かすかべみてある記

日光道中第4の宿場町・粕壁宿を忠心にクレヨンしんちゃんのまちかすかべをみてある記ます。

日光道中粕壁宿・最勝院にある墳墓(後編)

2022-10-22 19:30:00 | 地域発信情報

公開日:2019/03/30・更新日:2022/10/22

…前編からの続き 

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真言宗智山派華林山最勝院
最勝院の伝記

第十二代の住職で、中興開山の俊弘は、京都の本山智積院号の一老であったが、江戸幕府が二老の運敞僧正を本山の住職に任命したのでに、これは、古法に違背する旨を唱え、普山道日智山の門を閉じたので、幕府に反対するものとみなされて、流罪を申し付けられたが、俊弘僧正の行徳高きを以て罪を赦され、僧正の出生地【大場村】の近く最勝院の住職として帰院され、末寺の一属の教化に心を尽くされ寺の隆昌にあたられた。特に僧正は火防の法に通じ、いかなる火災も僧正の臨場によって消滅したと伝えられいる。僧正は、示寂に際し、「われ不動明王となり火難を救わん」と、遺言したとも伝えられている。現在は、最勝院内に俊弘堂が建立されていて、毎月十二日に護摩供養が旭町々内会で行なわれている。

また、第三十六代鷲尾諦仁僧正は、明治三十六年、京都醍醐三寶院から、住職として、この寺に赴任されて、明治三十二年五月、放火により焼失した寺の復興に尽力されながら、「春日部重行公」の事跡を調査研究して、『春日部重行公事蹟』・『春日部重行公勲功記』・『春日部重行事蹟考』を作成して、顕彰運動を推進し、大正五年、忠臣孝子節婦の調査で、重行公の事蹟を宮内省に具申した。大正七年、この具申により春日部重行公は従四位の位を受けた。また、僧正は、漢字・語学に優れ、粕壁中学校【現春日部高等学校】の生徒を指導されていた。【註:鷲尾家は伯爵の公家であった】 

 

引用:『春日部の寺院』須賀芳郎著、1996年

※大場村とは、春日部市武里にある字名です。

この伝記に、春日部重行公が大正になってから贈位された経緯が書かれています。数百年の時を経てようやく重行公の事績が認められました。ということは、それまで、南朝方の公家や武将は、冷遇されてその事績が公には認められてこなかったということでしょうか? わかりませんが。

注:忠臣考子節婦

  1. 忠臣:忠義を尽くす家臣
  2. 考子:親孝行の子 
  3. 節婦:貞節を守る婦女

なお、この基準は最近まで、褒章(緑綬褒章)の授与基準だったようです。

明治、大正期には、時代的に、人の模範となるべき立派な人が求められていたのでしようね。少し窮屈ですが。

俊弘堂

そしてこれがその「俊弘堂」です。

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俊弘堂

その傍らには

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俊弘僧正を敬う石碑

火防俊弘尊弐百六十年祭記念 奉納参道敷石廿四枚 粕壁崇敬者一同 粕壁露商組合

建立年月日は、刻まれていませんが、この碑は、戦前に建てられたもののようです。なお、裏面に奉納者名や建立年月日があるようですが? 判読できませんでした。

俊弘僧正は、延宝七年(1679)に示寂されました。今から340年も前ですが、この碑にあるように後代の人々が僧正に対し、いわば火防の神(?)としてあえてを付けて崇めていたことが伺えます。

実際、明治三十二年の放火による火災の前にも、文化九年三月に火災があり、本堂・庫裡位牌堂が類焼し、門前の仁王門が焼失したとの記録があるとのことです(『粕壁宿名主公用日記』)。幸いにもいずれの火災においてもご本尊は焼失を免れたそうです。

また、鷲尾僧正が京都のご出身ということなんでしょうか、以前、現在のご住職のご好意で、所蔵の「洛中洛外絵図(地図)」(何時の時代のものかはわかりませんが)を拝見する機会がありました。また、本堂内には代々の徳川将軍の位牌も安置されていました。


最勝院のことはもう少し続けたいと思います。よかったらお付き合いください。



追記:本記事は、当初2019年3月28日にエントリーしたものですが、2021年5月20日に前後編にリライトし、2022/10/22に再エントリーしました。



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