寺子屋とは江戸時代の庶民のための初等教育機関。武士・僧侶・医者・神職などが師となり、手習い、読み、そろばんなどをおしえた。徳島県上板町の瀬部村教育沿革史には寺子屋について次のように書いてあるようだ。
「封建の時代に於ける一般人民の名誉心は、専ら武術を鍛錬し、武功をたつるに汲汲たりしを以て、千歳騒擾の間にありて僅かに文学事業を保持せしものは、彼の兵馬に関係なき僧侶・神官・医師の如き輩ありしのみにて、一般児童の教育はこれに属せしめて、その生徒を寺子と呼び、教場を寺子屋と称するに至れり」ーと。
「上板町史は上板町の寺子屋教育」という項をもうけて、特に詳しく寺子屋について述べている。明治に入って同五年(1872年8月)学制がしかれ、全国の村々に数多くの小学校が開設されたのは、江戸末期に寺子屋の普及があったためと言われる。
町史は「上板町内の現在の小学校のすべて創設の当初は、先覚者達の経営する寺子屋をそのまま借り受け、これを基盤として発送した」。
町内に残っている当時の寺子屋の二人机は長さ107幅37高さ25センチ。町内では師匠(先生)の家が教場になり、畳の部屋に勉強の机を並べ、これに寺子(生徒)が二人ずつ正座し、部屋の中に幾列にもなり、師匠は正面に座って全体を監督していた。
寺子の座席は定まった位置はなく、朝早く来た者から順番に前の方から席を取った。寺子は机の横に「文庫とよぶ」木箱を置いてその中に、すずり・筆・紙などの学用品を入れ、一日の手習い(勉強)が終わると机と文庫を部屋の一隅に積み重ねて整頓した。
学習用具で寺子机は普通、サワラかモミの板で作り、薄赤く塗った粗末なもので、天神机とも呼ばれる。教材は、主事を主としていたが字を習うのと同時に、手本の音読み・字義・句意・文意などについて教えられた。試験もあった。
毎月末と年末に寺子へのテストを行った。月末の試験では、その月に習った手本を、見ないで書かせ、年末にはその年に学習した手本の中から十本を選んで朗読させる。試験で優秀な者は、氏名を教場に揭示したという。
寺子屋で守らなければならないことは、男子に対しては、1,師匠と父母の申しつけを良く守る2、礼儀を重んじ行儀正しくする、3,朋輩互いに睦まじくすること、4,喧嘩・口論をしてはならない、5,食物・金銭などを持参しない事、など。
女子に対しては、顔のよしあし、着物のよしあし、家の暮らしむき、我がままの振る舞い、男子の噂、告げぐち、むだぐち、耳こすり、高笑いーなどをしてはならない。
ただ勉強だけを教える場でなかったことを悟りたいものである。
歴史の小道を訪ねたら見えてきた、現代人の忘れ物。