六日土曜日は村上春樹の最新作自伝エッセイ『猫を棄てる』と
短編小説『一人称単数』の二回目でしたが、
お三方からコメントを戴き、大変うれしく思っています。
ご質問に私の思うことを申し上げます。
まず、最初は中村龍一さん、御質問は二点です。
1 「〈ぼく〉は〈ぼく〉でありながら、〈ぼく〉を瓦解し続ける〈反ぼく〉
(第三項)を抱え込みながら語っていく。
〈ぼく〉とは〈ぼく〉は許せない〈ぼく〉を抱え込んで〈僕〉である」ということと、
西郷竹彦氏の「〈ぼく〉の中の『あるべき〈ぼく〉と、しかし、
現実を生きなければならない反〈ぼく〉』との矛盾の葛藤」とはどう違うのか?
もう少しご説明ください。
それを言うためには、唐突ですが、「私」とは実は『私』だったことを
申し上げなければなりません。
これまで『私』は自分のことを「私」だ、『私』は「私」と信じていました。
いわば、無意識に近代的自我を抱えているのが真の自己だと信じていたのです。
「地下一階」までしか、自己は存在しないと考えていたのです。
ところが、『私』のことを「私」としか思っていなかった『私』が
大自然・大宇宙に目を向けると、その『私』は大自然の偶然のたまもの、
『私』は「私」の意識・無意識の外部である反「私」との化合物で構成されていたのです。
その反「私」が『私』には捉えられなったのです。
そこで、次の等式が誕生します。
『私』=「私」+反「私」
これはもちろん、国語教育の西郷竹彦さん、田近洵一さんのお考えとは異なります。
私にとって、師匠に当たる先生方、近代文学研究の三好行雄さん、
前田愛さんとも異なります。
そこで、ご質問の1、西郷氏のあるべき「ぼく」と現実を生きる反「ぼく」という考えと
上の等式とはどう違うかというご質問ですね。
西郷氏の言うことは、一人の人間の意識の中で対立や齟齬が起き、葛藤するということですね。
人は通常、理想と現実の葛藤・矛盾で悩む、自分が自分に悩む、
自分の中にあり得ない自分が生きていて、これに苦しむ、
こうしたことを言っていますね。意識の枠内の自意識の問題でしょう。
村上が言うのはそうした意識・無意識の外部を問題にしています。
田近氏の場合も、無意識の外部の問題には向かいません。
三好先生も、フロイトやユングもそうでしょう。
2「『一人称単数』は結末から考えると、原因が分からなくなる話である。
因果律を超えてしまう。それを村上春樹自身が、どう受け止めているかを語っている。
この指摘は衝撃的でした。この因果律を超えてしまう事態を、
田近洵一氏は「語り手が語りを放棄し、読者にゆだねたのだ」と説明しています。
田近氏のお考えをどう考えられますか?
田近氏の場合、〈語り〉の問題に強く惹かれ、これを意識して読もうとされています。
〈語り〉を問題にすると、一人称の場合、語っている生身の〈語り手〉の外部に
〈語り手を超えるもの〉である〈機能としての語り手〉を捉えることが基本と考えます。
伝統的通念の枠組みでこの世ならぬ不思議なことが語られたり、
近代社会になって、自然主義のリアリズムで捉えられる領域なら、
旧来の実体論の枠組みが通用します。
しかし、近代小説の神髄は、リアリズムの因果律では捉えられない
世界観認識が示されます。
すなわち、リアリズムの外部の「地下二階」の領域、
リアリズムで捉えられない領域を抱え込んでいるのです。
つまり、反「私」は「私」の外部、「地下二階」の領域にあるのです。
ここで次の等式が成り立ちます。
反「私」=了解不能の《他者》=〈第三項〉
これを見失うと、近代小説の神髄である作品の構造は捉えられません。
「語り手が語りを放棄した」と、語りの問題を自ら放棄する言を
それと意識せず語ることになるのではないでしょうか。
あとのお二方のコメントにも、改めて記事の中でお答えしていきたいと思います。
短編小説『一人称単数』の二回目でしたが、
お三方からコメントを戴き、大変うれしく思っています。
ご質問に私の思うことを申し上げます。
まず、最初は中村龍一さん、御質問は二点です。
1 「〈ぼく〉は〈ぼく〉でありながら、〈ぼく〉を瓦解し続ける〈反ぼく〉
(第三項)を抱え込みながら語っていく。
〈ぼく〉とは〈ぼく〉は許せない〈ぼく〉を抱え込んで〈僕〉である」ということと、
西郷竹彦氏の「〈ぼく〉の中の『あるべき〈ぼく〉と、しかし、
現実を生きなければならない反〈ぼく〉』との矛盾の葛藤」とはどう違うのか?
