みつばちマーサのベラルーシ音楽ブログ

ベラルーシ音楽について紹介します!

トーダルの人生 3 「クリヴィ」時代

2008年02月05日 | トーダル
<クリヴィとトーダルの誕生>

 1996年、パラーツを作ったものの、リーダーではなかったフランツが、パラーツを脱退し、新しいグループを作ろうと、トーダルに呼びかけた。
 これを機会に、トーダルはパラーツを抜け、そしてボーカルとしてベラニカ・クルグロワを加えた3人のグループ「クリヴィ」を結成する。
 クリヴィとは、昔ベラルーシで旅人が道中に飲む飲み水を入れた水筒のことである。
 つまり、クリヴィの音楽を人生と言う旅で飲む水にたとえたのである。
 
 ここでもフランツは新しいグループを作っても、自分はリーダーにはならず、ベラニカがリーダーになった。ベラルーシでは異色の女性がリーダーのグループである。
 トーダルとフランツは作曲や編曲、楽器の演奏やサイドボーカルを分担した。
 クリヴィ結成時にトーダルは、芸名をフョーダルからトーダルに改名。
 その理由は
「これからは、優しい親切な人なだけじゃだめだ。」
と思ったから。ちなみにトーダルとは、ベラルーシ人の古い男性名で、今は自分の子どもに名づける人はめったにいない、という名前。意味も「強い男」。
 フョーダルはパラーツのメンバーにつけてもらったが、トーダルという名前は自分で選んでつけた。かくして、ここにミュージシャン「トーダル」が誕生した・・・。
 そして、当時のプロデューサーの考えだったと思われるが、トーダルのことは「マルチ・インストゥルメンタリスト」として売り出された。
 マルチ・インストゥルメンタリストとは何かと言うと、つまり「何でも楽器が弾ける人」という言葉である。トーダルが器用で、いろいろな楽器が弾けるため、そのような肩書きをくっつけたのである。
 しかし、マーサが後になってトーダルに確認したところ、「何でも楽器が弾ける」わけではなく、ピアノやバヤン(ロシアのアコーディオン)といった鍵盤楽器はそれほど上手に弾けないことを白状している。
(「クリヴィのマルチ・インストゥルメンタリストの人でしたよねえ。」
と人に言われると、苦笑いをしている。)

 パラーツがベラルーシ民謡とロックを融合させた「フォークロア・モダン」という新しいジャンルを創ったのに対し、クリヴィはそれに「ベラルーシ・エトノミュージック」をさらに融合させようとた。
 ベラルーシ・エトノのエトノとは、エスノ・ミュージックのこと。
 エスノ・ミュージックは主にアジアやアフリカのエキゾチックで、民族色を前面に出した音楽のことだが、「ベラルーシ・エトノ」というジャンルではベラルーシ民族色を下地にした創作的な音楽が多い。

 クリヴィはベラルーシ民謡、ロック、エトノなどのさまざまなジャンルの音楽が融合した新しい音楽を創り始めた。
 そして、これが大成功を収めたのである。
 同じ歌詞を何度も繰り返す手法のメロディーライン、巫女を連想させるヴォーカルのベラニカ。フランツがかぶせるテクノサウンドといったさまざまな音。トーダルの巧みなアレンジ。
 デビューしたとたんに、クリヴィはベラルーシ音楽シーンのスポットライトに登場し、パラーツと人気を二分するようになった。
 そして、ドイツ公演を実現。
 1997年にファーストアルバム「ヘイ・ローリー」を発表したが、録音作業が行われたのはドイツのベルリン、と当時のベラルーシの音楽グループとしては異例の「出世」だった。 

 ところが、フランツはファーストアルバム発表後、1年ほどでクリヴィを脱退。次にとうとう自分がリーダーを勤めるグループ「URI'A」を結成し、現在に至っているが、この人どうして新しいグループを作ってはすぐ自分は抜けてしまうんだろう? ある意味、マーサがとても気になっているミュージシャンの一人である。

 フランツが抜けた後、ピート(本名はピョートル・パウラウ)がメンバーに加入。ギターを担当し、再び3人になる。
 トーダルはほとんど全ての作品の作曲、編曲、楽器演奏、サイドボーカルを担当し、大忙しとなるが、次々に発表したアルバム「霧のかなたに」「人々に」などで、大成功を収めた。
 知名度が飛躍的に上がり、ベラルーシ、ポーランド、ドイツのコンサート会場で大喝采を浴びるようになった。
 1999年には「ロック・カラナツィヤ」コンクールでクリヴィが「ベラルーシ最優秀グループ賞」受賞。
 トーダル自身は「ベラルーシ最優秀ロックシンガー男性ボーカリスト部門」優勝。(別名「ロック・キング賞」)ベラニカも女性ボーカリスト部門で優勝した。(別名「ロック・クイーン賞」)
 また2001年に上映された映画「新鮮な肉は花火とともに」(ベラルーシフィルム)の音楽を担当し、ラストシーンで音楽家の役で1秒間ほどクリヴィのメンバーとともに出演するなど、活動の場所も広げていった。
 こうして90年代を代表するグループに成長したのである。
 
<クリヴィ脱退騒動>

 ところが・・・2000年にドイツのベルリンで行われた音楽コンクール「Musika Vitale」でクリヴィが優勝するという、人気絶頂期にトーダルはクリヴィを脱退した・・・。
 その理由はいろいろあるが、最大の理由は、他のメンバーと意見が合わなくなったこと。
 トーダルによれば、ベラルーシ・エトノではなく、もっと違う音楽にも挑戦したいと言ったのに対し、他のメンバー、特にベラニカが反対したから。
 ベラニカは今までのクリヴィ路線で進めばよく、変更する必要はない、と言い、さらに、あんたは私が歌いたい歌を作曲すればそれでいい、というような自己中心的なことをトーダルに言ったらしい。
 トーダルがそれに反発し、ピートもそれにからまって、大変な口論になってしまったらしい。
 そしてとうとう、トーダルがソロ活動をしてでも、自分のやってみたい音楽がやりたいと言い出したが、それもベラニカが反対したため、また揉めに揉めてしまった。(その情景を想像したくない・・・)

 結局はトーダルが脱退してしまうのだが、しばらくの間、ベラニカ&ピートとは口もきかぬ、という冷えた関係が続いてしまうほどだった。
(しかし、その後すぐに、まずピートと和解。ベラニカとは長い間、疎遠な状態が続いていたが、2007年にはいっしょにステージに立って、クリヴィ時代の歌をデュエットするなど感情的なしこりは解消した模様。)

 こうして、トーダルはソロ活動に入った。トーダルのクリヴィ脱退はファンに衝撃を与えた。しかし、一番ショックだったのはベラニカだったろう。
 トーダルあってのクリヴィだったことは、誰の目にも明らかだった。作曲・編曲・演奏のほとんどを担当していたトーダルが抜け、クリヴィの人気は急激に失速していった・・・。

 トーダルにとっても自分に課したソロ活動への道は、厳しいものになるかもしれない、と自覚していた。しかし、自由な音楽上の実験ができることになり、自分の才能を次の段階へと上げていくことになったのだった。  

 (トーダルの人生 4 に続く。)

画像はクリヴィのメンバー。
右からトーダル、当時のサポートメンバー、ベラニカ、ピート。
トーダルが持っているのはベラルーシの民族楽器手回しリラ。(摩擦弦楽器ハーディーガーディー)