お待たせしました。
全く申し訳ありません。
宮沢賢治の文学に関して、書き始めたものが、ある程度書きあがるまで、
身体が賢治に奪われた如くなり、思う通りならず、本当に恥ずかしい限りです。
前回の記事で紹介しました丸山さんの『城の崎にて』に関してのご質問にお答えします。
丸山さんは以下のように指摘されています。
小説では、「自分」は「死に対する親しみ」を持つと述べる前に、青山墓地の土の下を想像するわけですが、その部分の記述こそ死んでいる人間を半ば生きている人間のように扱っています。たとえば、「仰向けになって寝ている」「青い冷たい堅い顔をして、背中の傷もそのままで」などとありますが、実際には火葬でしょう(?)し、土葬であっても腐敗が進んでいるから、このようには書けないはずです。つまり、「自分」にとって、そのような「リアル」は関係ないわけです。「それももうお互いに何の交渉もなく」とも述べていますが、「交渉」の有無を見てとるあたりが、生者を見る視線と同じです。
死んでいる者を生きている者を見る視線で見ています。
仰る通り、「自分」は「死んでいる者を生きている者で見る視線で見ています」。
また、「死後の静寂に親しみを持つ」のも、「「自分」という生者の願望の、死者
対する投影」という御指摘も鋭いと思います。
ご質問の核心は、田中が言う『城の崎にて』の〈語り手〉の「自分」が
生と死はほとんど差がないと捉えていることは、了解したが、そうであっても、
矢張り、死者を見るまなざしが生者の如く見ていることには疑問が残るとのお考えてす。
すなわち、「自分」は死者を死者として捉えていない、生者のように捉えていることは
やはり不自然、と言わざるを得ない、そう疑問を出されているのではないかと、思います。
もっともです。
わたくしもこの「自分」が死者を生者の如く捉えていると思います。
しかし、そこがこの「自分」の卓越している所以であると捉えています。
何故なら、死という出来事はもともと生が捉えた死でしかない、
それを「自分」は熟知しているのです。
「自分」は死が結局生の中にしかないことがよく分かっているのです。
死は生者の観念にあるのであり、これを「自分」は熟知しています。
死そのものを捉えると言っても、それは了解不能、
絶えず死は〈わたしのなかの対象〉でしかない、これを「自分」はよく知っています。
「自分」は偶然生き伸びたが、それは偶然でしかない、生きることも死ぬことも差がなく、
どちらも「自分」は受け入れる、一匹の蜂の死と多くの生きて活動している蜂とは、
単に「偶然」の相違があるだけ、死に対する親しみを感じ、
これを受け入れる心境が語られているのが『城の崎にて』でしょう。
つまり、それは学校の教室で教えられているような、
「生き物の寂しさを痛感」するということでなく、その逆ですね。
『范の犯罪』で見た通り、カルネアデスの板の上での「死」は当事者たちを相対化すると、
取り換え可能なのです。だから生き残った者が完全に「快活」であることが必須です。
問題は生と死を等価とするまなざし、裁判官のまなざしを持つことが肝要なのです。
『城の崎にて』を読むには『范の犯罪』の裁判官のまなざしを手に入れることが必須、
そうであれは、死が「偶然」であることを受け入れられます。
『城の崎にて』は本多秋五らが捉えていない構造を読むことがポイントです。
だから先行研究は私から見たらすべて失格です。
この構造自体が生きることと死ぬことを等価としています。
死を受け入れ、これに親しむその透徹した心境を読み取ることが肝腎だと思います。
全く申し訳ありません。
宮沢賢治の文学に関して、書き始めたものが、ある程度書きあがるまで、
身体が賢治に奪われた如くなり、思う通りならず、本当に恥ずかしい限りです。
前回の記事で紹介しました丸山さんの『城の崎にて』に関してのご質問にお答えします。
丸山さんは以下のように指摘されています。
小説では、「自分」は「死に対する親しみ」を持つと述べる前に、青山墓地の土の下を想像するわけですが、その部分の記述こそ死んでいる人間を半ば生きている人間のように扱っています。たとえば、「仰向けになって寝ている」「青い冷たい堅い顔をして、背中の傷もそのままで」などとありますが、実際には火葬でしょう(?)し、土葬であっても腐敗が進んでいるから、このようには書けないはずです。つまり、「自分」にとって、そのような「リアル」は関係ないわけです。「それももうお互いに何の交渉もなく」とも述べていますが、「交渉」の有無を見てとるあたりが、生者を見る視線と同じです。
死んでいる者を生きている者を見る視線で見ています。
仰る通り、「自分」は「死んでいる者を生きている者で見る視線で見ています」。
