現在、厚生労働省では、「難病」として認定された特定疾患に罹患し療養を行っている患者に対する医療費助成の見直しを検討しており、今国会には関連法案も提出されています。
今回の見直しは、加療等に要する費用の患者負担を新たに設定しようとするものですが、特に患者の自己負担額の上限をどの水準に置くかが大きな争点となっていました。
厚生労働省では、当初、この額を最大で月当たり4万4400円と設定していましたが、一部患者団体などから「負担が重過ぎる」との反発があり国会が紛糾。これを受けて与党内からも要望が出ていた重症者への配慮などが盛り込まれ、重症者は最大で月2万円、重症以外の患者も最大で月3万円と、当初案の3分の2程度に引き下げられるという方向で調整が進んでいるということです。
さらに新制度では、助成対象となる特定疾患(いわゆる「難病」)が現在の56から6倍近い300程度に拡大される予定とされています。しかしその一方で、これまで医療費の自己負担がなかった重症患者にも一定の負担を求める内容となっており、法案自体は、増え続ける社会保障費に歯止めをかけ、より「広く薄い」制度に移行していく方向性にあるものと言えるでしょう。なお、この法案が可決成立すれば、2015年1月から実施する方向で作業が進められているということです。
さて、ここで言う「難病」とは読んで字のごとく、治療が難しい病気のことです。厚生労働省の「難病対策委員会」ではその条件として、①患者数が人口の0・1%程度以下で希少性が高いこと、②原因が不明であること、③治療法が未確立であること、④長期にわたる療養が必要 であること…を挙げています。
治療が進まない中、長期間にわたって病気に苦しむ患者さんや御家族の負担、そして先が見えない生活への不安を思うと、まさにこうした政策が社会保障政策に組み入れられることの必要性を感じさせられます。
しかし、こうした政策の評価には、そうした感情的なものとはまた少し違った視点も投げかけられています。例えば、先ほどの厚生労働省の「条件①~④」を満たさない病気であっても、長期にわたって療養が必要な病気に苦しむ人はたくさんいると思います。
治療が難しかったり高額な医療費がかかったりする病気は難病以外にも相当な種類があるでしょう。そうした中、そもそも「難病である」ということひとつをもって、なぜ医療費が助成され(患者が優遇され)るのか。そのほかの病気の人たちとの公平性は政策上どのように確保したらよいのかという点です。
また、「難病」は治療法が未確定であるため、言いかえればある意味多くの医療費を投下しても回復が難しい病気であると言えます。
治療法が確定していて、多少費用が掛かっても必要な治療を行えば直すことができる病気であれば、税金から医療費を投じてもその甲斐があるというものですが、治療自体が難しい病気の医療費を公的に際限なく負担することに納税者の理解が得られるのか。いわゆる「ムダ金」として医療機関に流れるだけではないかという視点です。
さらに言えば、高齢者などの将来的な生存期間のストックが少ない患者に対して、難病だという理由だけで高度・高額な医療が投入され続け、その負担が国民に行くことについての疑問も生じるかもしれません。
命に値段はないと言いながらも、同じ額の税金を投入するのであれば、その効果が将来の(納税者としての)活躍が期待できる日本の将来を担う若い世代に向かうよう、そこへの医療支援に厚くするべきではないかという論理です。
こうした主張の根底にあるのは「投資効果」という考え方です。現代の納税者は納税額の多寡にかかわらず、自らの立場を「投資家」として理解している側面があります。支払った税が有効活用されているか、投入したリソースを上回るだけのベネフィットが回収できているか。社会政策として一定水準以上の効果が挙げられているか。こうした視点からの政策評価が行政府に常に、そして強く求められていると言ってもいいでしょう。
しかし、弱者支援、福祉拡大などを目的とする政策を評価するに当たっては、公共事業や経済政策など、財政投入効果を期待する政策については有為となるこのような視点も時にはある程度「傍らに置いておく」ことが必要なのかもしれません。
発症率0.1%未満の病気に罹病し通常の生活を失うという事態は、よほど「運が悪かった」と言わざるを得ない …これが一般的な認識ではないでしょうか。こうした「誰の責任でもない」アクシデントやハンデキャップに対し、一昔前であれば、「仕方がない」の一言で済まされた(済まさざるを得なかった)状況も、現在では、自分の責任ではないのだから行政によって救われてしかるべき、救われて当然だと言う考え方が多くの納税者の共感を得る。そんな世の中に変貌しています。
例え治療法が確立していなかったとしても、患者は症状の改善を目指して治療やリハビリに励みます。いつまで続くのか、先行きのわからない治療行為と高額な医療費が患者の生活を圧迫することをまずは当然の事態として受け止めること。そして、この制度をそういった状況から患者やその家族の生活を守る「セイフティネット」として位置づけ、効果・効率とは異なる視点で対応を決断していくことが政治に求められたと考えることができるでしょう。
さらに言えば、誰もが同じ立場になる可能性があることを前提に、こうした事態を行政が「ケアしている」と言える環境づくりが生活の安心感につながり、社会を安定化させるという間接的な効果も無視できません。
難病だからかわいそう。」「苦しんでいるのだから助けてあげなくては。」そうした直観的なシンプルな発想は、実は政策決定に当たって最も大切なことの一つだと私は思っています。
しかし、個別具体的な制度設計に当たっては、様々なステークホルダーや政策により直接的な利益を受けない人にも納得感が得られるよう、公平性や他の諸制度の関係をクールに整理するとともに、十分な手続きを踏んで実現していくことが現実の社会では求められているということでしょうか。
こうした難病対策がどのような形で社会に受け入れられていくのか。さらにどのような形に変貌していくのか。社会や世論の方向性を示す指標のひとつとして、これからも注目していきたいと思っています。
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