もう少しご説明ください。
それを言うためには、唐突ですが、「私」とは実は『私』だったことを
申し上げなければなりません。
これまで『私』は自分のことを「私」だ、『私』は「私」と信じていました。
いわば、無意識に近代的自我を抱えているのが真の自己だと信じていたのです。
「地下一階」までしか、自己は存在しないと考えていたのです。
ところが、『私』のことを「私」としか思っていなかった『私』が
大自然・大宇宙に目を向けると、その『私』は大自然の偶然のたまもの、
『私』は「私」の意識・無意識の外部である反「私」との化合物で構成されていたのです。
その反「私」が『私』には捉えられなったのです。
そこで、次の等式が誕生します。
『私』=「私」+反「私」
これはもちろん、国語教育の西郷竹彦さん、田近洵一さんのお考えとは異なります。
私にとって、師匠に当たる先生方、近代文学研究の三好行雄さん、
前田愛さんとも異なります。
そこで、ご質問の1、西郷氏のあるべき「ぼく」と現実を生きる反「ぼく」という考えと
上の等式とはどう違うかというご質問ですね。
西郷氏の言うことは、一人の人間の意識の中で対立や齟齬が起き、葛藤するということですね。
人は通常、理想と現実の葛藤・矛盾で悩む、自分が自分に悩む、
自分の中にあり得ない自分が生きていて、これに苦しむ、
こうしたことを言っていますね。意識の枠内の自意識の問題でしょう。
村上が言うのはそうした意識・無意識の外部を問題にしています。
田近氏の場合も、無意識の外部の問題には向かいません。
三好先生も、フロイトやユングもそうでしょう。
2「『一人称単数』は結末から考えると、原因が分からなくなる話である。
因果律を超えてしまう。それを村上春樹自身が、どう受け止めているかを語っている。
この指摘は衝撃的でした。この因果律を超えてしまう事態を、
田近洵一氏は「語り手が語りを放棄し、読者にゆだねたのだ」と説明しています。
田近氏のお考えをどう考えられますか?
田近氏の場合、〈語り〉の問題に強く惹かれ、これを意識して読もうとされています。
〈語り〉を問題にすると、一人称の場合、語っている生身の〈語り手〉の外部に
〈語り手を超えるもの〉である〈機能としての語り手〉を捉えることが基本と考えます。
伝統的通念の枠組みでこの世ならぬ不思議なことが語られたり、
近代社会になって、自然主義のリアリズムで捉えられる領域なら、
旧来の実体論の枠組みが通用します。
しかし、近代小説の神髄は、リアリズムの因果律では捉えられない
世界観認識が示されます。
すなわち、リアリズムの外部の「地下二階」の領域、
リアリズムで捉えられない領域を抱え込んでいるのです。
つまり、反「私」は「私」の外部、「地下二階」の領域にあるのです。
ここで次の等式が成り立ちます。
反「私」=了解不能の《他者》=〈第三項〉
これを見失うと、近代小説の神髄である作品の構造は捉えられません。
「語り手が語りを放棄した」と、語りの問題を自ら放棄する言を
それと意識せず語ることになるのではないでしょうか。
あとのお二方のコメントにも、改めて記事の中でお答えしていきたいと思います。