〈第三項〉論で読む近代小説  ◆田中実の文学講座◆

近代小説の読みに革命を起こす〈第三項〉論とは?
あなたの世界像が壊れます!

お三方のコメントにお応えして⑵

2021-03-11 08:50:14 | 日記
次に古守さんのコメントにお応えします。

その前に、前回中村さんにお応えしたことの⑴の問題について付け加えておきます。
国語教育の分野での中村さんの先生に当たる西郷・田近両先生は、
思うに、現実を単一の現実と信じる世界観を持っておられると思います。
それは近代文学研究の分野にある私が、かつて圧倒的影響を受けた三好行雄・前田愛の両先生も
同様ですが、現実なる対象は「言語以前」の問題を潜らせて考えようというのが、
わたくしの現在の立場です。
すると、我々は、いや、わたくしは複数の現実が現れるリアリズム観に立つことになります。

春樹の短編小説『クリーム』の大人になった「ぼく」は、
「中心がいくつもあって、しかも外周を持たない円」の存在を考え続けています。
この「円」の存在を認めることはもはや現実は単一という現実観を逸脱しています。
私見では村上春樹の小説は漱石・鷗外・志賀直哉らを継承し、
〈近代小説の神髄〉に向かっています。

さて、古守さんから二点ご質問を戴きました。

第一点、
1、三人称小説でも、「語り手」と「語られる人物」の関係で読んでいくことを
先生から学んでいますが、村上春樹が敢えて『一人称単数』を提示した意味は何なのでしょう。
(『一人称単数』の作品で「私」が「男」と三人称で語られたら、
上記の世界を描き出すことはできないのでしょうか。)


三人称も一人称も、語られた出来事を語る主体との相関関係で捉えれば、
構造的にどちらも違いはないと言えます。
三人称を語る〈語り手〉も、一人称を語る〈機能としての語り手〉も、
語られた出来事に対して、メタレベルの位置にあり、
実は、語っている対象を相対化し構築して語ることができるからです。
根底的には、一人称も三人称も違いはないのです。
にもかかわらず、どこが相違のポイントかと言えば、一人称の場合、〈機能としての語り手〉が、
作中人物でもある生身の〈語り手〉の視点(まなざし)を通して語るので、
対象人物のまなざしからは語れない、
という制約があります。
それに比べて、三人称の場合は、出来事や登場人物一人ひとりを
構造的には上位のまなざしから語ることができます。

通常なら、この質問に対して、上記のような一人称と三人称の違いについて
答えて済ましてしまうでしょう。
しかし、これはこのような応答のレベルを期待しているのではない、
さらにその奥のこと、稀に見る鋭い質問と思われます。
というのも、『一人称単数』が、一人称単数の「私」という〈語り手〉によって
語られる必然の根源性を問われているからです。

古守さんの指摘のように、これが仮に「男は」と三人称で語られたなら、
「私」とは何者かという問い(鏡の中の「私」に鏡の外の「私」がお前は誰だと問う)の答えを
「私」の知らない「私」の外部、非「私」が「私」に問う形に収まってしまいます。
三人称ならば、「私」は「私」の知らない「私」に問うている話で済んでしまいます。
ところが、この作品はそれを許しません。
「一人称単数」の「私」ですから、「私」自身は「私」の外部から「私」を直接には語れません。
そこで「私」が「私」を「私とは何者か」と「私」をさらに追い詰めることになっていきます。
それが鏡の像の仕掛けです。「私」と「私」の対決です。
さらに正体不明の謎の女が登場します。
この女が「私」の無意識の罪を暴きます。

「私」は鏡の像の「私」を見て、自分をよその誰かのように感じます。
通常多くの人がそうであるように、自分の人生にもこれまで大事な分岐点があって、
今の自分がある、すると、自分ならぬ「向こう」=外部が自分を自分にした、
鏡を前にした「私」はこう思わざるを得なくなります。

