朴の木の会より以下のお知らせがあります。
2月26日(土)に、田中実文学講座を開きます。
今回のテーマは「近代小説の神髄 その二」です。
はじめて方も歓迎します。大勢の皆さんのご参加をお待ちしています。
テーマ 『注文の多い料理店』を読む
講師 田中実先生(都留文科大学名誉教授)
日時 2022年2月26日(土)午後1時半から午後3時
参加方法 山梨県立図書館及びzoomによるリモート参加
申込締切 2022年2月26日(土)12時まで
参加をご希望の方は、お名前、所属をご記入のうえ、下記のアドレスに申し込んでください。申し込まれた方には折り返しメールでご案内します。
dai3kou.bungaku.kyouiku@gmail.com
主催 朴木(ほおのき)の会
2月26日(土)に、田中実文学講座を開きます。
今回のテーマは「近代小説の神髄 その二」です。
はじめて方も歓迎します。大勢の皆さんのご参加をお待ちしています。
テーマ 『注文の多い料理店』を読む
講師 田中実先生(都留文科大学名誉教授)
日時 2022年2月26日(土)午後1時半から午後3時
参加方法 山梨県立図書館及びzoomによるリモート参加
申込締切 2022年2月26日(土)12時まで
参加をご希望の方は、お名前、所属をご記入のうえ、下記のアドレスに申し込んでください。申し込まれた方には折り返しメールでご案内します。
dai3kou.bungaku.kyouiku@gmail.com
主催 朴木(ほおのき)の会
先生の最新の論文「近代小説の《真髄》―表層批評から深層批評へ―」)を拝読しました。私にとって、とりわけ印象が深かったのは、宮沢賢治の小説における、先生の深層批評でした。『なめとこ山の熊』の〈機能としての語り手〉が、宇宙的な眼差しで見て語っているから、小十郎が熊に殺されるラストが、決して「悲劇的なラスト」ではない、と田中先生がおっしゃいます。なぜならば、宇宙的な観点、道の観点から見れば万物斉同です。生も死も等価です。ここで田中先生に一つお聞きしたいんですが、先生の「深層批評」を日本の文学作品以外にも使えますでしょうか?例えば日本の近代アート、あるいは近代詩も同じように使えますか。教えていただければと思います。よろしくお願い致します。
モルテザさんから言われると、言葉を失うほどの喜びを感じます。そう、〈第三項〉という世界観認識は人類最大の悲劇と私には思われる「神々の闘い」を克服するために考えました。それは例えば、宮沢賢治が既にその童話で実現しています。その読み方が肝心です。例えば、私の読み方と天沢退二郎さんの読み方、お説と対極、例えば、『なめとこ山の熊』のラスト、熊殺しの名人小十郎の死は悲劇ではありません。自分が熊に殺されながら、熊に許せよと詫びて、その死に顔は喜びです。これは悲劇の対極、〈語り手〉は周到に大宇宙の中で死と生の交差に永劫に包まれる小十郎の喜びの秘密を冒頭から語っていました。先週土曜日の講座でお話した『注文の多い料理店』も同様、この作品も凍り付く恐怖で「二人の紳士」の顔は「紙屑のやうな顔」で作品のストーリーは終わりながら、その〈語り〉はそこで終わってはいません。「だいぶの山奥」の外部、その向こうの「山奥」、そこに「専門の鉄砲打ち」や「白熊のような犬」たちは生きていて、これと対比する仕掛けを〈語り手〉を語っていて、これを読み手が受け取って、二人の紳士を見ると、その恐怖にこそ喜びに転換する秘密が見えてきます。こうしたことは文学作品の近代小説や童話だけに仕掛けられているのではありません。読み手の世界観が転換することが求められます。これを手に入れると、賢治童話に限らず、世界が「すきとほつたほんとふのたべもの」に代わるのです。これを描き出したのは賢治の童話や「近代小説の《神髄》」だけではありません。続きは明日にしましょう。
