前回、分かりくいことを書きました。
何故なら、小説の中の物語は第一段落から始まるのでなく、第二段落から始まり、
第一段落はそれを相対化するための極めて戦略的な付置だった、
これを読み取ることの困難さを言う必要があったためです。
第一段落で語られていることは、高瀬舟で役人が聴き取ることが罪人の恨み言、
謂わば本音だということでした。
これは「表向き」の奉行所では話されないことを〈語り手〉は説明しています。
これを第一段落で〈語り手〉はまず〈聴き手〉にはっきりと伝えておいて、
第二段落、「いつの頃であったか。」とこの作品の物語を語り始めるのです。
庄兵衛が喜助から聴いたことは、喜助に金銭に関する不満の類が一切ないことです。
これは庄兵衛の日常では考えらないことで、敬服する思いで喜助の話をさらに聴くと、
奉行の取り調べ通りのことを喜助は語ります。
これを〈語り手〉は喜助に直接話法で語らせています。
実にここが〈語り手〉の巧妙なところ、喜助の話は通常の罪人と違って、
庄兵衛に語る〈裏向き〉であるはずのことが「表向き」のことと変わりがないのです。
これは第一段落の記述を裏切っています。
しかし、通常読者はそうは考えません。
わたくしも以前はそう考えていませんでした。
庄兵衛が聴き取って、解釈している弟殺しの事件の真相、安楽死が喜助の本音であろう、
これは単に「表向き」のことではない、〈裏向き〉の喜助の真意と捉えて、
不都合なく読み進めていくでしょう。
ところが、「表向き」も〈裏向き〉もない、その奥があったのです。
奉行の捉える過失致死という「表向き」も、庄兵衛の捉える安楽死という〈裏向き〉も、
いずれも時代の枠内で捉えたものに過ぎません。
しかし、喜助としては、剃刀を抜いたのは最愛の弟を苦しみから救いたい、
弟の願いに応えたいという一心からのことで、その弟を失った今、
過失致死だろうが安楽死だろうが、そんなことは意識には上りません。
意識ではお奉行に従うのみです。
喜助の顔が晴れやかで、その目が輝いているのは、肉体を失った弟の魂が喜助の内に宿り、
今や身一つになって生きているからです。
このことこそ喜助にとって全て、
この境地は庄兵衛にも奉行にも到底理解できないことなのです。
〈語り手〉が真に読者に伝えたいのはこのこと、
〈語り手〉から見れば、奉行と庄兵衛はフィフティーフィフティー、
彼らのメタレベルに立ち、奉行の権威も庄兵衛の足るを知るという人生の教訓も相対化し、
時代を越えて生き続ける真の価値を語ろうとしている、これが結論です。
〈語り手〉が語ろうとしていることは作中人物たちの思考や感性による意識、
時代がもたらす、ものの捉え方、ロジックを越えて、
弟殺しの喜助の意識の底、無意識の持つ普遍性へ向かうことだったのです。
ここに『高瀬舟』の〈近代小説〉の神髄たるゆえんがあります。
では、喜助が何故弟と身一つで生きることに喜びを感じるのか、
それについては次回の記事に書いて、終わりにしたいと思います。
何故なら、小説の中の物語は第一段落から始まるのでなく、第二段落から始まり、
第一段落はそれを相対化するための極めて戦略的な付置だった、
これを読み取ることの困難さを言う必要があったためです。
第一段落で語られていることは、高瀬舟で役人が聴き取ることが罪人の恨み言、
謂わば本音だということでした。
これは「表向き」の奉行所では話されないことを〈語り手〉は説明しています。
これを第一段落で〈語り手〉はまず〈聴き手〉にはっきりと伝えておいて、
第二段落、「いつの頃であったか。」とこの作品の物語を語り始めるのです。
庄兵衛が喜助から聴いたことは、喜助に金銭に関する不満の類が一切ないことです。
これは庄兵衛の日常では考えらないことで、敬服する思いで喜助の話をさらに聴くと、
奉行の取り調べ通りのことを喜助は語ります。
これを〈語り手〉は喜助に直接話法で語らせています。
実にここが〈語り手〉の巧妙なところ、喜助の話は通常の罪人と違って、
庄兵衛に語る〈裏向き〉であるはずのことが「表向き」のことと変わりがないのです。
これは第一段落の記述を裏切っています。
しかし、通常読者はそうは考えません。
