老後の日々

果物に野菜作り等、
今では趣味にして気間々にやっています。

実力の上に家族の力

2006年12月28日 | Weblog
今年最後の掲載になりました。年内にしなければ成らない事、片付いていますか?
年が明けると今年こそと毎年思う事なのですが、この暮れになって振り返ってみると、 まあー例年通り、こんな人がかなりの数になるのではないかな。・・・そこで、今年は、この行動からやってみてはどうでしょうか。

家庭の平和は国の平和、国の平和は世界の平和、年明け1日の朝は少し早く起きて、外の空気を腹一倍吸ってから家族に大きな声で(おはよう)と声を賭けて下さい、ただし、何でもそうなのですが、見返りは求めないで下さい、

びっくりしてるだけで返事が帰ってこない事も、そして休みの内、やってみて下さい、お正月なら出来ることです。 家族からの視線も変ってきます。そこから責任感もやる気も根付いて来るものです。・・・・和合で築いた家庭の陣は外に出で働く者にとっては、とても自信につながるものなのです。世のご婦人方もご協力を。

そして(易)との出会い

2006年12月25日 | Weblog
中学校を卒業すると百姓をついで行くか農地がなければ職人さんの家に弟子入り、商売を目指せば、そんな家に丁稚奉公として住み込み朝早くから遅くまで無償で働き、いつか独立を夢見て頑張った時代。
私が15歳で入った所も朝6時に起床洗顔するとすぐ作業場に入り道具の手入れ仕事の準備をしていると朝食が告げられます、食後、昼休みのみ、夕方6時まで、一年間同じバタンーです。

今なら考えられませんが、当時は、ごく当たり前の生活だったのです。そして5年の歳月が過ぎたころから、成人を迎えたことも原因の一つかも知れませんが、周囲の事に興味を覚えるようななりました。

農業にしてもクワや牛での作業でしたが、耕耘機などが出来たり掃除機等もこの時代に出始めた物です。この頃から、違った方向に進みたいと思うようになりましたが、まだこの時期はやめることも承知してくれませんでした、

不満がたまり始めたのもこの時期からでしょうか、それでも、中に入ってくれる人もいて、2年程過ぎました。 家を出たいと思い出すと仕事など面白くもありません、意見など聞くと今まであったことが思い出されて血が昇ってしまいます。怖い人が居なくなってしまいました。こんな時、回してくれた使用済みの新聞、

大阪放出の会社、人、募集の記事が目に止り葉書を出すと数日後簡単に採用通知、 
不安はありましたがとにかく家を出たく後はそれから決めようと思っていましたので採用の二文字を信じて22歳の終わり2月19日、何も持たず大阪に行く交通費ぎりぎりで小松島を後にしたのです。・・・

この日から2ヶ月間お金を持っていれば失敗したであろう事、お金がない悲しさ、お金の有りがたさを、まとめて体験した時期でした。機会があればこの2ヶ月間の事を書いて見たいと思います。・・・

2ヶ月後旅館代りと思っていた会社を替え、河内町水走に移ったのですがこの頃から怪我、病気の連続1年後、結婚はしたのですが不思議なほど小さな怪我ですが続きました。石切神社が近くでしたので良く出かけたものです。  
ここで易学との出会いでした.現在、神主様へのご相談も多いようです。

占いの店が多い所で境内にも数人の方が店を出していたほどです。 一軒の店出入りしている内に興味を持ち始め此方のことは忘れることはありません。数年前一度行ってきたのですが此方のご夫婦、年は取っているものの健在で活躍されていました。

店も変っていなくて懐かしく、とてもうれしく思いました。又来ますと言って別れたのですがなかなか行くことが出来ないです。
ブログなどでお話がて出来ればと思いますが。  
でも周囲の変わりようすばらしいですね、ビル等大きな建物ばかり、 子供を連れて田んぼの溝に台湾泥鰌を釣りに行ったりしたのにね。その頃の面影はまったくなくなってしまいましたね。

この町思い出と共に50年

2006年12月25日 | Weblog
大阪で12年程暮らしました。地方から出て来ている方も多く、私は徳島県の小松島です と言うと、瀬戸内海に浮かぶ島々をイメージするのでしょうか? 大きな島ですか?・・・と聞かれます、島ではないのです、徳島県の片隅にある、とても賑わった港町です、今は随分と文化的になり昔のイメージはなくなりましたが、

この港、修学旅行生の見送り、久ヒサに合う人の出迎え、、ブラジル等、国外移住者の別れ、関西汽船株式会社の華やかさに又花を添えた南海汽船の侵出、しかし、間もなく南海汽船の沈没、雨の中次々に運び込まれる遺体、出迎える遺族、