『猫を棄てる』の「ぼく」も同様の感慨を抱きます。
「ほく」のこの世に存在するDNAは必然であっても、
「ぼく」という存在が大宇宙で偶発的に生成された存在であることに気づくのです。
大自然の中で「ぼく」に関わるわずかの違いがあったら、「ぼく」は誕生さえしていません。
親があって子どもがある、この必然それ自体が、実は、奇跡のような偶然によって成り立つ
パラドックスを内包している、これが『猫を棄てる』です。

古守さんの質問は人が自身を自身たらしめるものとは何かという問いです。
村上春樹は、これを捉える際、自身の外部を抱えます。
すなわち、私なる存在は反「私」を内包していることのからくりを解き、
これが物語の結末の超現実、顔のない男女のいる世界を見せます。
女が「私」自身の抱える意識・無意識の奥の罪を露わにするのです。
古守さんの質問は貴重です。

次は第二の質問、
2、『猫を棄てる』について先生が話された「因果律」という言葉のところを
もっとお聞きしたいと思いました。
子猫が消えることは「結果が原因をのみこむこと」「因果律を超えたもの」と
話されましたが、リアリズム=因果律、システム=因果律、
これとの対峙と捉えてよいのでしょうか。
その時の「因果律」とは、「原因と結果」の「捏造」と関わると考えてよいのでしょうか。


自伝エッセイ『猫を棄てる』の物語は、少年の時の二つの猫のエピソードを冒頭と結末に踏まえて、
物語を語っています。
が、これは講義でお話したとおり、「猫を棄てる」話が末尾「猫の消える」話に転換する
ストーリーです。
「結果は起因をあっさりと呑み込」む世界観が語られているのです。
末尾白い子猫が何故消えたかは語っている「僕」にも分っていません。

この自伝エッセイは「リアリズム=因果律、システム=因果律」との対峙の話と
捉えてよいかのご質問に対して、これはおっしゃる通り、そう考えてよいと言わざるを得ません。
「リアリズム」も「システム」も、主体とその主体によって捉えられた客体の対象との
相関関係で成立しています。
その相関の因果の関係を捉えるのが因果律です。

村上春樹は職業作家として書くことを徹底的に相対化します。
それによって、書く主体は透明化され、これまでの自身の主体の〈向こう〉の外部に
その主体が立ちます。
その外部からのまなざしからかつての主体と客体の相関の関係領域を捉え、
これまで語ってきた自身の出来事、その因果関係を相対化するのです。
すなわち、ここからこれまでの「原因と結果」の因果律を捉えると、
事態が確かだと見えていたことも、その確かさは因果律の中での確かさに過ぎず、
捉えていた主体のまなざしに現れていた出来事に過ぎない、恣意性が浮上することになります。
因果律はシステム、リアリズムの枠組みの恣意・捏造だったのです。
すなわち、リアリズムもまた、時代(近代・モダン)の思考の枠組み、
システムに組み込まれている、その中での出来事だったのです。

村上春樹はこうした思考の回路を潜って、父からの受け継ぐ戦争責任の罪と対峙します。

お三方からコメントを戴いて(1)

2021-03-10 15:45:30 | 日記
六日土曜日は村上春樹の最新作自伝エッセイ『猫を棄てる』と
短編小説『一人称単数』の二回目でしたが、
お三方からコメントを戴き、大変うれしく思っています。

ご質問に私の思うことを申し上げます。
まず、最初は中村龍一さん、御質問は二点です。

1 「〈ぼく〉は〈ぼく〉でありながら、〈ぼく〉を瓦解し続ける〈反ぼく〉
(第三項)を抱え込みながら語っていく。
〈ぼく〉とは〈ぼく〉は許せない〈ぼく〉を抱え込んで〈僕〉である」ということと、
西郷竹彦氏の「〈ぼく〉の中の『あるべき〈ぼく〉と、しかし、
現実を生きなければならない反〈ぼく〉』との矛盾の葛藤」とはどう違うのか? 
もう少しご説明ください。


