かすかべみてある記

日光道中第4の宿場町・粕壁宿を忠心にクレヨンしんちゃんのまちかすかべをみてある記ます。

"傅”芭蕉宿泊の寺・東陽寺(其の三)

2022-05-26 19:30:00 | 地域発信情報
更新日:2022/05/26公開日:2019/02/05
前編では、芭蕉一行の当地カスカベでの宿泊先と曾良が用いた地名のカタカナ表記などについて郷土史家の説ご紹介しました。今回は僭越ながらそれについて私見を。
東陽寺にある曾良の随行日記の碑

芭蕉と曾良が描かれたシャッターアート

◆漸(ようよう)草加
まず、芭蕉の『おくの細道』(草加の項)にある「漸(ようよう)草加‥」について、

ー略ー
「草加」の項に『其日漸く草加と云う宿にたどりつけり。』とある。これは、草加宿に宿泊したのではなく、当時は千住から草加宿まで、途中に宿場はなく休息処もなく、日光街道の中で一番長丁埸の区間であったところから、芭蕉は疲れて待ち遠しく思っていたところ、漸く草加宿に着いたことを記したものと考えられる。
(引用:ふるさと春日部『春日部の寺院』須賀芳郎/著 1996年)

と、「疲れて待ち遠しく思っていた」と書かれています。確かに、新暦の5月半ばですので、初夏とも言えなくはなく、早く何処かで休みたい、と思っても何ら不思議ではありません。

しかし、『野ざらし紀行』や『笈の小文』などの紀行文でもわかるように芭蕉は長旅には慣れていると思われます。また、芭蕉忍者説までもありますので、千住宿〜草加宿間の2里余りで「疲れた」は、考えにくいと思います。

それより、門弟など多く親しい人々の見送りを受けての旅立ちだったので、惜別の思いやこれから向かう陸奥への漠然とした不安な思いなどが入交じり、それらの気持ちを整理するためには少し時間が必要で、草加宿に着く頃になってやっと(漸く)旅への覚悟が定まった、という意味で、「漸(ようよう」(漸く)という言葉で表わしたのではなかなと思います。

◆地名のカタカナ表記
次に、地名のカタカナ表記についてですが、前掲書に

ー略ー
芭蕉に随行した弟子の曾良の日記によると、この日は、『カスカベ』に泊るとある。
それでは曾良は何故か「カタカナ」で『カスカベ』と記したのであろうか、筆者【須賀】は、次のように推測する。粕壁宿は昔から俳句の盛んな土地柄で、多くの俳人が出入りしているところで、当時有名な芭蕉が行脚の道すがら、粕壁宿に立ち寄ったので、宿内の有力者が出迎えて、もてなしをしたときに、曾良がこの土地の地名の文字を尋ねた際、ある人は「春日部」・「糟ケ邊」・「糟壁」と云、またある人は、この度の元禄の御触れで「粕壁宿」となったと答え、三者三様の答えがあり、曾良は、日記に『カスカベ』と片仮名で記したものと思われる。

と書かれています。

粕壁宿を案内するボランティアさんの中にも同じような説明をする方がいらっしゃいます。確かに、そのようなことが想像できますが、少々“盛り過ぎ” ではないでしょうか。

カタカナは、本来、漢文を読む時の補助記号として、生まれたとされ、主に公文書を読んだり書いたりする時にも利用されました。その他、学問をするためにも使われていました。

学問には多くの場合、漢字が使われていたので、カタカナは漢文を読むための補助的なものだったと言えます。曾良は元武士であり、漢詩や漢文の素養があったと思われますので、カタカナを使うのはごく当たり前のことだったのではないでしようか。

そもそも、芭蕉と曾良が立ち寄ることを地元の人たちはどうして知っていたのでしょうか? 旅立ちの前に前もって知らせておいたのでしょうか?

