長さ107幅37高さ25センチ。町内では師匠(先生)の家が教場になり、畳の部屋に勉強の机を並べ、これに寺子(生徒)が二人ずつ正座し、部屋の中に幾列にもなり、師匠は正面に座って全体を監督していた。

寺子の座席は定まった位置はなく、朝早く来た者から順番に前の方から席を取った。寺子は机の横に「文庫とよぶ」木箱を置いてその中に、すずり・筆・紙などの学用品を入れ、一日の手習い(勉強)が終わると机と文庫を部屋の一隅に積み重ねて整頓した。

学習用具で寺子机は普通、サワラかモミの板で作り、薄赤く塗った粗末なもので、天神机とも呼ばれる。教材は、主事を主としていたが字を習うのと同時に、手本の音読み・字義・句意・文意などについて教えられた。試験もあった。

毎月末と年末に寺子へのテストを行った。月末の試験では、その月に習った手本を、見ないで書かせ、年末にはその年に学習した手本の中から十本を選んで朗読させる。試験で優秀な者は、氏名を教場に揭示したという。

寺子屋で守らなければならないことは、男子に対しては、1,師匠と父母の申しつけを良く守る2、礼儀を重んじ行儀正しくする、3,朋輩互いに睦まじくすること、4,喧嘩・口論をしてはならない、5,食物・金銭などを持参しない事、など。

女子に対しては、顔のよしあし、着物のよしあし、家の暮らしむき、我がままの振る舞い、男子の噂、告げぐち、むだぐち、耳こすり、高笑いーなどをしてはならない。      

 ただ勉強だけを教える場でなかったことを悟りたいものである。

      歴史の小道を訪ねたら見えてきた、現代人の忘れ物。