◆石塔・石碑
痘神
一番手前左側の石塔には、よく見ると「痘神」(とうがみ、もがさがみ?・読み方はわかりませんが)と刻まれています。「痘神」の「痘」(とう、もがさ)とは、かつて世界で最も流行し、恐れられた疫病の一つ「天然痘(てんねんとう)」のことです。
また、痘神は疱瘡神(ほうそうがみ)とも言われ、疫病神の一種で、疱瘡(天然痘)をもたらすと信じられていました。そして、当時の人々は、病気の原因とされる疫病神を痘神(疱瘡神)として祀ることで、感染者の病状が平癒するようにお祈りしたと言われています。
現代の疫病・新型コロナウイルス感染症は、瞬く間に世界中に広がりパンデミックを引き起こしました。現在も日本のみならず、欧米諸国で大きな波となって猛威を奮っています。
交通が発達していない時代の伝染病は、村から村へと順々に伝わって行きました。 日本の場合も、疱瘡(天然痘)は恐れられ、人々は「疱瘡神」あるいは「瘡神(くさがみ)」がやって 来て、病気を起こすのだと考えたそうです。
そこで、江戸時代の人々は町や村の入口に「疱瘡神」を祀って、町や村の中に入ってこないようにお願いをしました。もちろん粕壁宿でも「八坂神社」や当「神明社」を祀り、疫病封じ、疫病退散を祈念したことは容易に想像できます。
◆青面金剛
その右は「青面金剛」。右側面には「文化十四丁丑年(1817)春三月吉祥日」と、
また、左側面には、「粕壁 山中」(これは当地の字名)と刻まれています。
◆猿田彦太神
その右は「猿田彦太神」。その側面には「文化十三年丙子(1816)十一月丙午朔十五日庚申建」と刻まれています。200年以上前の庚申信仰の名残りなのでしょう。
◆散留當ひこ乃碑
さらにその右奥の丈の高い石塔には、刻まれている文字は崩し字の為、よくわかりませんでしたが、いろいろググッてみると「散留當ひこ乃碑」と刻まれているようです。
建立は弘化
また、その右側面に「弘化三年丙午(1846)三月庚申立」とありますので、「庚申信仰」に因んだ石塔であることだけは確かです。
◆几号水準点
その左側面には「神明道長廿四丈三尺廣八尺不」と刻まれています。最後の文字は「不」(あらず)と読めますが、これは漢字の「不」ではなく「几号(きごう)」というものだそうです。
なお、几号水準点とは、明治初期に高低測量を行うために設けられた基準になる測量点だそうです。初めて知りました。
この方のブログがとても参考になりました。
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なお、「几号水準点」が刻まれているということは、この石塔は、奥州街道(日光道中)沿いの神明社の参道入口付近に建っていたと推測されます。
また、この几号水準点は、明治初期に定められたとのことですが、石碑そのものには、弘化三年(1946)の建立と刻まれていますので、もしかしたら、この「不」の几号だけ、明治になって刻まれた可能性があります(これも推測です)。
◆歌碑?
歌碑?
◆力石・石塔(道標)
その奥には力石と小さな石塔が二基。
◆道標?
このように白い"にゃんこ“たちのお陰で思わぬ発見(大袈裟な)がありました。感謝!!
補足:その後、2頭の白い猫は、保護団体に保護されたそうで、現在はこの神明社にはいません。