老後の日々

果物に野菜作り等、
今では趣味にして気間々にやっています。

馬鹿でなければ書けない憎まれ口

2007年12月29日 | Weblog
今年も最後ですね。この一年、この歳になってなんて言葉も私の耳に沢山入りました。

それも30才~50才の方に多いのはなんでなの?日本人は90才近くにも伸びた寿命なのに50才はまだ約半分じゃ。

五臓、五宮、五体満足に授かり恵まれた家庭て恵まれた環境の中でご両親に育てられ教育を受けそれでも周囲が明るいが為に自分に満足できない人もいます。

そして不幸にして生まれながら五臓五宮五体等に障害を持ち病気と何十年と戦いながら生きる事だけを目的に努力している人がこの世にどれ程いるだろう。

その人達はいろんな挑戦の連続なんです。例を上げれば色々な方がいます。でも一般には20才で成人式をして大人としての仲間入り60才で定年です、

その間40年男性にとっては社会に出ても20代30代はまだ世間からも認めてもらえず下積みの時代と言えるかも知れません。

40才ともなれば知識も積まれ体験の自信と度胸も備わります。しかしまだこの時期は家庭の問題が残ります。

子供さんの教育進学、住宅など。そして50才、子供さんの進路も決まり社会的にも格が上がり事業をしている方などもまずは安定の路線に入ってはいるものの。挑戦の最中ではないでしょうか。

ここでこの歳になってなんて言わないで欲しいです。今私は高齢と言われるに近い年です。今までやって来たことを人に託し、全く違った事を始めるに至って人様に頼りお願いしていますが。

先輩達の何人かは居なくなっていたり、同年配の方も代替わりをして力を落としていて、そこで紹介して下さった方とか、個人的にお願いする方達は80%50才代の世間で活躍されている方達です。

つまり今の日本を支えている人達は40才50代の貴方達と言っても過言ではないと思います。言ってる言葉にもとても自信が見られます。

意見を聞くことも? 五宮に障害を持っていたり教育を受けられなかったものには体力に頼るしかありませんが教養ある方は色々なことに挑戦して世間で活躍して欲しいものです。

生まれて始めてとか、この歳でとかは我が儘にしか私には聞こえないのですが??、

呉服屋の旦那ジーパンならはけるはず。でもそこに見栄や我が儘や抵抗が? 店でジーパン駄目ですよ、でも町内の掃除にタイミング合わせれば??、、

馬鹿に生まれたからこそ出来る事

2007年12月13日 | Weblog

今年もあと僅かです、相変わらず早一年が過ぎてしまつたのかって毎年暮れになると思う事なのですが、私はここ2年程お金もパソコンや道具に変わり、身体は無償でパソコンのお付き合いをした?て感じなんです。

風水をする上で正確な方位を出し手早く資料を作りたいと思い、若くもない。
無理は承知で、昨年初めお知り合い「Aさん」に図面ソフト・キャドを設定して頂きましたが、最初考えていたようにスムースな作業が出来るまでには長い              時間が過ぎてしまいました。

文字を打つだけだった私に、教える側も大変でしよう。それでも分からないと電話すれば、来て教えてくださる。全部無償です。授業料払うのならかなりの金額になると思います感謝しています。

そして一昨年の11月またまた野望が出て自分のホームページが欲しいと思い始めたのですがこれはとんでもない事、内容が何一つ、分かっていない者がみんな人任せは無理。

それでも私の事を知った、「Bさん」がパソコンに詳しいお友達を誘って来てくださり、結果ブログから始めてみてはと言う事で設定してくださいました。

だんだんパソコンに熱中するようになりそれまでブラウン管式のものを買い換えたのですが其れに馴れるのにこれまた大変、それに携帯も駄目になりこれも新器類に私にとっては苦痛連続でした。

それにブログは毎日記事を投稿すれば閲覧数も増えますがこれも出来ず。結果、同じgooの簡単ホームページを作り、少しは整いかけた頃に、このホームページ9月30日でサービス中止の知らせ。

間もなく仲間の方は思い思いの所に引っ越しを始め、取り残されそうな私をまたまた、「Cさん」このミクシィを紹介からご指導まで引き受けてくださり何とか現在に至っているのですが先月、

徳島の自宅の方にNTTのファイバー設備工事が整ったのを期にこちらでもパソコンをしたくなり購入。自宅では又、全く別のことに挑戦していますが、なんで時間一配こんな事するのか自分でもよく分かってはいません。