わたくしも以前はそう考えていませんでした。
庄兵衛が聴き取って、解釈している弟殺しの事件の真相、安楽死が喜助の本音であろう、
これは単に「表向き」のことではない、〈裏向き〉の喜助の真意と捉えて、
不都合なく読み進めていくでしょう。
ところが、「表向き」も〈裏向き〉もない、その奥があったのです。
奉行の捉える過失致死という「表向き」も、庄兵衛の捉える安楽死という〈裏向き〉も、
いずれも時代の枠内で捉えたものに過ぎません。
しかし、喜助としては、剃刀を抜いたのは最愛の弟を苦しみから救いたい、
弟の願いに応えたいという一心からのことで、その弟を失った今、
過失致死だろうが安楽死だろうが、そんなことは意識には上りません。
意識ではお奉行に従うのみです。
喜助の顔が晴れやかで、その目が輝いているのは、肉体を失った弟の魂が喜助の内に宿り、
今や身一つになって生きているからです。
このことこそ喜助にとって全て、
この境地は庄兵衛にも奉行にも到底理解できないことなのです。
〈語り手〉が真に読者に伝えたいのはこのこと、
〈語り手〉から見れば、奉行と庄兵衛はフィフティーフィフティー、
彼らのメタレベルに立ち、奉行の権威も庄兵衛の足るを知るという人生の教訓も相対化し、
時代を越えて生き続ける真の価値を語ろうとしている、これが結論です。
〈語り手〉が語ろうとしていることは作中人物たちの思考や感性による意識、
時代がもたらす、ものの捉え方、ロジックを越えて、
弟殺しの喜助の意識の底、無意識の持つ普遍性へ向かうことだったのです。
ここに『高瀬舟』の〈近代小説〉の神髄たるゆえんがあります。
では、喜助が何故弟と身一つで生きることに喜びを感じるのか、
それについては次回の記事に書いて、終わりにしたいと思います。
懐かしいですね。ブログを見て下さったのですね、嬉しいです。岡崎君とは五年ぶりですね。
大学院の授業では村上春樹の『レキシントンの幽霊』の話をしましたね。
寝るとき「僕」はパジャマだったんですよね。それが翌朝はどうだったか、『鏡』も同様、深夜に見たあの恐怖の鏡は翌日には、その鏡自体がありません。これは現実にはありえない不思議な話です。
この類の不思議な出来事が村上春樹の小説にはしばしば、いや、ほとんど起こりますよね。
それはなぜか。
単に小説が虚構という形式で語られているからではありません。一人称の生身の〈語り手〉である主人公の「僕」を「僕」と呼ぶ主体、〈機能としての語り手〉がその一見、不思議な世界観認識を持っているからです。
村上春樹の小説の世界観はリアリズムの世界観では書かれていませんよね。
電車の中でご覧になるとのこと、どうぞ、またコメント下さいね。
好かったら、メールも待っていますよ。
コロナ禍で閉じ込められています。
少し、外に出ようと思っています。
近況などお知らせください。
ご無沙汰しております。
都内の大学院でお世話になりました岡崎です。
先生がブログをやられていることを今日知り(先生のお名前は、同姓同名が多いので、なかなかブログにたどり着けませんでした)、感動のあまりコメントする次第となりました。
とりあえず、最新の記事にコメントさせていただきました。
先生の理論が話し言葉であるブログで読めることは、オンラインで先生の講義を聞いているような感覚になり、大変有意義ですばらしいことだと思いました。
また、分からない所は、気軽に質問もでき、丸山先生のご質問の回答の中にあった「作者」・「作家」・「語り手」の違いはすごく分かりやすくて、これから現代文の指導で使わせていたただきたいと思います。
先生から学んだ読みの理論は、私の文学教育指導の根幹をなしており、大変有難く思っております。
最近は、村上春樹の『レキシントンの幽霊』を教えることは少なくなってきたのですが、その代わり『鏡』を教えております。先生に教わった「パジャマ」の形象の着眼点を置くという発想から、『鏡』では「体験」という言葉に着眼点を置いて授業を行っております。
まだすべての記事を読んでいないのですが、通勤の電車の中で、読んでいきたいと思います。
これからもブログを続けていただければ幸いです。
いつかまたお会いしてお話できることを楽しみにしております。