悲、楽と此処に流れ落ちた涙は計り切れる物ではありません、そんな歴史を残し今は何もなかったかのように静かに高い岸壁が小波を受け止めています。全国何処の港でも同じ事だと思います、この島国、

年配の方なら船の思い出を持たない人は居ないと言っても過言ではないほどでしょう。私も15歳で港の近くに来て8年一度この港から小松島を後にしましたが今は想いでの多いこの町で生活をしています。

ありがとう

2006年12月22日 | Weblog

                      

               夜の街には縁のない男、 それなのに、                                           

               出した店がネオン街、 間違っていた訳ではない。                                       

               こちらに住む人達を観察も してみたかった、                                       

               いや、ちょといい言葉に聞こえるか、                                            

             

               こちらの人が、 私を見れば哀れな男、

              

              やっばり、この場所 私には馴染めない、

             

              綺麗な  お姉ちゃん  さようなら、、、、、            

              

              店も移転して来年は心 新たにと、行こうか・・

 

 


周囲を見れば50代

2006年12月21日 | Weblog
親に連れられ浪曲を聞きに行った時、人生わずか50年と歌っていた事を思い出す、生きて行く為に仕事を探し、その日、生きる為に何かを食べる、保存食が有れば毎日食べられるだけで、満足、飽きた等とは言っていられない時代、平均寿命50年、

私達、田舎では美味しくはなくても、山や道端に、口に入れる物はありましたが、栄養などとは縁のない物、生まれ故郷に帰って墓石に刻まれた年齢を見ても60歳前後が゛多いようです、                  
今の時代はどうでしょうか。過去の日本もそうでしたが、発展途上国と呼ばれる東南アジア諸国の人達の中には12~3歳の人が缶詰工場で働いて居るそうです、    

しかし、この人達の作る缶詰、自分達が食べることは有りません、それは一日働いてもこの缶詰数個しか買えない賃金です。 そしてこの缶詰は日本に輸出されています。日本ではペットの餌になっているのです。

現在日本人の平均寿命も男女平均80歳を越しています、人生80年となった今、50年をどう解釈するでしょう、人生に50年は無関係な数字になってしまったのでしょうか。       

物心付いた時から親の手助けをする人生、20を過ぎて親の御世話になっている人生、いろいろ生き方も有り違いも有ります、とやかく言おうとしているのではありませんが。20歳は大人の仲間入り、人生の門出と言う事になり、60歳で定年、間40年です、

すでに就職をしていた人達、どの角度から見ても大人なのですが、20代30代ではまだ世間に認めてもらえない面があります。人生下積みの時代で大切な時期でもあります。

40代になると体験も重なり自信に満ちた行動でいままでのことが一つ一つ解決する反面、家庭のこと、成長期になる子供のことなどが頭をかすめる時、この後半から50代、一人一人の運命の違い、職業、環境などにもよりますが、

体力的にも自信が溢れ、将来の見通しも定まり、思考力、判断力、行動力と最高期を向える時でないでしょうか。私が今やってみたい事があってご相談する人達、ほとんどが50代の方です。

それだけ現代の主役として活躍されている事です。四捨五入を出来る年代、止るか動くか選択される最後の年代でもあるわけでしょう。この方達の話を聞いていても自信が感じられるのです。人生経験は私が長いし、同じ体験もしてきているのですが・・・・

60代サラリーマンの方なら定年、第二の人生に進む人、やりたかったことをやっていく人、自営の人なら体力の事、相続の事、考える、考えないにかかわらず処理していかなければならなくなる年代これが現代の50年、伸びた寿命30年、幸せを感じる価値ある30年にしたいものです。




苛めは集団で生きる動物の習性か

2006年12月17日 | Weblog
1680年から1709年の間だ政治を担当した徳川綱吉公、生類哀れみの令を出した事により、特に野犬たちは集められ、餌を与えてもらい、一方違反して捕らえられた人 8,000人以上とも言われています。

当時の野犬たち、思いもよらぬ待遇にどう思ったことでしょうか? 6代将軍家宣公、綱吉公の遺言を無視して哀れみの令を廃止してから300年、今、国内でペットとして飼われている生類、正確な数を掴むことさえ出来ないほどです。中には人間以上の生き方をしているものも珍しくありません。時代の変化、この一言でしょうか。

私は田舎で暮らして来ましたから朝はまだ暗い内から外に出ることも多く、夜は暗くなってから家に入る生活たった者ですから身近な動物、犬、猫、鳥、等の習性を観察する機会もありました。元々犬は集団で狩りをする動物です、野犬は竹藪や、棄位した車の下などをねぐらにナーバリを作り5~6匹から多い物は10匹ほどで生活しますが、