世の中には馬鹿で無ければ出来ない事って結構ありますからその一番乗りです。ブログミクシィは絶対頑張ります。皆さん宜しくお願いしますね


今年最後の大きな声で言いたい愚痴

2007年12月09日 | Weblog

ハッキリ残る幼い頃の村での葬式、人が亡くなると口伝いでみんなに知らせる。隣村にも口でしかない、日暮れになくなった従兄、その弟の子と二人で提灯の灯りで山を登り峠を越して遠い村まで知らせに行った思い出がはっきり残っています。
知らせが来るとまずはお悔やみに、その時、婦人達は明日からみんなが来て食べる料理の打ち合わせ材料の持ち寄り、男性達は葬儀に使うものはすべて各自の材料で手作り。若衆達は土葬のため墓場で穴掘り、誰から指示を受けるのでもなく自分の判断で手の少ない方に行く。

損得など無いみんな無償で働く喜びの顔だったと思う。特に穴掘りなどした若衆の顔などは。子供の私にはどんな作業たが分からないが 、 無くなった日から3日間はみんな集まっていました。当然お坊さんも3回はその家に出向いていました。そのお礼もお心任せ、みんな自覚していてお金のある家はそれなりに出すようでした。しかし年間何度もないことで住職さんの生活はなり立ちません。

そこで村人は何かある事に「寄り合い」を開いて住職さんの生活も支えていたようです。それまでは村人との絆も深く お寺の境内は子供達の遊び場、だれがいなくても和尚さんがいる、そんな場所だったのだと思います。やがて若い住職さんになると子供達が集まるのを好まなくなり、境内を花畑にし狭くなったのと、村役場に勤めるお坊さんは安定した収入に対して村人は楽な生活ではなく、

村からの援助も途切れたのではないかと思うのですが、とにかく戦後10年も過ぎ、この頃から既に私の村に限らず人間が変わり始めていたように思えてなりません。当時母から聞いた言葉に、人が亡くなった時だけはお金は無くても葬儀はしていただけるとの言葉が残っています。そして現在お坊さんは請求書こそ出しませんが、葬式、法要など料金は決まっているようです。

 


二 話

2007年12月09日 | Weblog

今、私が住んでいるところにも小さいけれど立派なお寺があります。そこにやがて90才にも近い和尚さんがいました数年前ここもお寺を建て替え、その後まもなく引退して近くの小さなお寺にいますが 、この和尚さん、私の母が亡くなった時、何も言わなかったのに、立派な戒名を頂きました。いくらお支払いすればと聞きますと、お心任せと言って僅かなお金しかとってくれませんでした。

理由は戦場に出向いた主人の後、留守を守った人だから、主人の位に価値する戒名を与えてあげるのは当然のことです、と言ってくださいました。他のお寺では大きい金額と聞いていたし、今の時代こんな人がいるとは思ってもいませんでした。感謝は勿論ですが頭の下がる方です。

私としてもこのままではいけないと思っている時、お寺の建て替えと言う事になり数ヶ月後寄付を集める知らせが回り、そこには和尚さんの住宅も含まれています。我が家としては、さすがにトップの金額は出せませんでしたが二番目の金額を、ほんの一部でもと恩返しのつもりで納めさせて頂きました。 ここまでが私の幼い頃から知る、庶民と和尚さんのイメージです。

ごく最近人が亡くなった時から居合わせた葬儀があるのですが。何処のご家庭にも外交が行き届いていて、冠婚葬祭に供え、会員制にして積み立てをしたり、事があるとすぐ来てくださり段取りをしてくれる便利さがあります。この家庭も無くなったすぐ連絡をしてあったのでしょう。正午過ぎ腰を低くした青年の方が来まして、早速ですがと、、葬儀の進め方の説明を始めました。

そして祭壇は3種類あって、ごく小数で行うところと、一般には使用料48万円と80万円  のがありますが、今回は4件の葬儀が決まっていて48万の祭壇は既に予約済み、80万の方しか残っていないと話しています。それが駄目なら日を改めてと?..葬式なんですよ?  そこに死人がいます、みんなに連絡もしてあります。祭壇がないから明日にしますなんて言い直せますか? ...  そこの奥さんその金額の差に言葉を失っている。息子さんも納得のいかないようす、