遅くなりました。続けてコメントの疑問にお応えします。以下の事は三月十五日には都留文科大学の研究紀要に公表することです。
田中の説く〈深層批評〉は文学作品、リアリズムを本命とする近代小説の《神髄》を読むためのもの、先に言いますが、これには、世界観認識の転換を要求するもの、読むための革命に書いたものです。モルテザさんのような、神の絶対の闘争の結果日本に来られた方に受け取って下さることは喜びひとしおです。日本では誤解が生じて、困惑しています。そのため、既存の研究団体には全て距離を置かざるを得ません。モルテザさんのご質問は大歓迎です。
私の〈第三項〉論は世界に対する向き合い方、特に根底では絶対者である「神」とは何かを含めて、世界とは何か、自分とは何かを追究するために考えたもので、対象がいわゆるアートであろうと、詩であろうと、それは選びません。私は基本的に萩原朔太郎を支持してきました。
私は既存の研究が世界を実体論で捉えるか、非実体論で捉えるか、どちらにしろ、既存の研究団体とはどれも距離を置かざるを得ません。通常の研究団体は実体論、蓮實重彦の「表層批評」は非実体論、これにに対して、田中の〈深層批評〉は〈第三項〉を措定して、非実体論に立ちながらも、〈読みの動的過程〉を辿る力学、読み手の中に生じる心の動き、メカニズムを研究対象にしています。読み手が作品の意志に拉致される、その心の動きを研究対象にします。そのためにパーソナルセンテンス・オリジナルセンテンス・「
「元の文章」の三つを読みの基本に置きました。
我々の前に現れている外界の客体の対象をどう考えたらよいのか、考えてみましょう。
我々に捉えられているその客体の対象は客体の対象そのものではない、全て主体に応じて現れるにすぎません。客体の対象はその都度、主体の応じてそれぞれ現れています。しかも、その表れは時代や環境が造り出した思考や感覚の制度性によって造られている、一種の「制度」に拠るものてです。ならばその制度を瓦解・倒壊・解体させてると文学作品の客体そのものに読者が出会えるかと言えば、そうはいきません。客体そのものは永遠に沈黙したまま、了解不能の《他者》なのです。そこで、もう一度、振出しに戻ってみましょう。
そもそもが外界の世界は実は、人間の言語によってそのあり様が制作されているのです。生命は言語によって我々人間に現れています。その秘密を取り出す優れた言語の芸術の文学、これは、例えば、モルテザさんが共鳴して下さった、賢治の『なめとこ山の熊』論は、そのあり様を私は論じてみました。魯迅の『故郷』も是非見て下さい。そうすると、中国・イラン・日本の架け橋が出来ると思います。幸い、北京大学の呉暁東さんの論文は画期的、この論文と先日の彼とのオンラインでの六つの質問に拠る対談、彼の論文と私のそれとを重ね合わせて、さらにこれから論じたいと思っています。
重ねて言いすが、既存の研究団体とは距離を取り、三つの国での交流を目指したいと思っています。そもそも『なめとこ山の熊』論も『セロ弾きのゴーシュ』論もモルテザさんに言われて書いたものです。
続けてやり取りしましょう。
もう一つ行っておきます。
蓮實重彦は読むことが読み手の主体に応じて変容する事態を踏まえて、すなわち、「読みのアナーキー」を踏まえ、永遠に一義にはならないことを引き受けて自身に現れた観念を強力に押し出す、作品の〈表層〉を借りながら、自身の中に開いた観念を押し出します。自己表現にその存在を掛けるのです。田中はその逆、自身の観念を瓦解・倒壊し、作品に拉致されていき、作品の価値を求めます。文学作品に撃たれるのです。これが〈深層批評〉です。これが受け止められると、「神々の闘い」という相対的な世界観を超えることが出来ると考えます。かつてモルテザさんの一族の全てがアッラーの神を信じている中、敢えて、日本に来られたモルテザさんにとの対話、これからさらに続けていきましょう。