〈第三項〉論で読む近代小説  ◆田中実の文学講座◆

近代小説の読みに革命を起こす〈第三項〉論とは?
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拙稿「心の架け橋と『藤野先生』論とその行方―「ああ、施す手なし」―」が終わって

2023-10-07 12:29:45 | 日記
拙稿を書き終わって、やっと、ブログに向かいます。
石川さんのコメント、とてもうれしかったですよ。
拙稿が掲載される都留文科大学の紀要は今月13日に納品ですから、
しばらくしたら、大学のリポジトリにアップされ、どなたでも読めるようになるはずです。
ミスがありました。
2頁目の下段、「二十八年間」は「十八年間」です。
訂正してお詫びします。

『藤野先生』の筋は平易に見えて、決してそうではありません。
現在、高等学校国語教科書指導書では〈語り手〉の「私の考え」が「変わった」のは、
こぞって医学から文学に転換した仙台でのことと捉えられています。
これを日本の仙台と捉えるのでなく、「私」が語っている通り、
「のちに中国」でのことと捉えることで、魯迅研究に革命的転換をもたらすことになると、
拙稿では説いています。

その急所は「ああ、施す手なし」にあり、これが
「だがこの時この場所で私の考えは変わった」のです。ここには決定的な世界観の転換、
背離・パラドックスで語られていたのであり、
それは医学から文学への専門分野の転向の問題の類ではなく、
未曽有の思考それ自体の根底の転換です。

『藤野先生』なる文学作品はそのストーリーの根底で、
〈近代小説〉の本流であるリアリズムの枠組みを超え、その《神髄》に達しています。
何故なら、医学から文学への転向ではその志はいささかも変わっていませんが、
文学活動を必死で展開していた「私」がもはや「ああ、施す手なし」と
その精神の根底を斥けられたら、「私」はもはや生きるに値する場を喪失してしまいます。
ちょうど『吶喊』の序文に書かれていること、限界状況での逆説が起こっているのです。
それは拙稿をご覧ください。

拙稿の根幹をここで簡単に言っておくと、
一人称の語り手の「私」の意識の内奥の根源で、「私」ならざる「私」、
すなわち、反「私」がそれまでの「私」と同時存在する《私》に転じていたのです。
すなわち、難解で有名な西田幾多郎の「絶対矛盾的自己同一」として《私》が機能している、
そうしたことを拙稿では論じました。


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