それを言うためには、唐突ですが、「私」とは実は『私』だったことを
申し上げなければなりません。
これまで『私』は自分のことを「私」だ、『私』は「私」と信じていました。
いわば、無意識に近代的自我を抱えているのが真の自己だと信じていたのです。
「地下一階」までしか、自己は存在しないと考えていたのです。
ところが、『私』のことを「私」としか思っていなかった『私』が
大自然・大宇宙に目を向けると、その『私』は大自然の偶然のたまもの、
『私』は「私」の意識・無意識の外部である反「私」との化合物で構成されていたのです。
その反「私」が『私』には捉えられなったのです。
そこで、次の等式が誕生します。

       『私』=「私」+反「私」

これはもちろん、国語教育の西郷竹彦さん、田近洵一さんのお考えとは異なります。
私にとって、師匠に当たる先生方、近代文学研究の三好行雄さん、
前田愛さんとも異なります。

そこで、ご質問の1、西郷氏のあるべき「ぼく」と現実を生きる反「ぼく」という考えと
上の等式とはどう違うかというご質問ですね。

西郷氏の言うことは、一人の人間の意識の中で対立や齟齬が起き、葛藤するということですね。
人は通常、理想と現実の葛藤・矛盾で悩む、自分が自分に悩む、
自分の中にあり得ない自分が生きていて、これに苦しむ、
こうしたことを言っていますね。意識の枠内の自意識の問題でしょう。

村上が言うのはそうした意識・無意識の外部を問題にしています。
田近氏の場合も、無意識の外部の問題には向かいません。
三好先生も、フロイトやユングもそうでしょう。


2「『一人称単数』は結末から考えると、原因が分からなくなる話である。
因果律を超えてしまう。それを村上春樹自身が、どう受け止めているかを語っている。
この指摘は衝撃的でした。この因果律を超えてしまう事態を、
田近洵一氏は「語り手が語りを放棄し、読者にゆだねたのだ」と説明しています。
田近氏のお考えをどう考えられますか?


田近氏の場合、〈語り〉の問題に強く惹かれ、これを意識して読もうとされています。
〈語り〉を問題にすると、一人称の場合、語っている生身の〈語り手〉の外部に
〈語り手を超えるもの〉である〈機能としての語り手〉を捉えることが基本と考えます。

伝統的通念の枠組みでこの世ならぬ不思議なことが語られたり、
近代社会になって、自然主義のリアリズムで捉えられる領域なら、
旧来の実体論の枠組みが通用します。

しかし、近代小説の神髄は、リアリズムの因果律では捉えられない
世界観認識が示されます。
すなわち、リアリズムの外部の「地下二階」の領域、
リアリズムで捉えられない領域を抱え込んでいるのです。
つまり、反「私」は「私」の外部、「地下二階」の領域にあるのです。
ここで次の等式が成り立ちます。

反「私」=了解不能の《他者》=〈第三項〉

これを見失うと、近代小説の神髄である作品の構造は捉えられません。
「語り手が語りを放棄した」と、語りの問題を自ら放棄する言を
それと意識せず語ることになるのではないでしょうか。


あとのお二方のコメントにも、改めて記事の中でお答えしていきたいと思います。




 

六日の講座のこと

2021-03-04 14:38:31 | 日記
六日、土曜日二週間遅れの講座を行います。予定日の直前、義母が亡くなり、
予定を変更せざるを得ませんでした。
お許しください。

三月一日まで、都留文科大学の学部と大学院の紀要雑誌に投稿した二つの論文の
校正に追われていました。
それによって、ほとんど、私自身の内面が瓦解・倒壊をしていたことを感じています。

こんどの土曜日は、前回見たことを振り返り、
村上春樹の『猫を棄てる』に対しては鴻巣友希子さん、
マイケル・エメリックさん、それに佐藤優さんのお書きになったものを紹介・検討し、
私見を述べたいと思っています。
私見では、それはそのまま、『一人称単数』の短編小説の趣旨に通底していると考えています。
そこには、村上春樹の捉えた世界観認識が読み手の我々に思いがけない姿として現れてきます。
しかも、それはいみじくも、あまんきみこが自身の「遺書」と呼ぶ最新童話
『あるひあるとき』のテーマと根底で通底しているようにも思いました。