1月20日、首都ワシントンの連邦議会議事堂で就任宣誓し、第47代米国大統領に就任したドナルド・トランプ氏。就任演説ではバイデン前大統領による政権運営を強く否定し、早速、「パリ協定」からの離脱や世界保健機関(WHO)からの脱退に関する大統領令に署名するなど、「米国第一主義」への回帰の色を鮮明にしています。
第二次世界大戦以来、世界中に同盟関係を張り巡らせ、自由主義国の盟主として民主主義や「法の支配」を広げることに投資してきた米合衆国。東西冷戦終結後は、その突出した経済力や軍事力で世界の平和と安定に貢献してきたという評価は、(大きく見れば)あながち過大なものではないでしょう。
しかし、米国国内の社会の疲弊や分断が広がるにつれ、かの国の持つ(移民国家・唯一の超大国としての)個性の一つであった(ある種の)おおらかさや寛容さなどは次第に失われていった。そして、今回の「アメリカ・ファースト」を標榜するトランプ大統領の再登場により、国際社会はいよいよ(行司のいない)「力によるサバイバル」の時代に突入していくことになるのかもしれません。
こうした状況に対し、読売新聞社が(トランプ大統領就任直前に)行った国内世論調査では、トランプ新米大統領が掲げる米国第一主義に「不安を感じる」とした人は72%に達し、「感じない」とする21%に大きく水を開けました。新大統領が主張する力による現状変更の試みは、米国が強く非難してきた覇権主義や権威主義国家の手法であり、これまでかの国と歩調を合わせてきた(我が国を含む)同盟国や友好国に不安の声が上がるのも当然といえば当然のことと言えるでしょう。
しかし、よくよく考えれば、一般に一国の指導者が「自国ファースト」、つまり自国の利益のために全身全霊を傾けるのは当然の話。そうした意味で言えば、第二次大戦後の世界で「自由主義」の看板を背負い続けてきた米国が、単純に「普通の国」に戻っただけのことなのかもしれません。
それでは、私たちは(こうして「普通の国」のように振舞うようになった)米国と、太平洋を挟み歴史的にも価値観を共有する隣国としてどのように共通の利益を目指していけばよいのか。1月24日の日本経済新聞の経済コラム「大機小機」に『トランプ氏にみる米国の「先祖返り」』と題する一文が掲載されているので、参考までに指摘の一部を残しておきたいと思います。
昨年話題になった配信ドラマ「地面師たち」に、「人類の歴史は早い話、土地の奪い合いの歴史です」という台詞があった。確かに世界を見渡せば、ロシアVSウクライナ、ハマスVSイスラエルなど、もとをただせば確かに土地の奪い合いだと筆者はコラムに綴っています。
そして、そこに輪をかけ物議をかもしているのが、最近のトランプ米大統領の発言の数々。「カナダ併合」「グリーンランド購入」「パナマ運河の奪還」など、領土拡大の意欲を隠そうともしていないということです。
しかし、(よく考えれば)米国が領土拡大に執着するのは今に始まったことではない。独立戦争後のパリ条約で英国からミシシッピ川以東の土地を獲得、フランスのナポレオンからルイジアナを購入してミシシッピ川以西の広大な土地を手に入れた。その後も次々と現在の合衆国を形づくっていったと筆者は指摘しています。
領土拡大の手法は、(1)交渉(英国との交渉でオレゴン分割)(2)戦争(米墨戦争でカリフォルニアなど、米西戦争でプエルトリコ・グアムなどを獲得)(3)購入(ロシアからアラスカを購入)…などなど。早い話、米国はこれまで軍事力で奪い取ったり金で買ったりして領土を広げてきたということです。
そして、関税による保護主義もまた米国の伝統だと筆者は続けます。古くは南北戦争も、工業発展して保護貿易に走った北部と、綿花輸出で自由貿易を求める南部の争いだった。その後、米国の高関税が世界恐慌を深刻化させ、第2次大戦後の国際的な通貨枠組みのブレトンウッズ体制、世界貿易機関(WTO)の前身である関税貿易一般協定(GATT)の成立でようやく転換点を迎えたというのが筆者の認識です。
実際、我々が抱いている「自由の国=アメリカ」のイメージは、ざっくり言ってケネディ大統領以降に作られたもの。換言すれば米国が寛容だった時期は(決して)長くないと筆者は話しています。
トランプ氏は、その過激な言動からいかにも「破天荒」な「異端児」とのレッテルを貼られがちだが、むしろ米国本来の姿に「先祖返り」しただけのこと。そうだとすれば、トランプ支持者を指す「保守派」のラベルも、「保守本流」という、より深い文脈で理解す必要があるということです。
さて、ペリーによる黒船来航以降、太平洋戦争、GHQを介した占領政策、戦後の高度成長期からバブルの引き金を引いたプラザ合意、そして近年のデジタル社会化に至るまで、日本の社会や経済、文化に大きな(大きすぎる?)影響を与え続けてきた米国との関係をどのように組み直すのか。
気が付けば、私たち日本人が一方的に抱いてきた「庇護者」としての(面倒見のいい)米国は、もはやどこにも見当たりません。むしろ、「どっぷり・べったり」というこれまでの関係自体が、国際的に見ればかなり異様なものだったと言えるでしょう。
(いずれにしても)ここ数日で次々と繰り出されるトランプ氏の政策は、思い付きのSNSでの発信ではなく、米国のDNAに根差した腰の据わったものだと筆者はこの論考の最後に記しています。だからこそ、我々はそうした米国の本質に向き合いながら、今後4年間を過ごしていく覚悟が求められると話す筆者の指摘を、私も重く受け止めたところです。