◆県内最古級の石橋
在原業平朝臣が渡ったという伝承をもつ「業平橋」と同じく古隅田川に架けられていた橋に「やじま橋」という石橋があります。
この「やじま橋」は、昭和59年(1984)3月の改修工事の際に撤去され、今は近くの古隅田公園に移築され保存されています。もちろん橋の下に川は流れていません。
「やじま橋」は埼玉県内で現存する最古の石橋の一つとされ、昭和60年(1985)2月26日に春日部市の指定有形文化財に指定されています。
ということで、今回は「やじま橋」のことを。
やじま橋
この橋は、市内南中曽根と岩槻市小溝の間を流れる古隅田川に架けられていたものですが河川の改修工事により現在地へ昭和五十九年三月に移築されたものです。橋は元文二年(西暦一七三七年)今から二四七年前)に構築された埼玉県内で最も古い石橋のひとつとされ、橋板・橋脚・橋桁・岸壁いづれも石造りで、中でも橋板には長方形の大石十八枚を敷き、その一枚に「元文二巳歳 永井氏のため志 鶴のハシタテ 亀のカウラン」の銘文が刻まれています。
橋の由来については、古来より「やじま橋」と呼ばれ「矢島橋」「八島橋」とも書かれてきました。いづれが正しいかは定かではなく、また地元の有力者の矢嶋氏、あるいは谷嶋氏(現在も矢島姓は現存)が中心になって造営にあたったからこの名があるという説もあるなど確証はありません。
江戸時代この春日部市豊春地区は岩槻領に属しており、特に粕壁から岩槻に通じる唯一の道になっていたので人馬の往来も多く、藩政上きわめて重要な役割を持っていたようです。
この橋が今日まで当時の姿をそのまま残していることから堅個な設計と高度な技術によって完成されたことがわかります。
この橋に使われている石材は安山岩類の新小松石で、(俗に真鶴(まなづる)小松とも呼ばれる)産地は神奈川県真鶴地方で、この石は江戸時代広く土木建築面で利用され、特に江戸城構築時の石垣などとして使用されていてことから、御用石(ごよういし)とも呼ばれています。なお、この銘文にある永井氏とは信州飯山城主を経て、正徳元年(西暦一七一一年)岩槻城主となった永井直敬(ながいなおひろ)をはじめとして、以後尚平(なおひら)・直陳(なおのぶ)と三代四十五年間当時禄高三万二千石の岩槻城主をつとめ、宝暦六年(西暦一七五六年)美濃加納城主に転じた永井氏のことです。昭和五十九年三月
春日部市教育委員会
春日部市文化財調査委員会
光線の関係と手すりが前にあり、大変読みにくい説明板ですが、何とか文字起こしすることができました。
◆鎌倉街道
かつての「やじま橋」が架かっていた場所は、旧鎌倉街道筋であり、明治21年10月下旬に開通した「岩槻新道」(旧16号)のできるまでは、この道が唯一の道路でした。俗に「岩槻古道」とも呼ばれ、この橋も昭和の中頃まで利用されていましたが、宅地開発が進みこの橋の際に新しい橋が架けられて、橋は撤去・移築されました。
「やじま橋」は、今から282年前の元文二年(1737)時の岩槻城主、永井伊賀守直陳(なおのぶ)の命により道順川戸村の名主、矢島氏(現八嶋氏)が新方庄・上蛭田村・徳力村等沿道の者から浄財と労力を集めて架けられたものと言われています。
かつての橋の位置は太田庄と新方庄の境界にあり、貴重な奥州街道の道筋でした。
◆難工事の末
橋の構築にあたっては地盤が軟弱のため難工事で、橋脚の沈下を防ぐため水中にある最下部には栗材や松材の丸太を幾重にも井形に組み、基盤を造ったとされ、その上に何百貫という石柱(橋脚)と梁を組み立て、長方形の石(タテ1.8㍍、ヨコ0.4㍍、厚さ0.06㍍)を18枚使用し架けられたものです。
◆文字が刻まれた石橋
説明板にある通り、その中の一枚の裏側に次のような文字が刻まれています。
「元文二巳歳 永井氏のため志 鶴のハシタテ 亀のカウラン」
この文字は、「橋が永井氏の志により架けられたものであり橋脚を鶴の足にたとえ、橋板を亀の甲羅に見立てて鶴亀となし、「幾久しく後世に残れ」と願って刻まれたものと思われます。
昔、この街道が利用されていた頃、この辺りは岩槻藩の重要な位置であったので、橋の際(きわ)には太田庄(後の百間領)の番所や晒場(さらしば)が置かれ、また通行人相手の商家があったそうですが、明治期、岩槻新道の開通により人家も移転し、田圃の中に忘れ去られた場所となりました。
参考:「広報かすかべ昭和53年6月」かすかべの歴史余話)
※百間領(もんまりょう)、現在の南埼玉郡宮代町、春日部市の一部、さいたま市岩槻区の一部、白岡市の一部、久喜市の一部に相当する近世における武蔵国埼玉郡の地域名(領名)。
※晒場(さらしば)とは、江戸時代、罪人をさらしの刑にした場所。
古隅田公園
現在、「やじま橋」が保存されいる「古隅田公園」は、古隅田川の堤防上にある公園です。堤防の南端には「巡礼供養塔」(享和3年、1803)、「馬頭観音」(寛政4年、1792)、「天王宮」(寛政3年、1791)などの石塔が祀られています。
この内、道しるべを兼ねている「巡礼供養塔」には、「右かすかべ、左こしがや」と刻まれています。
また、「馬頭観音」には、「金野井川岸 馬持講中」とあります。金野井川岸とは江戸川右岸の西金野井地区にあった河岸場のことです。
これらの石塔も元は「やじま橋」を通る道筋にあり、この旧堤防が遠く江戸川の河岸場と粕壁宿や岩槻宿とを結ぶ街道の役割を果たしていたことが伺えます。
この場所は、駅からは少し距離があるので、訪れる人はあまり多くはないと思いますが、先人たちが遺した貴重な文化財として後世に残していってほしいと思います。
[古隅田公園]