…前回からの続き
鳥居の先には?
最勝院の境内には立派な鳥居があります。
寺院の境内に鳥居があるのは不思議に感じるかもしれませんが、あの豊川稲荷も曹洞宗の「円福山妙厳寺」というお寺なので、寺院の境内に鳥居や稲荷社があっても別に不思議ではありません。春日部の他の寺院、例えば小渕の浄春院というお寺もそうです。
また、鳥居があるということは、『新編武蔵風土記稿』(前回掲)に記述されているように「稲荷社」があったのでしょうか?
その鳥居をくぐると、
その先には、立派な石柱が立っています。
春日部重行公ここに眠る
その石柱には、従四位市祖春日部重行公之墳墓と記されてなっていました。市祖なんですね。そして従四位と。春日部重行公はここに静かに眠っていらっしゃるようです。
また、昭和初期には、建武ニ年(1336)の板碑【青石塔婆】がこの墳丘の上にあったそうです。それはそれでとても気になりますね。それについては、別稿で。
墳丘の前には、
立派な石碑ですが、光っていてよく見えません。でも、何とか判読しました。
春日部重行公御霊古墳の記
南朝の忠臣贈従四位春日部重行公は逆臣北條高時の専横極まるところ 恐れ多くも後醍醐帝は隠岐に遷され給い王業の光正に淡きを嘆ずる時 護良親王の念旨を奉じ勤王の義兵を春日部に挙げ 建武元年(一三三四年)新田義貞と共に鴟張(しちょう)の賊北條氏を鎌倉に滅ぼし建武の中興の大業を成す。
更に足利尊氏の反旗を翻して九州より東上するや血潮渾さかんに燃えこれを京に迎え撃つ然れども南風遂に競わずして戦時に利あらず延元元年(一三三六年)六月三十日鷺の森において恨み深き自刃を遂ぐ。
その長子家縄遺骨を携えて帰郷し 最勝院に墳を築き此処に葬る。
大正七年(一九一八年)其の功を嘉し 特旨を以て従四位を贈らる。
※贈位(ぞうい)とは、
生前に功績を挙げた者に対して、没後に位階を贈る制度。追贈、追賜ともいう。官職を贈る場合は贈官(ぞうかん)という(例:贈太政大臣)。
天武天皇2年(673年)2月、壬辰の乱の功臣であった坂本財が薨じ大臣級の冠位であったことから小紫位を贈られたのにはじまる。贈位の場合、通常の位階の上に「贈」の字を加える(例:贈正四位)。
明治以降の贈位
明治時代以降も引き続き死者の功績を称える目的で贈位が行われた。幕末の尊皇攘夷や明治維新で功績を挙げながら亡くなった者、または南北朝時代の南朝方の公卿や武将、勤皇家とされる戦国武将、統治で功績を挙げた大名等が主であった。(参照・引用:Wkipedia)
そういえば、あの幕末の志士坂本龍馬も明治24年(1901)になってようやく正四位が贈られています。
春日部重行公は大正になってから従四位が贈されました。なお、春日部重行公の贈位の経緯については、後編で。
後編に続く…