◆旅立ち
俳人松尾芭蕉は、崇拝する西行の500回忌に当たる元禄2年(1689)3月20日、江戸深川を舟で出発、千住に上がり、旅支度を整え、27日の朝、
行く春や鳥啼魚の目は泪
と詠み、門弟河合曾良を伴い陸奥への歌枕の旅に出ました。
芭蕉齢46歳。そして、今年(2022年)は、芭蕉の陸奥の国への旅立ちから333年にあたる年となります。
陸奥の国や北陸は、大和や近江と同じく歌枕が多いとされ、芭蕉にとっては、未知なる国への憧れがあったのではないか、と言われています。
なお、この旅立ちの旧暦3月27日(新暦では5月16日)を記念して、日本旅ペンクラブにより、新暦の5月16日は「旅の日」として制定されています(昭和68年(1988)制定)。
そして、『おくのほそ道』の「草加」の項に、
其日漸(やうやう)早加(草加)といふ宿(しゆく)にたどり着けにけり
(新訂『おくのほそ道』付現代語訳曾良随行日記 頴原退蔵・尾形仂=訳注、昭和42年9月20日、角川文庫)
という記述があることから、芭蕉と曾良はその晩は「草加に泊まった」という説が有力とされてきました。
しかし、同行した曾良の随行日記には、
巳三月廿日 日出、深川出船。
巳ノ下尅 千住ニ揚ル。
一 廿七日夜、カスカベニ泊ル。 江戸ヨリ九里余。
(前掲書)
その東陽寺にある「曾良の随行日記の碑」には、前掲の『おくのほそみち』の一部分が刻まれています。
東陽寺にある曾良の随行日記の碑
以来、「カスカベ」(碑文はカスカヘ)に泊まった、とする説が定着しています。
「東陽寺」の隣の店舗に描かれているシャツターアート。
「ものいへば 唇さむし 秋の風」(?)と書いてあります。
◆カスカべ着
ともあれ、3月27日は、千住宿から、草加宿、越ヶ谷宿と6里18丁(町)歩き、その日の夕刻、最初の宿、粕壁宿に到着しました。
粕壁宿は千住宿より6里18丁の距離にあり、草加宿からは越ケ谷宿を経て4里10丁。千住宿から草加宿まで2里8丁、草加宿から越ケ谷宿まで1里18丁、越ケ谷宿から粕壁宿までは2里18丁。なお、「江戸ヨリ九里余」とは日本橋からの距離です。
※1里=36丁(町)、約4km(3.93km)、丁(町)=約109m。
当時の旅人は、一日に、だいたい8〜10里(約32キロメートルから約40キロメートル)歩いたそうですので、草加に泊まったとするには、少し距離が短いかな、と思います。
なにしろ、翌日(28日)も9里歩いてマゝダ(間々田)まで行っていますから。
なお、「カスカベ」 に泊まったことは、ほぼ間違いないとして、残念ながら「カスカベ」のどこに泊まったか、まではわかりません。最も有力な説はこの東陽寺です。
◆単なる通過点
芭蕉にとって、この旅の目的地は、あくまで陸奥の国であり、草加やカスカベは、単なる通過点にすぎせん。どこに泊まったかは、あまり重要ではなかったと思います。
郷土史家の須賀芳郎氏は、著書『春日部の寺院』(1996年)「東陽寺」の項で(少し長文ですが)、
一番目の宿場に泊り、旅の手続きを【道中手形・出国手続き等】を済ませ、愈々千住を出発、奥羽長途の旅に立つ、「草加」の項に『其日漸く草加と云う宿にたどりつけり。』とある。これは、草加宿に宿泊したのではなく、当時は千住から草加宿まで、途中に宿場はなく休息処もなく、日光街道の中で一番長丁埸の区間であったところから、芭蕉は疲れて待ち遠しく思っていたところ、漸く草加宿に着いたことを記したものと考えられる。芭蕉に随行した弟子の曾良の日記によると、この日は、『カスカベ』に泊るとある。それでは曾良は何故か「カタカナ」で『カスカベ』と記したのであろうか、筆者【須賀】は、次のように推測する。粕壁宿は昔から俳句の盛んな土地柄で、多くの俳人が出入りしているところで、当時有名な芭蕉が行脚の道すがら、粕壁宿に立ち寄ったので、宿内の有力者が出迎えて、もてなしをしたときに、曾良がこの土地の地名の文字を尋ねた際、ある人は「春日部」・「糟ケ邊」・「糟壁」と云、またある人は、この度の元禄の御触れで「粕壁宿」となったと答え、三者三様の答えがあり、曾良は、日記に『カスカベ』と片仮名で記したものと思われる。
それでは『カスカベ』の何処に宿泊したのであろうか?推測の中では現在の一宮町にある『禅寺の東陽寺』ではないかと考えられる。何故なら代々の寺の住職の口伝もあり、さらに筆者は、芭蕉の経歴から見て、主君の死後、京都の五大山の一つ『建仁寺』に入門し、禅・托鉢の修行をし、また俳諧の所属が壇林とあり、壇林とは禅寺に多く、談林とはおのずと異なるものと思われるからで、芭蕉は、いわば禅宗の僧籍を持った人と考えられる。『おくのほそ道』紀行では、それ程多額な費用は持っていないのではないか?【おくのほそ道の記述の中に『痩骨の肩にかかれる物先ず苦しむ。只身すがらにと出立ち侍るを、紙子一衣は夜の防ぎ、ゆかた・雤具・墨筆のたぐひあるはさりがたき餞などしるしたるは、さすが打ち捨てがたくて路地の煩いとなれるこそわりなけれ。とあり。】深川の庵を処分したり、多少の餞別程度でこの長い旅路の費用は大変な負担になるので、最小限度の費用で旅をしたのではないかと想像されるから、【記述の中で、旅用としての最低限の着物・雤具・筆墨を持ち、しかし多くの人から贈られた餞別は重いなれど道中では、打ち捨て難く荷物になるがやむをえない。と記されているがさほどの金額ではないと推定する】旅篭は利用されず、旅先の禅寺や宿場の有力者の家に宿泊したのではないかと思う。
曾良の日記からもそのことが推定される。
(引用:ふるさと春日部『春日部の寺院』須賀芳郎/著 1996年)
と記述されていますが、違和感を感じる点が少しありますので、後編ではこれらについて私見を書いてみたいと思います。
続く…
【参考書籍】
新版 おくのほそ道 現代語訳/曾良随行日記付き (角川ソフィア文庫)/作者: 松尾芭蕉 出版社/メーカー: KADOKAWA / 角川学芸出版 発売日: 2014/03/06 メディア: Kindle版
((備考:本記事は当初2019年2月4日にエントリーした記事ですが、今回リライトして前後編に分け、2021年6月26日に再エントリーしました。))