もし、そうだとすると、曾良は、「カスカベ」を「粕壁」と書くことは当然知っていたはずです。そもそも、初日は疲れていたのでしょう、地名は誰にも聞かず、単にカタカナで記したのに過ぎないのでは、と思います。

翌、3月28日には、

一 廿八日 マヽダニ泊ル。カスカベヨリ九里。前夜ヨリ雨降ル。辰上尅止ニ依テ宿出。間モナク降ル。午ノ下尅、止。此日、栗橋ノ関所通ル。手形モ断(ことわり)モ不入(いらず)。

続けて、

一 廿九日、辰ノ上尅、マヽダヲ出。  

とあります。

これらを見ると、曾良は「粕壁」や「間々田」の地名表記には特にこだわりはなく、やはり、ただ単にカタカナで書いただけなのかも知れません。

先述の通り、芭蕉の旅の目的は、あくまでも陸奥や北陸の歌枕を訪ねることであったので、歌枕でない土地には、さほど関心がなかったのではないかな、と思います。

4月1日の夜日光に到着した夜は、

…其夜日光上鉢石町五左衛門ト云者ノ方ニ宿。 壱五弐四(不明)

さらに、翌4月2日の夜は、下野の玉入(たまにゅう、栃木県塩谷郡塩谷町玉生)に宿をとったが、

一 同晩 玉入泊。宿悪故、無理ニ名主ノ家入テ宿カル。

と、宿を変えたことが記されています。「粕壁」でも宿の名を書いておいてくれたら良かったのですが、、、。

なお、当地では、この「東陽寺」の他、修験の寺、小渕の「観音院」にも泊まったとする伝承があります。でも、元禄の頃、小渕は粕壁宿ではありませんので、わざわざ「カスカベ」と表記しないと思います。

それより、

◆旅を急いだ理由
疑問というかとても不思議なのは、「芭蕉は、なぜ、日光までをそんなに急いだのだろうか?」ということです。

何しろ、千住宿を出てからわずか4日で日光に着いているのですから。

前述の通り、芭蕉忍者説もあるそうなので、私的には、むしろそちらの方が気になります。

なお、3月は、陰暦で小の月なので、29日まで。従って、翌日が4月1日となります。

以前、通信制の大学に行ってた頃、ある方が、この課題(「芭蕉は、何故日光までそんなに急いだのか?」)を卒論のテーマに選んだと仰っていました。

その仮説は、

江戸時代、毎年4月に日光の大祭に朝廷から派遣された日光例幣使が、4月の中旬に日光東照宮に到着するので、その前に日光を訪れたかった。即ち、街道筋の警戒が厳しくなる前に通過したかったのではないか。

とのことでした(後で少し説を変えられたようですが)。とても興味深いと思いませんか。

そう言えば、曾良は、栗橋の関所を「手形も断(ことわり)もいらずに通った」と、書いています。厳しい警戒が無かった安堵感とも解釈できます。

日光例幣使(にっこうれいへいし)

①日光へ例年、幣物(金色のぬさ)を奉献する勅使のこと。日光東照宮で毎年4月15日から家康の命日の17日まで大祭が行われる。この祭礼に朝廷からの幣物を持って行くのである。正保4年に始まり慶応3年までの221年間毎年中止することなく続いた。正保3年(1646年)より、日光東照宮の例祭に派遣される日光例幣使の制度が始まった。江戸時代には、単に例幣使と言えば日光例幣使を指すことの方が多かった。
②日光例幣使にとって、当時日光へ出向くことは大変な「田舎道中」であり、一刻も早く行って奉幣を済ませて帰りたいという心理があり、また道中で江戸を経由することとなると幕府への挨拶など面倒も多かったため、例幣使は、往路には東海道・江戸を経由せず、中山道~倉賀野宿~例幣使街道という内陸経由で日光に向かった。
③日光例幣使街道(にっこうれいへいしかいどう)は、徳川家康の没後、東照宮に幣帛を奉献するための勅使(日光例幣使)が通った道である。中山道の倉賀野宿を起点として、楡木(にれぎ)宿にて壬生通り(日光西街道)と合流して日光坊中へと至る。

◆若き日の苦い思い出

私の高校二年生の時の恩師担任が、当時、若手の芭蕉研究者と言われた先生で、後に、某有名私立大学の教授になりました。

修学旅行で東北に行った時のこと、平泉の中尊寺で、お坊さんたちが、先生を取り囲むようにして、芭蕉について、色々質問していたことを思い出しました。当時、生意気にも「凄い先生なんだ!」と思ったことがありました。

今さらながらもう少し芭蕉のことを聞いておけば良かったなあ、と我が身の不勉強を少し悔いています。

少し強引だったかも知れませんが、“傳”芭蕉宿泊の寺「東陽寺」と松尾芭蕉・河合曾良について、思っていること、考えていることを書いてみました。


おわり



【参考書籍】

  • 新版 おくのほそ道 現代語訳/曾良随行日記付き (角川ソフィア文庫)




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