野犬達も気の晴れない時があるようで、近くに行く事はとても危険です。わんわん叫びながら皆んな集まって来て隙を見ては噛みに来ます。こんな時、棒等持ってはいけないと大人から教わっていました。なぜなら向かってくる数匹の犬を叩けるのは剣道2段以上の腕前が必要だそうです。下手に棒など振っていると後ろから噛まれます。

犬は噛み付くと離しません、次々と襲って来ます。そこで、こういう所を歩かなければならない時はいつも飛び道具を持っています。どんな物かと言うと手軽に投げられる石なのです。投げた石が犬の身体に当たると、きゃんきゃん言う声が仲間にはどう聞こえるのか退散します。 

これほどチームワークが良さそうな犬にも仲間の虐めがあります。数時間前まで同じ行動を取っていたのに今一匹の犬をみんなで大きな声を出しながら襲っています。30分ほどすると精神的にも参ってしまうのか外傷はなくても息絶えてしまいます。そうすると何もなかったように又遊んでいるのです、

こんな光景を3度ばかり見てきました。数日前テレビに虐めの体験をした女の子に話を聞く場面がありました。なぜ虐めをするの、、? この答えに、、いつもリダー仲間にいて虐めについて居ないと何時ほこさきが自分に向けられるかも分らない、誰が敵で誰が見方かも分らないとの言葉を聞きました。皆さんどのように考えられますか後はご判断お願いします。

幾年過ぎても古里は

2006年12月16日 | Weblog
年を取ると物忘れがひどくなる、毎日自宅から3キロ程離れた店に通勤しているが。家を出る時、立ち寄らなければと、思もってながら店に着いてしまう。

同年配の方にこんな話をすると同じようなことを言って話が合うのである、先輩達もこうして年を重ねて来たのであろうから、それほど悲観しなくても(気にしない、気にしない)と自分に言っているのだが、、、それでいて、幼い頃の思いでは昨日のようにはっきり思い出す。

私は徳島県勝浦郡上勝町大字八重地と言う村で生まれ育った。15歳までここで過ごしたが悲しい思い出が多く、みんなの前で楽しかった思い出として話が出来るようなことはほとんどない。

では、楽しかった事はないのか、、と聞かれるとそうではない。姉妹が額を寄せ合って暮らしたこと。友と待ち合わせをして合えばあまり話もないまま我先にと山を駆け登り、駆け下りてこの日の別れ。今は、こんな事もみんな楽しかった思い出である。

それが誰もが思うふるさとであろう。 徳島から勝浦川に沿って道路が付いている10キロ程のぼると勝浦川の支流の支流が流れ出る高丸山がある1435メートルだつたでしょうか、ふもとにはキャンプ場もあり、原始林も残っていて、とても良い所です。

其のいちばん近いところに私の生まれた村、八重地があります、毎年5月5日にはこの山の祭りなのですがこの村だけでは、人が居ない為に幅広くご協力をお願いして若者には御輿をかついでもらい賑やかに開催しております。皆さん是非おいで下さい。   

勝浦の、川を伝いて、道行けば、奥に生まれの、懐かしき里                                     

明日を見る・・手相

2006年12月16日 | Weblog
波瀾万丈の人生だつた私は自分の手をよく見てきました。働けど働けど我が暮らし楽にならず、じっと手を見る。・・こんな言葉もありますが、今の時代、働けばそれなりの報酬を受けることが出来ます、しかし、働きたくても病弱だったり、怪我の連続などで働けない人も沢山おられます。

私もこんな時代を過ごしてきました。この時期によく、占いの店に出向いた思い出があります。今思えば、手相に出ているように、占いとか、宗教に興味を持つ人間なのですが、幸いか・・不・か、この時期と重なったこともあってか早くから手相に興味をもちはじめました。

今も自分の手をよく見ますが、とんでもない筋が出ることもあります、心にもない意味のものもありますが、確かに生活環境、今、進めている仕事の中の警告等と思えることが多い物です。よい意味の物は生かしていくように、悪い物は現実にならないように、考え方を変えるなどの努力をしています。

結果として出ない内に筋が薄くなったり消えたりするものです。生活環境、努力、積極的な行動などによって手相は変ります。運命は変えていける物です。私の店に来られる方には風水鑑定、身体に気を呼び込む生活指導等もしていますが、なんと言っても自分で結果として見えるのは手相でしょう。

