MEMORANDUM 今日の視点(伊皿子坂社会経済研究所)

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♯1782 「誰もが被害者の時代」 ネット世界とポピュリズムの親和性

2021年01月03日 | 社会・経済


 ポピュリズムの嵐が世界的に吹き荒れる中、大衆が不満と感じるものを目ざとく見つけ、それによって守られている者を全て既得権益者として容赦なく糾弾、攻撃する排他的な政治手法が広がっています。

 議論により共通の利害を探り合意に導くよりも、多様性を排除し、人々をより細かく(敵と味方に)分断することで違いを際立たせ、「奴らによって虐げられている我々は被害者だ」と主張するこの手法。

 様々なポピュリズム政党が乱立するようになったヨーロッパ諸国やトランプ政権により分断が進んだとされる米国ばかりでなく、ここ日本でも極端な主張により特定分野における国民の不満を煽り、ネット社会、特にSNSによる繋がりによって勢力を拡大していく動きが進んでいるとされています。

 12月3日の東洋経済ONLINEでは、評論家の真鍋厚氏が「社会の「分断と対立」がここまで加速している訳」と題する論考を寄せ、昨今におけるこうした(政治的な)動きを分析しています。

 世界中で右左を問わず先鋭化するポピュリズム、コロナ禍でますます過熱するようになったネット炎上。「れいわ新選組」と「NHKから国民を守る党」に代表される新興政党の躍進は、同時に〝アンチ〟と呼ばれる人々の出現を招き、「ファシズムの兆候」「危険な極左政党」、「民主主義の破壊」「カルト集団」などと執拗に叩かれたと、生部氏はこの論考に綴っています。

 確かに、現在ほど被害者意識を持ちやすい時代はない。経済格差はどんどん進み、物事はすべて個人に還元され、情報は奔流となって押し寄せてくると氏は言います。

 ちょっとネットの大海に漕ぎ出してみれば、私たち一人一人が「男性」「女性」「若者」「主婦」「外国人」「LGBTQ」など、乱雑なカテゴリー分けによって区別される。自分が属する性別や年齢層、社会的地位、人種的ルーツ、性的指向などが、常時誤解や偏見や特殊な事例に基づいて攻撃の対象にされ、加害者よりも被害者としてのアイデンティティを意識させられる機会が増えているということです。

 これは、いわば「地位をめぐる闘争」と言える。こうした環境下では、自己の正当性を声高に主張しようとするならば、まず自分がいかに不当な境遇に置かれ、差別され、人権を侵害されているかを訴え、その負債の弁償を社会全体に、他者という他者に突き付けることが手っ取り早いというのが氏の認識です。

 しかも、ネット社会の進展は、その影響の範囲とスピードを飛躍的に拡大している。(以前話題になった「保育園落ちた、ニッポン死ね。」ではありませんが)発信された一言によって「負の共感」が沸き立つように形成され、画面の向こう側にいる誰かとつながりやすくなるということです。

 そして、こうした状況が国内外を問わず政治運動をはじめとするあらゆる領域に浸透してきていると、真鍋氏はこの論考で指摘しています。

 例えば、N国党は、NHKに象徴される既得権益層の強権・強欲に対する憤りが共有され、「持たざる者」同士がネット上でスクラムを組む中心的な役割を果たすと同時に、党首の立花孝志氏と支持者・視聴者がともにNHKやマスコミに立ち向かう「参加型ドキュメンタリー」の様相を呈している。

 N国党を軸に「NHKをぶっ壊す」コミュニティが構築され、この戦線で既存勢力の代表であるNHKと闘うことがアイデンティティを活性化する拠り所となり、自分らしく振る舞うことができる居場所となっているということです。

 米国のコンピューター科学者ジャロン・ラニアーは、ソーシャルメディアのビジネスモデルについて、「人々が苛立ち、妄想に取り憑かれ、分断され、怒っているときにより多くの金を生む」システムであると看破している。「エンゲージメント」(結びつき)という言葉は、まさにその核心を指すものだと、真鍋氏はこの論考に記しています。

 ある投稿や記事に対する「いいね!」「シェア」が増大することは、ネットビジネス業界では「エンゲージメントが高まる」という言い方で表現されるが、そこでは、(いわゆるバズる」ことも「炎上すること」も、ある意味等価な現象となってしまう。

 他の何にも増して注目されることを至上命令とする経済原理のことをアテンション・エコノミー(関心経済)と言うが、短時間で多くの関心を集めることで広告主とプラットフォーマー(とインフルエンサー)が潤えば良いとする、反社会的な側面を持っていることに警戒が必要だというのが氏の見解です。

 さて、このような分断されたネット世界に(否応もなく)投げ込まれている私たちは、多かれ少なかれその影響から避けられない身の上であることを重々承知した上で、ネット空間とデジタルデバイスの心理的な引力から上手く距離を取るという「バランス感覚」が必要だと、真鍋氏はこの論考をまとめています。

 私たちの誰もが何者かの被害者で、自分たちを虐げている者たちを糾弾する「権利」を持っていると叫ぶことで「いいね!」を集めるネット世界は、例えそれが意図されたものでなくても、様々な誘惑(や場合によっては悪意)に満ちているということでしょうか。

 そうした視点に立ち、わたしたちがネットを生息地の一部にしている以上、難易度の高い「綱渡り」が常に求められていることを忘れてはいけないとこの論考を結ぶ真鍋氏の指摘を、私も興味深く受け止めたところです。



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