〈第三項〉論で読む近代小説  ◆田中実の文学講座◆

近代小説の読みに革命を起こす〈第三項〉論とは?
あなたの世界像が壊れます!

さらにコメントを戴いて

2021-03-12 19:34:10 | 日記
中村さん、古守さんにコメントのご質問に応答の記事を掲載すると、
中村・古守の御両人からはさらにお返事を戴きました。
お礼申し上げます。
そちらのコメントは、3月11日付けの記事のコメント欄でご覧ください。

同じく3月11日付けの記事のコメント欄で、新たに丸山義昭さんから、
やはり鋭利なご質問を戴きました。
そのご質問の主旨は以下の通りです。

「正体不明の謎の女が「私」の無意識の罪を暴きます」とあり、
さらに、「女が「私」自身の抱える意識・無意識の奥の罪を露わにするのです」とあります。
先生はここで「無意識の罪」、「意識・無意識の奥の罪」と書かれていらっしゃるのですが、
そこで、単純な質問で恐縮なのですが、これは、女が「私」の無意識領域にもない罪を暴いた、
女が「私」自身の抱える意識・無意識の外の罪を露わにした、と読むところでしょうか。
あくまでも、罪を犯した「私」、女から非難されるべき「私」は反「私」の方ですから、
「私」の意識・無意識(地下一階)の外の罪というふうに理解していいでしょうか。


これに対し、応答させていただきます。
「女が「私」の無意識領域にもない罪を暴いた」、あるいは、
「女が「私」自身の抱える意識・無意識の外の罪を露わにした」のではありません。
あくまで「私」の無意識にある罪です。

『一人称単数』を一言で言うと、
「私」の意識の届かない無意識の領域を五十がらみの「女」が
その無意識の外部である「地下二階」から「私」に意識させ、
それが末尾の超現実の世界に辿り着かせたのです。

「私」が意識ではどうしても認められない、
拒んでいた無意識の罪を無理やり開けさせられ、
そうなると、もともと反「私」を抱えていた『私』の反「私」の領域、
末尾の超現実が現れたのです。

もう一度、申します。
「私」のどうしても記憶にない無意識の罪をその外部から「女」が暴くのです。
『私』は反「私」を抱えている、
これが『私』の日常の現実世界を転換させ、超現実にいざないます。
さらにご質問があれば、おっしゃってください。


ところで、反「私」を受け止めると、大変厄介です。
いや、実は、村上春樹の世界観認識の図式、「地下二階」が厄介なのです。
何故なら、これを受け入れると、近代的なリアリズムの世界から逸脱するからです。
逸脱すると、現実は単一ではなくなります。
村上の小説が「同時存在」=「パラレルワールド」になる所以です。

実例を挙げておきましょう。
例えば、村上春樹の小説では、『海辺のカフカ』なら、
カフカ少年は一方で父を殺して、彼は返り血にまみれていますが、
その時間、四国行きのバスに乗っている、完全なアリバイがあります。
「パラレルワールド」ですね。
お読みの方はどなたでも思い出すことが出来ると思います。

『レキシントンの幽霊』なら、
「僕」は真夜中に催された一階のパーティーの様子を聴いているとき、
もうひとりの「僕」は同時に、じつは、二階でパジャマで寝ていたのです。
現実には絶対あり得ないことです。こうしたことが大変分かりにくい人にはわかりにくい、
事、亡くなった加藤典洋さんにはこれが大変若にくかったと思います。

村上の小説はこうした「パラレルワールド」が満載です。
小説ですから、読者はこれをフィクションとして他方では抵抗なく、面白く読みますが、
村上はこれを文字通り複数の現実という「同時存在」、
「パラレルワールド」をその書く行為の中で生きるのです。
これは通常のフィクションとか比喩とかのレトリックの領域に収まりません。

村上が「質量を失って、一つの原理にならなくてはいけない」とか、
「僕はリアリズムの形式で書くことは出来ません。」とインタビューで発言している所以は、
複数の現実、「パラレルワールド」、「同時存在」の現実をその小説執筆中生きているからです。
「パラレルワールド」を生きるとは、例えば『クリーム』の「ぼく」のように、
現実に「中心点がいくつもあって、しかも外周を持たない円」をリアルに思い描くことです。
リアリズムの現実観では思い描けませんよね。そんなものはありませんから。
漱石の熊本時代の文章、『人生』にはこれを既に「二辺平行する三角形」と言っています。

田中が『一人称単数』の〈読み〉で提出した反「私」の等式は、
こうしたことを下敷きにしています。
この困難さをわたくしは今月中に出る紀要原稿の拙稿『猫を棄てる』論の末尾で、こう書きました。

政治的な戦争責任を問うのは「リアリズム文学」の担う重要な役割です。
それは社会的・政治的・歴史的な意味で重大な文学の任務です。
村上の文学の狙いは「リアリズム」の文体でこれを一旦、
「別の座標」にシフトさせることです。
そこは「地下二階」を潜った人類の文明誕生以来の絶えることのない悲劇、
《神》(=絶対)ともう一方の《神》(=絶対)との闘いをメタレベルで
俯瞰させるところなのです。


この俯瞰させるところに『一人称単数』の場合、〈機能としての語り手〉がいます。
そこで最後に贅言です。

《神》と《神》の闘いが人類文明の歴史なら、それらの《神》の絶対とは虚無のことです。
第二次世界大戦の結末はそれを教えているように私には思えました。
そこで、わたくしは唐突ですが親鸞を思い起こします。

法然の弟子である親鸞はこう言います。
たとえ法然に騙されて地獄に落ちてもよい、
自分は「南無阿弥陀仏」を唱える、それが例え、インチキでもよい、わたくし親鸞は法然に従うと。
このパラドックスが親鸞の極意、
いわば、これは「地下二階」の「void=「虚空」を救済の拠点にすること、
村上文学はそこに向かおうとしているように思えます。
コメント (4)
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