三 話

2007年12月09日 | Weblog

気の毒に思ったので私がみんなに連絡をしてからまだ時間も過ぎていないからもう一度電話をすればと横槍を入れる事に。そこは葬儀や、親類は良いとして町内などは口伝えに広まっているのでどうだろうと言いながら値引きが始まります。48万の祭壇が無い場合に限り飾り物などを替えることにより近い金額に出来ますとのことで結局それに収まったのですが、確かに一日借り切りです。

でも、その前に座る時間は僅か1時間30分ほどです。手に触れることなどありません、傷つくことも汚れることもありません。作るのにいくらかけているのかは分かりませんが、ほとんど毎日利用しているものです。もう少し安く利用させてはもらえないものなのでしょうかね。 それに食事からおみやげまでみんな葬儀屋の手配です。つまりマージンの含んだものです。総額にし120万ぐらいでしょうと言っていました。

前書きが随分長いのですが言いたいのはここからも続きます。 お坊さんに時間を連絡しておくと自分の車でその時間に会わせて来てくれます。拝む時間2回で50分ぐらいでしょうか計ってないのではっきりは分かりません。拝み終わるとにっこりと頭をぺこぺこ下げながら会場を後にします。後でお金とおみやげ、食事も折り詰め出来る物は一緒に届けるしきたりだけは残っているようです。

そしてお坊さんにはお礼と言う名目になっていて20万から30万円が 相場だそうです。皆さんあまり関心のないところなのですが誰もが一度はお世話になるので、高齢化と温暖化で夏場はこれぐらいと、それは仕事だからちゃんと計算できているかもです。一般の家庭ではその金額も気にならないかも知れませんが、学校の給食費も払えない家庭も増えていますし、生活するだけでも大変な家庭だってたくさんあります、この家庭も主人が病弱で病院を出たり入ったり10年の歳月が過ぎてるそうです。

初めの頃は年金のもらえる年齢でもなく、病院代もかさみ子供もいて大変だったようでが後になっても奥さんが働いて生活しながら病院の支払い、残すお金など出来ないでしょう。それでもいつか我が身がと少しづつ貯めているお金、それをはたいても足りない金額。せめて仏の道に仕えるお坊さんビジネス化してしまったとはいえ、ほんの少しも情は無いのでしょうか??....


夜空に向かって独り言

2007年12月02日 | Weblog

古里に兄夫婦が居るのですがなかなか行くことが出来ません。それでも例年に比べると今年は数回行く機会があった。

いつ訪れても嬉しい話などはない。人が亡くなったり、廃屋が増えたり、やがては古里に来ることも無くなるのではないかと思いながら短い時間を過ごしました。

私の生まれ育った村は勝浦川の支流、当時、本流の方にはトロッコ道なのに、私の村までは物心ついた頃から道路あり小学校は片道4 キロ中学になると3 校合併で7 キロだったが 、

他の村の子よりは道路伝いなので雪の降った日などはとても助けられた。        

また、なぜか 他の村に比べると人工も少しは多かったし、これも他に比べると大きな立派なお寺が有ります。

そこの住職さんが亡くなり、その後住職さんを迎えるに当たってお寺を建て替えました。

私が小学校の高学年でした。間もなく若い住職さん、まだ十代 だったのでしょう。当時は数十人の坊さん達が集まり大きな儀式が行われたのを憶えています。

やがてお嫁さんを迎え、村も華やかな時期だったのでしょうか。ですから現在もお寺としては古い物ではありませんし 、

住職さんも高齢では無いのですが亡くなったとの事でした。

この住職さん私にとっても恩人なんです。私の父は子沢山を残しての戦死でしたから、朝は姉達に起こされお弁当は作ってもらえるのですが、

ぐずぐずする私たちをかまっていては自分達が学校に遅れるので先に出かけてしまいます。

それから出かけても忘れ物があったり、用がしたくなったりで何時も走って学校に行くことが多かったのですが 、そんなとき村役場に勤めていた若坊さん、

後から自転車で来て荷台には自分のカバンを積んでいるのにその上に私をまたがらせて走ってくださる。

時にはタイヤの空気が少ないから走って行くと言っても、かまわないと言って乗せてくださった。ただカバンの上にまたがった事が当時とてもおそれおおきことのように思えた。

今年の春、兄の家で法事があり、その時話をしたのが最後になりとても寂しい思いです。