老後の日々

果物に野菜作り等、
今では趣味にして気間々にやっています。

記憶にございません。

2007年11月27日 | Weblog

政治家の代表逃げ言葉、こんな事を地方新聞で見た。

子供がマーケットの遊び場で友達におわれながら「記憶にない」と逃げている。

友達と遊びの約束をしたのに行かなかったので責められたのだ。

友達にとがめられ「記憶に御座いません」とふざけているらしい。

子供の世界で公然と逃げ口上になっている。

守屋前防衛事務次官か国会の証人喚問で防衛商社「山田洋行」元専務の宮崎容疑者との宴会に同席した政治家として、

久間元防衛相、額賀元防衛庁長官の名を挙げた。額賀氏は現外務相である。

宮崎容疑者も同席を認めている。だが政治家二人は「記憶にない」と言うのである。

この言葉は三十年前、ロッキード事件の証人喚問以来の常套句として、政界では「事実だが言えない」と理解されている。

福田首相は「よく政治家は会合に出る事はある」と話す。

ご馳走をいただきながらでは国民は了解出来そうもない。この文を見て政治家を育てた親は恥ずかしさなどは教えないことになっていたのだろうか?。

子供にまねをされ恥ずかしさも感じない国民の代表が何で子供の教育などに携われる。

ここで私たちこそ気を付けなければならない事であるまいか。政治家の場合は上手くごかし、くぐり抜けるものが「やりて」、こんな考えが残っていないか。

記憶にないを押しとすならやめてもらうべきだろう。

なぜなら、何年かのうちにそんな記憶が失うような政治家は国民の代表になる

資格はないからだ。 もっと賢い人を送り込まなければ。


こんな悲劇を知る

2007年11月23日 | Weblog

テレビで学徒兵、「許されざる生涯」と言う番組 昭和18年10月、学徒出陣があり、 大学生が根こそぎ戦場へ出た。

A老人はその時、陸軍飛行少尉となった。飛行兵が不足していた。

昭和19年後半、レイテ海戦から海軍航空隊は体当たりの特攻を採用した。

やがて陸軍も、となり、希望者の調査があった。A少尉は「希望せず」 に丸を付けた。大学生だから、生命の大切さを思う者が多かった。

だが結局「熟望する」に丸をつけなをした。知覧基地を出て沖縄のアメリカ軍艦に突入する。出発 したら生還しない特攻である。

だが大変多くが生還した。理由は、使った九七式戦闘機は旧式で、故障続出、エンジンが止まり、不時着する、A少尉も乗り込んだかが、エンジンが動かなかった。

特攻に出て戦死したと報告済みの者が生還する。上官達は困り、福岡にある振武寮と言う大きな建物に収容して、外部との接触を断った。

毎日なぜ生還した。おまえらは国賊だ、と攻められ、自殺する者もあった。

明日死ぬという出撃の前夜、教員希望だった友人に感想を聞くと、もし生き返ることが出来るなら、戦争のない国に生まれて、「学校の教壇に立ちたい」と言った。

A老人は涙を吹きながらこの話をした。
テレビの前で私も絶対に戦争のない国にしなければならないと思う。


忘れられない食べ物の味

2007年11月18日 | Weblog

食べ物の恨みは恐ろしいという。はるか昔に食べたものが、いい意味で忘れられない事もある。

ひもじい思いをした戦争体験者にとっては、なをさらだろう。さいたま市にお住まいの加藤新平さん79歳は終戦直前の1945年8月1日夜に食べたすしの味が忘れられない。

鳴門市撫養町林崎でのこと。空腹のあまり海軍少年兵が宿舎にしていた芝居小屋を戦友と二人で抜けだした。

その時和服姿の25歳位の女性に声をかけられ、すしをご馳走になった。

確かあじの姿ずしだった。翌日、加藤さんらが乗った船が同市島田島沖で米軍機に銃撃され、82人の少年兵が亡くなった。

住吉丸事件が起きる、加藤さんは生き残ったが、一緒にすしを食べた友人の生死は今も不明らしい。

あのすしが友人の最後のご馳走になったのか? 戦後62年たった今も女性の親切が忘れられないと言う加藤さん。

 来月2日に同市で行われる事件のモニュメント除幕式招きたいと情報提供を呼びかけています。

こんな話を聞かされたと言われる人がおられましたら徳島新聞社までお電話してあげてください。

また阿南市の宮本 折 さん81歳は戦争末期、徳島県小松島の立江寺で大阪から疎開してきた大勢の小学生の世話をした。

戦後、食事の時に思い出して涙ぐむ時もあった。子供達にもっと食べさせてあげたかったと言う。

今日当時の子供達が来県する。ほしい物がお腹一倍食べられる今の時代、テレビなどでも食べ物を遊びのように使っているのを見ると何ともやり切れない気持ちになる。

やがてはこんな話さえもする人が居なくなるのたろうか? 私にも忘れられない味がある。

田舎でわき水の多いところでもあったが、喉が渇いた時は水が当たり前、お茶などさまして置いてくれることなどあり得ない。学校から帰ると親が居ないのがほとんどだし、居るときでもお茶を沸かすのは食事時だけ、そして丁稚奉公、ここも当然食事以外は水のみ、

37年大阪に出て小さな会社で寮生活、一か月ほど過ぎた頃、そこにいた若い子に誘われてその友達の家に上がらせてもらった。

その時出してくれた飲み物、名前など知るはずがなかったが、こんな美味しいものが大阪にはなんであるのか??と不思議に思ったものでした。

ずーと後になってその飲み物がカルピスではなかったのかと思うのだがよく解らないまま。あの時口に入った瞬間の味忘れることが出来ません。