前回更新した記事に、ごく単純な書き書き間違いがありました。
「ヨハネによる福音書」と書くべきところ、「マタイによる福音書」と書き間違えました。
これに気付いて、青ざめました。
自身の意識の奥深い疑問、いや不安がやはりこの単純素朴な書き間違いに露わになったな
との思いがしています。
識閾下の闇が日常の何気ない意識をも混乱させ、解体させて、
私の限界領域を露わにさせたのだと感じています。
『新約聖書』を読んでいる人なら、誰もが気が付くこの素朴な間違いを私が犯したのは、
如何なることか、突き付けられています。
「マタイによる福音書」と他の三つの福音書とは何が違うか、
例えば田川健三訳著『新約聖書約と注1、マルコ福音書/マタイ福音書』(2008・7 作品社)は
それを、「やはり向いている方向の明白な違いは否定できない」としています。
それぞれの譲れない神学上の立場があるのでしょう。
私は『新約聖書』を幼い頃から聞かされてきましたが、
キリスト教を心の奥の決定的な拠り所、絶対の《神》とするには、
何故人の子イエスという人物がキリスト(救世主)なのか、
「聖霊」という三位一体の問題が立ちはだかっていました。
若くして自殺した芥川がイエスを「クリスト」と素朴に呼ぶ呼び方に
疑問を感じ続けていたのです。
しかし、そうしたことはずっと誰にも話せず、自分の心の奥の奥にくすぶったまま、
大学の卒論の関心は親鸞に向かっていました。
その際もずっと私の中にあったのは、特にマタイ福音書とヨハネ福音書の冒頭の相違、
前者はイエす・キリストの系図から入る、
すなわちイエスの神としての正当性の根拠を血筋に求め、
後者は「言」(ことば)を「神」と宣言する、
すなわち神の根拠を「言」(ことば)に求めています。
肉体を持たない非物質である絶対の《神》と、肉体を持ったイエスが一体であるということを
受け容れきれない葛藤が私のなかに常に蠢いて、安心立命を得ることが出来ずにいます。
私は意識的には神をハラリ氏のように、フィクション、イデオロギーであると捉えています。
そうでありながら、神は、言語はソシュール言語学でいう概念(シニフィエ)と
聴覚映像(シニフィアン)が任意に結合しているという定義では捉えられない、
その言語を超えた存在であると識閾下では感じているらしい私がいて、
そうした不安と葛藤のわだかまりが意識を超えて、
ここに顔を出してきている思いがします。
私個人にとって、〈言語以前〉と〈言語以後〉の問題を考えることは、
《神》の絶対の根拠、その在り処(ありか〉を考えることに外ならないように感じます。
私が神学を選ばず、文学研究を選んだのは、結局、近代小説の傑作に、私流の言い方ですが、
〈作品の意志〉と呼んでいるものを求め、これなら、信仰なく、
身をゆだねることができると考えたからです。
結局、私はこの《超越の問題》を文学研究・批評の立場で考え続けている、
これなら自分もできると思い続けています。
これはもちろん、宗教をイデオロギーに回収しているハラリ氏の歴史学を
批判しているのではありません。
歴史学にはその歴史学総体を対象化するまなざしがあって、彼は神学ではなく、
歴史学を拠点にして、人間がいかにしたら幸福になるかを考えていると見えます。
私は文学研究の根拠を考える際、特に教育学の実践を問題にしていますが、
神学を含めた他の学問との対話がそれぞれの学問を学問足らしめていると思われます。
以上のようなことを今回の単純な書き間違いを通して感じたことを、
このブログの読者の皆様に告白しておきます。
「ヨハネによる福音書」と書くべきところ、「マタイによる福音書」と書き間違えました。
これに気付いて、青ざめました。
自身の意識の奥深い疑問、いや不安がやはりこの単純素朴な書き間違いに露わになったな
との思いがしています。
識閾下の闇が日常の何気ない意識をも混乱させ、解体させて、
私の限界領域を露わにさせたのだと感じています。
『新約聖書』を読んでいる人なら、誰もが気が付くこの素朴な間違いを私が犯したのは、
如何なることか、突き付けられています。
「マタイによる福音書」と他の三つの福音書とは何が違うか、
例えば田川健三訳著『新約聖書約と注1、マルコ福音書/マタイ福音書』(2008・7 作品社)は
それを、「やはり向いている方向の明白な違いは否定できない」としています。
それぞれの譲れない神学上の立場があるのでしょう。
私は『新約聖書』を幼い頃から聞かされてきましたが、
キリスト教を心の奥の決定的な拠り所、絶対の《神》とするには、
何故人の子イエスという人物がキリスト(救世主)なのか、
「聖霊」という三位一体の問題が立ちはだかっていました。
若くして自殺した芥川がイエスを「クリスト」と素朴に呼ぶ呼び方に
疑問を感じ続けていたのです。
しかし、そうしたことはずっと誰にも話せず、自分の心の奥の奥にくすぶったまま、
大学の卒論の関心は親鸞に向かっていました。
その際もずっと私の中にあったのは、特にマタイ福音書とヨハネ福音書の冒頭の相違、
前者はイエす・キリストの系図から入る、
すなわちイエスの神としての正当性の根拠を血筋に求め、
後者は「言」(ことば)を「神」と宣言する、
すなわち神の根拠を「言」(ことば)に求めています。
肉体を持たない非物質である絶対の《神》と、肉体を持ったイエスが一体であるということを
受け容れきれない葛藤が私のなかに常に蠢いて、安心立命を得ることが出来ずにいます。
私は意識的には神をハラリ氏のように、フィクション、イデオロギーであると捉えています。
そうでありながら、神は、言語はソシュール言語学でいう概念(シニフィエ)と
聴覚映像(シニフィアン)が任意に結合しているという定義では捉えられない、
その言語を超えた存在であると識閾下では感じているらしい私がいて、
そうした不安と葛藤のわだかまりが意識を超えて、
ここに顔を出してきている思いがします。
私個人にとって、〈言語以前〉と〈言語以後〉の問題を考えることは、
《神》の絶対の根拠、その在り処(ありか〉を考えることに外ならないように感じます。
私が神学を選ばず、文学研究を選んだのは、結局、近代小説の傑作に、私流の言い方ですが、
〈作品の意志〉と呼んでいるものを求め、これなら、信仰なく、
身をゆだねることができると考えたからです。
結局、私はこの《超越の問題》を文学研究・批評の立場で考え続けている、
これなら自分もできると思い続けています。
これはもちろん、宗教をイデオロギーに回収しているハラリ氏の歴史学を
批判しているのではありません。
歴史学にはその歴史学総体を対象化するまなざしがあって、彼は神学ではなく、
歴史学を拠点にして、人間がいかにしたら幸福になるかを考えていると見えます。
私は文学研究の根拠を考える際、特に教育学の実践を問題にしていますが、
神学を含めた他の学問との対話がそれぞれの学問を学問足らしめていると思われます。
以上のようなことを今回の単純な書き間違いを通して感じたことを、
このブログの読者の皆様に告白しておきます。