今私の所で保存されている手形も数百人にもなりましたが同じ物は一つも有りませんし変らない人も居ます。現在よりもっと良くなるように、努力の証としてご利用して下さい。

体験を重ね重ねて今原点に

2006年12月04日 | Weblog
祭りなど、楽しい思い出は一度もなかった私が、ピカピカ輝く花輪が並べられ大勢の人の中で、母のそばにいた想いが、かすかによみがえる。それが、村人皆んなで向えてくださった父の遺骨でした。

車からおりた位牌を、母は背中に妹を背負い、5歳だった私の手を引き、位牌を手に3キロほどはなれた村に歩いた、そこには姉達も居たはずだが私には何の記憶もない。徳島県勝浦郡上勝町八重地勝浦川支流の源流点。

父と母が出会い間もなく長男が生まれたのだが、母の兄が子供がなく母達も若かったこともあって、養子に出したのですが、その後は、女の子ばかりが4人5人目に私が生まれた後、父は召集を受ける。軍隊で怪我があり少しの間、帰っていたらしく、妹が生まれる前に2度目の召集、父は末娘との対面も果たさないまま遺骨ての帰宅でした。

上2人の姉は働きに出て行き、家族が揃うのは年に数回 母は、私達が目を覚ましたときには仕事に出ていて、夜は遅く帰り簡単な夕食後内職にかかるので、私達の世話は姉達の役割だったようです。6,3、3制になったこともあり、母と姉妹5人の生活はしばらくつづきました。

どんなに小さな物でも5等分して食べたのですが、幸い、上の姉が器用だつたこともあり分割するのはいつも姉の担当で苦心しながら分けていた姿を思い出します。他の家庭を訪問したとき、テレビドラマの中でも、ご夫婦の会話の中に時々耳にする言葉があります。

それはクラス50人中30人以上の人が使っている物なら、(みんな) と言う言葉を使うこと、みんな持っているのに、この子に与えないと(かわいそう)こんな言葉です。物がなければないように、貧しい家庭はそのように育ってきているのです、諦めとは意味が違うと思います。三度の食事のような物でしょうか。

私はある時、姉達は働きに出て家には居なくなつています、妹は冬休みの間子守りに出て母と二人暮らし、外に出なければならないのに外は雪。素足ではさすがに厳しいが母と一緒に行かなければいけないと思っているとき、弱音は吐かない母であったが、この頃にはだいぶ気が弱くなっていたのだろう。長い年月 ただ一度、この雪の中(可哀想)だ・・

こんな言葉を聞いてしまいました。それまで、他人様からは何度も聞かされた言葉ですが母から聞いたときは、張り詰めた気か゛抜けたような、とても自分が惨めに感じたことを思い出します。私は子育てに家内にも,この言葉は使わないように言てきました。良かったか、悪かったのかは分りません、ご意見が有りそうな気がしますが・・・  

物を与えるのも49番50番でも悪くはないと想います。我慢と辛抱の違いは・・・・我慢しなさい。この言葉をよく聞きますが我慢とは われ、おごりたかぶる、自分の器に我慢を積んでゆくと、やがては一倍になります。一倍になった物は溢れてしまうしかないのです。

誰が押さえても駄目になってしまいます。一方、辛抱は、身体に心の棒を作ることでないでしょうか、辛抱、心で抱える 辛抱を重ねるたびに棒は太くなります、辛抱することとは、どんな悲しみにも、苦しみにも、絶えられる信の人間をつくることであると思います。

手相は人生の道しるべ

2006年12月03日 | Weblog
300種類以上とも言われている占いの中でなぜ風水なのか、なぜ、手相にこだわって見るのか、、、こんな事を思って見る方もいるのではないでしょうか。占いなら、丁、半でも、えんびつを転がしてもその場の行き先を求めるならそれで良い、ことなのでしょうが,

しかし、占いの道に入りこの道をたどっていく内に宇宙、大自然の中に、あまりにもちっぽけな自分のいることに気付き、そして、この幅の広さ、奥の深さに感動し、魅力を感じ、少しずつ少しずつ、奥に引き込まれていくとき、これを手綱、とさして頂いているとでもいえましょうか、

今はこの手綱をしっかり握り易の世界えと進んでいる自分です。今回ブログの開設ににあたり、今年も後一ヶ月たらず、私が易を志した時、過去、生い立ちを紹介して赤っ恥をかいた上で、 私の研究している、気学、易学、風水、手相、等をお話ししていきたいと思っています。   

育ちが良くて、頭も良くてと言われる方は見ないで下さい。純白だがどんな色が混じってもいいではないが位の方を歓迎したいです。