MEMORANDUM 今日の視点(伊皿子坂社会経済研究所)

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♯1527 サラリーマンと出世至上主義

2020年01月10日 | 社会・経済


 前回(♯1526「『窓際族』がいた時代」)に引き続き」12月5日のYahoo newsに掲載されていたHCアセットマネジメント代表取締役社長の森本紀行氏による「出世しなくて何が悪い」と題する論考を追っていきます。

 森本氏はこの論考において、昭和の日本企業の年功主義を支えていたのは従業員の「出世至上主義」にあったのではないかと指摘しています。

 昭和のサラリーマン達は、なぜそれほどまでに「出世」を目指してきたのか。

 「窓際族」の存在が示すように、出世してもしなくても経済的処遇に大きな格差がないとすれば、出世へのモチベーションとしては、少なくとも経済的な誘因は少なかったはずだと氏は言います。

 そこからもたらされる推測は、当時「出世を目指すこと」と「働くこと」はほぼ同義だったということ。「なぜ出世を目指すのか」という問いは、「なぜ働くのか」という問いと同じように問う意味を欠いていたのではないかというのが氏の見解です。

 そもそも出世とは何かと言えば、企業組織の階層を一つ一つ登っていくこと。究極的には社長になることだったかもしれないが、目指されていたのは現在の社会で想定されるような役割としての「経営の専門家」などではなく、端的に出世街道の終点だったとしか言いようがないと氏はしています。

 出世の目的は出世だというのも不条理ですが、趣味に目的はなく、スポーツ等における記録の更新は記録の更新自体が目的であるように、人間の存在に不条理はつきものだというのが氏の指摘するところです。

 こうして、日々の労働に経済的報酬以外の目的として出世を求め、自己目的化した出世に意味を求めた結果として(例えばゴルフのスコアが上がると嬉しいように)職位が上がることに人々は大きな喜びを見出した。

 企業内での自分の地位を確認することに満足し、肩書が立派になることに自己の成長を実感し、そこに働きがいを得たということです。

 そうした視点に立てば、現在では、窓際族の死語化は小さな例にすぎないといえるほどに企業経営のあり方は大変貌を遂げていると氏は指摘しています。

 しかし、肝心要の経営者の選抜のあり方については、「出世競争の最終勝利者」という位置づけにさほど変化はないように見えるというのが氏の認識です。

 企業経営の中核である経営者選抜の方法が変わっていないのならば、企業経営全体としていかに表層の変化が大きくても深層に変化はなく、一皮むけば昭和の風景が残されている。「出世至上主義」は今でも名残以上の力をもっていて、窓際族的な非効率は形を変えて温存されている可能性が高いということです。

 しかし、こうした「出世至上主義」が、企業の内部だけで通用する固有の価値観を醸成する(してしまう)ことは不可避だと氏は考えています。

 昭和の時代には、そうした(企業固有の)価値観が企業の個性として差別優位の形成につながった面は否定できない。しかし、企業固有の価値観が支配的になりその価値観の中だけで経営者が選抜されれば、企業として劇的に変化する経営環境に対応していくことが難いのは明らだと氏はしています。

 また、企業の内部価値の優越は、顧客不在の経営につながりやすいことも自明で、極端な場合には社内の論理が法令等に優越する事態となって深刻な社会問題を引き起こしかねないということです。

 実際、現在の日本においてはこうした懸念は現実のものとなっている。そしてこれこそが、現在「働き方改革」が必要とされている所以だと氏はこの論考で説明しています。

 「働き方改革」は、各人が多様な価値観のもとで働くことに帰着するわけで、まさに出世至上主義を確定的に終焉させると森本氏は言います。

 そもそも、出世至上主義は、企業という組織が先にあってそこに個人を埋没させることによって機能するものなので、本質的に組織の自己変革力を欠いているというのが氏の認識です。

 故に、「働き方改革」は、その成果として組織優先の弊害を破壊し、個人が先にあって個人の集合が組織を作るという原点への回帰を目指すことになる。

 個人が中心となり、個人が組織を造り替えていく中で、ようやく組織は社会変動の原因であり同時に結果となって、常に社会構造に対して適合的なものに変化し続けていくことができると氏は説明しています。

 「出世」には明瞭な階層的秩序が必要で、その階層を工夫しながら一段一段上がっていくことのゲーム的喜びや地位の上昇に対する他人からの賞賛、そして他人からの評価で高まる自己意識がその本質にあるというのが森本氏の考えるところです。

 この「出世」の本質は「働き方改革」においても変わりようがないわけですが、「働き方改革」が(企業ではなく)広く社会の中での自分を確立させ、企業等の活動に参画することにより社会における自分の評価を高めていくことだとしたらどうでしょう。

 恐らくは、ここに昭和との決定的な違いがあると氏はこの論考で指摘しています。

 現在の高度情報化社会においては、狭い企業の中でしか可能でなかった情報の流通を世界規模で簡単に実現できる。

 「働き方改革」と「情報化」は不可分で、一企業の枠を超えた能力の評価や階層的秩序が新しい「出世」を作っていくと考えるこの論考における森本氏の(少し跳んだ)視点を、私も大変興味深く読んだところです。



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