「七つの大罪」(英: seven deadly sins)は、キリスト教の主にカトリック教会における用語で、(簡単言ってしまえば)人間を罪に導く可能性があると見なされる7つの欲望や感情を指す言葉とのこと。現在広く知られているそれは、①傲慢、②強欲、③嫉妬 、④憤怒、⑤色欲、⑥暴食、⑦怠惰…の七つで、時代の変遷とともに少しずつ修正が加えられてきたとされています。
そうした中、2008年3月、ローマ教皇庁は、今までの7つの大罪はやや個人主義的な側面があったとして、今後憂慮すべき新しい七つの大罪を発表しています。それは、①遺伝子改造、②人体実験、③環境汚染、④社会的不公正、⑤人を貧乏にさせる事、⑥鼻持ちならない程金持ちになる事、⑦麻薬中毒の七つで、科学や資本主義の傲慢さ、そしてそれに伴う人心の荒廃に対する宗教上の危機感が浮かぶものとなっています。
「七つの大罪」と言えば、インドを独立に導いた指導者マハトマ・ガンジーもまた、1925年10月22日に雑誌『ヤング・インディア(英語版)』において「七つの社会的罪」(Seven Social Sins)として次の問題を挙げています。
それは、①理念なき政治(Politics without Principle)、②労働なき富(Wealth without Work)、③良心なき快楽(Pleasure without Conscience)、④人格なき学識(Knowledge without Character)、⑤道徳なき商業(Commerce without Morality)、⑥人間性なき科学(Science without Humanity)、⑦献身なき信仰(Worship without Sacrifice)の七つで、いずれも人の理性や良心の大切さを問うもの。「理に適わずに利を得る者は大罪人」というガンディー指摘は、きわめて功利的な価値観の下で暮らす我々にとって(今も)耳の痛い言葉として響いてきます。
極端な新自由主義の跋扈と民主主義の崩壊が懸念される現代社会において、私たちはこのガンジーの言う「大罪」にどのように向き合えばよいのか。2月6日の日本経済新聞(夕刊)に、丸紅会長の國分文也氏が「ガンジーの示すもの」と題するエッセイを残しているので、参考までに小欄でも取り上げておきたいと思います。
「理念なき政治」に始まり、「献身なき信仰」で結ばれるインドの哲人、マハトマ・ガンジーが唱えた「7つの社会的罪」。1925年に発表され100年の歳月を経た今も、人類への戒めとしてまったく古びることがない。むしろより強い警告として21世紀に生きる我々に突きつけられているように感じると國分氏はこの一文に綴っています。
世界で貧富の格差は毎年、確実に拡大している。特に、手段を選ばず個人の資産を膨張させる一部の人たちには強い違和感を覚えると氏は言います。
リスクをとって起業した創業者や、苦労して会社を成長させた経営者は報われるべきだが、「強欲資本主義」は趣を異にする。新自由主義の流れが加速する中での行き過ぎた株主資本主義が、ステークホルダー資本主義へと流れを変えたのは当然のなりゆきだというのが氏の見解です。
「7つの社会的罪」の「労働なき富」「道徳なき商業」は、まさにこうした強欲さへの戒めとなる言葉。一方で、今年は主要国で国の方向を決める選挙が実施され、政権与党側の敗北が相次いだと氏は続けます。
国民の審判による政権交代は民主主義の根幹だが、ポピュリズムによって「理念なき政治」に陥ることの危険性も改めて考えさせられる時代がやってきた。他方、人工知能(AI)の週単位といっていいほどの劇的な進化は人々の想像力をも超えており、「人間性なき科学」のリスクをますます実感する毎日だということです。
さて、この日本では、新一万円札の発行により「近代日本経済の父」と称される渋沢栄一が新札の顔としてクローズアップされる機会が増えましたが、彼が著書「論語と算盤」で訴えた「道徳経済合一説」などはまさに、(こうした)個人利益を絶対視する風潮に釘を刺したものと考えられます。
経済発展に伴う利益を独占するのではなく、国全体を豊かにする為に富は社会に還元すべきもの。「金銭資産は、仕事の滓である。滓をできるだけ多く貯えようとするものはいたずらに現世に糞土の牆を築いているだけである」と綴られた、波乱の時代を生きた資本家としての彼の言葉に嘘偽りはなかったことでしょう。
1840年生まれの渋沢栄一は1916年8月、アジア人として初めてノーベル賞を受賞した(20歳以上年下の)インドの詩人ラビンドラナート・タゴール(Rabindranath Tagore, 1861-1941)を(わざわざ)飛鳥山の私邸に招き、彼のための午餐会を開いたことで知られています。
一方、タゴールはマハトマ・ガンジーとの親交が深く、精神的な支柱として彼らのインド独立運動を支え、ガンジーに「マハトマ=偉大なる魂」の尊称を贈ったのもタゴールだとされています。
いずれにしても、人が本来備えているべき理性や知性を失いつつある時代への危機感が、同じ時代を生きる識者の間に共有されていたと考えることに無理はありません。そして、利益を紡ぎだしているのは仕事に汗する人々であり、(資本主義の利益は)最終的には社会全体で受益すべきものだというのがその考えの本質と言ってよいでしょう。
ガンジーは、「働かない者にどうしてパンを食べる権利があるか」と、綿花から糸を紡ぐ糸車を生涯手放さなかったと、國分氏はこの論考の最後に記しています。ガンジーは、「良心なき快楽」や「人格なき学識」にも触れている。「7つの社会的罪」は今こそかみしめるべきより重い言葉になっているとこの一文を結ぶ國分氏の指摘を、私も時代を超えて重く受け止めたところです。