また、「死後の静寂に親しみを持つ」のも、「「自分」という生者の願望の、死者
対する投影」という御指摘も鋭いと思います。
ご質問の核心は、田中が言う『城の崎にて』の〈語り手〉の「自分」が
生と死はほとんど差がないと捉えていることは、了解したが、そうであっても、
矢張り、死者を見るまなざしが生者の如く見ていることには疑問が残るとのお考えてす。
すなわち、「自分」は死者を死者として捉えていない、生者のように捉えていることは
やはり不自然、と言わざるを得ない、そう疑問を出されているのではないかと、思います。
もっともです。
わたくしもこの「自分」が死者を生者の如く捉えていると思います。
しかし、そこがこの「自分」の卓越している所以であると捉えています。
何故なら、死という出来事はもともと生が捉えた死でしかない、
それを「自分」は熟知しているのです。
「自分」は死が結局生の中にしかないことがよく分かっているのです。
死は生者の観念にあるのであり、これを「自分」は熟知しています。
死そのものを捉えると言っても、それは了解不能、
絶えず死は〈わたしのなかの対象〉でしかない、これを「自分」はよく知っています。
「自分」は偶然生き伸びたが、それは偶然でしかない、生きることも死ぬことも差がなく、
どちらも「自分」は受け入れる、一匹の蜂の死と多くの生きて活動している蜂とは、
単に「偶然」の相違があるだけ、死に対する親しみを感じ、
これを受け入れる心境が語られているのが『城の崎にて』でしょう。
つまり、それは学校の教室で教えられているような、
「生き物の寂しさを痛感」するということでなく、その逆ですね。
『范の犯罪』で見た通り、カルネアデスの板の上での「死」は当事者たちを相対化すると、
取り換え可能なのです。だから生き残った者が完全に「快活」であることが必須です。
問題は生と死を等価とするまなざし、裁判官のまなざしを持つことが肝要なのです。
『城の崎にて』を読むには『范の犯罪』の裁判官のまなざしを手に入れることが必須、
そうであれは、死が「偶然」であることを受け入れられます。
『城の崎にて』は本多秋五らが捉えていない構造を読むことがポイントです。
だから先行研究は私から見たらすべて失格です。
この構造自体が生きることと死ぬことを等価としています。
死を受け入れ、これに親しむその透徹した心境を読み取ることが肝腎だと思います。
私の説明が足りなかったように思います。「自分」が死者を生者のように見ているということは不自然だ、と、私が疑問を抱いているわけではありません。死者を生者と等価に見る視線が、小説の最初の方から示されていることに、読み手は敏感になるべきだと思ったのです。授業をする教師も、これを読む生徒たちも、まずは、この「自分」のまなざしに刮目するべきだと思ったからです。
そのことは、先生の、「『自分』が卓越している所以である」という評価と重なりますが、死はもともと生が捉えた死でしかない、というだけでなく、そこを先生はさらに進めて、「それを『自分』は熟知している」と指摘なさっています。それは相当に深く徹底した読みであって、そこまで掘っていかなければならないと知らされました。
「死は生者の観念にあるのであり、これを『自分』は熟知してい」るからこそ、鼠の動騒を見た後であっても、死を前に動騒するかも知れない自分をも、「あるがまま」で受け入れるという自分の姿勢が示されている、というふうに理解しました。そう考えて宜しいでしょうか。
ロード・クライブのように奮い立つ気持ちにはなれないというのも、死が生者の観念にあることを熟知しているからこそ、である。そうも考えられます。
今は賢治の『なめとこ山の熊』に手こずっていますが、ブログも再開して、これからどしどし記事を投稿したいと思っています。
2月3日は甲府の近代文学館で、漱石の『心』の話をします。これは近代文学研究の基本、三好「作品論」のアカデミズムを原理的に克服するための講座です。
ご質問の『城の崎にて』の箇所、死を前にした鼠の「動騒」を「自分」はあの恐れ逃げ惑うのが「本統なのだ」、恐ろしいのが「本統なのだ」と受け入れます。自分自身も山手線での事故では致命的の傷ではないと言われ、「非常に快活」になっています。その点、「自分」も鼠も違いはありません。しかし、そうでありながら、死それ自体は「自分」は受け入れているのです。死は了解不能、観念でしかないことを熟知しているからです。両者が自分の中で併存していることを「自分」にはよく分かっています。だから、両者をそのまま「あるがまま」受け入れます。それが「自分」にとって最も自然で素直なこと、無理のないことです。その点、丸山さんのお考えでいいと思います。いえ、それしかないのです。