前回の記事に対して、以下のようなコメントを頂きました。
大変面白く拝読しましたので、こちらでもご紹介します。
コロナ禍のおかげで(と言っていいのかどうか…)、昨年より先生の講座をリモートで何度か
拝聴する機会を得、鴎外や漱石、魯迅、村上春樹、あまんきみこ、
宮沢賢治など改めて読み直すと、
ゼミ生だった時に自分はいったい何を学んできたかと思うほど、新たな発見が多くありました。
今、講座を受けつつそれらを読むと、小説が生き物のように、
形を変えながらいろんな姿を見せてくれます。
「私」は「私」であると同時に、反「私」でもある。
「なめとこ山の熊」の世界観のように、個が個でありながら、
同時に全体でもあると感じられるような世界が未来に出現するのか、
ということを最近考えています。
明治の日本に、近代科学や近代リアリズムの
「目に見え、耳に聴こえるという知覚作用によって保証される本当の現実の発見」
という波が押し寄せて、近代的自我という意識が生まれた。
おのれの肉体に結び付いた個としての我、封建的社会と対峙する我、それこそ本当の我である。
しかし一方で、近代から取りこぼされた伝統的土着文化の不条理の中にも
「私」が存在しているはずであって、その対立・矛盾を超える試みが、
《近代小説の神髄》であるということだろうか、と読みました。
明確な輪郭を持つ確かな私ではなく、
「中心がいくつもあって、しかも、外周を持たない円。」であるたくさんの私。
小説がおもしろく、文学評論が難しいと思うのは、小説は物語を語ることによって、
言葉や、言葉によって作られる概念の外にあるもの、
言葉からはずれるもの(言葉が抱えきれないもの)を内包する生きた人間を描写することができ、
読者はそれを読むことによって、世界に向けて目を開くことができるのですが、
そういう小説を解説したり評論したりしようとすると、折角の生きた物語を、
たちまちつまらない枠に押し戻してしまうように感じます。
しかしそれは読み手である私の器の問題で、プロットをなぞるような読みによって、
奥の深い重量感のある本物の小説のすごさが矮小化されてしまうのであれば
非常にもったいないことであって、誰かの導きがなければ、
ひとりで小説を読んでおもしろがったり感動したりできたとしても、
ただそれだけのことになってしまいます。
できるだけ、<作品の意志>を読み取り継ぐような読みをしていければ、と思います。
大変面白く拝読しましたので、こちらでもご紹介します。
コロナ禍のおかげで(と言っていいのかどうか…)、昨年より先生の講座をリモートで何度か
拝聴する機会を得、鴎外や漱石、魯迅、村上春樹、あまんきみこ、
宮沢賢治など改めて読み直すと、
ゼミ生だった時に自分はいったい何を学んできたかと思うほど、新たな発見が多くありました。
今、講座を受けつつそれらを読むと、小説が生き物のように、
形を変えながらいろんな姿を見せてくれます。
「私」は「私」であると同時に、反「私」でもある。
「なめとこ山の熊」の世界観のように、個が個でありながら、
同時に全体でもあると感じられるような世界が未来に出現するのか、
ということを最近考えています。
明治の日本に、近代科学や近代リアリズムの
「目に見え、耳に聴こえるという知覚作用によって保証される本当の現実の発見」
という波が押し寄せて、近代的自我という意識が生まれた。
おのれの肉体に結び付いた個としての我、封建的社会と対峙する我、それこそ本当の我である。
しかし一方で、近代から取りこぼされた伝統的土着文化の不条理の中にも
「私」が存在しているはずであって、その対立・矛盾を超える試みが、
《近代小説の神髄》であるということだろうか、と読みました。
明確な輪郭を持つ確かな私ではなく、
「中心がいくつもあって、しかも、外周を持たない円。」であるたくさんの私。
小説がおもしろく、文学評論が難しいと思うのは、小説は物語を語ることによって、
言葉や、言葉によって作られる概念の外にあるもの、
言葉からはずれるもの(言葉が抱えきれないもの)を内包する生きた人間を描写することができ、
読者はそれを読むことによって、世界に向けて目を開くことができるのですが、
そういう小説を解説したり評論したりしようとすると、折角の生きた物語を、
たちまちつまらない枠に押し戻してしまうように感じます。
しかしそれは読み手である私の器の問題で、プロットをなぞるような読みによって、
奥の深い重量感のある本物の小説のすごさが矮小化されてしまうのであれば
非常にもったいないことであって、誰かの導きがなければ、
ひとりで小説を読んでおもしろがったり感動したりできたとしても、
ただそれだけのことになってしまいます。
できるだけ、<作品の意志>を読み取り継ぐような読みをしていければ、と思います。