ロシアによるウクライナへの侵攻開始から1カ月以上が過ぎ、占領地域において多数の民間人が一方的に虐殺されるという「戦争犯罪」の疑惑が、国際社会において次々と明るみに出ています。
ウクライナのイリーナ・ベネディクトワ検事総長は4月10日、英衛星放送スカイニューズのインタビューに応え、首都キーウを含むキーウ州でこれまでに1222人の遺体が発見されたと明かしています。ウクライナ当局は現在、ロシアによる戦争犯罪の疑いのある5600件についての捜査を開始しているとし、ウラジーミル・プーチン大統領を含む政治家や軍人、計500人を「容疑者」として調べるということです。
また、翌11日に韓国国会でオンライン演説を行ったゼレンスキー大統領は、「ロシア軍は(ウクライナ東部の要衝都市)マリウポリを完全に焦土化して破壊させ、数万人の市民の命を奪った」と話しました。ロシア軍によるものとされる一般市民への残虐行為の証拠が次々と明らかにされ、数々の映像や証言が世界の人々に衝撃を与える中、各国の人権団体やメディアを中心に、ロシアへの非難の声が高まっています。
もとよりロシア軍の兵士たちだって、家に帰れば恋人が待つ優しい青年だったり、家庭を大切にするお父さんだったりするはずです。戦闘行為が人の心を荒ませるのは仕方のないことだとしても、なぜ有史以来、こうした目を覆うばかりの光景や悲惨な人道被害が繰り返されてきているのか。4月11日の総合情報サイト「JBpress」にジャーナリストの青沼陽一郎氏が、「ロシア軍の残虐行為は戦闘で発生する必然」と題する論考を寄せているので、参考までにここで一部を紹介しておきたいと思います。
ウクライナの首都キーウの北西に位置するブチャでは、民間人の遺体が路上に散乱していた。後ろ手に縛られて、後頭部を打ち抜かれた死体もあったとされる。さらに長さ約14メートルにわたって掘られた集団墓地では、150〜300体の遺体が見つかったと青沼氏はこの論考に記しています。
ブチャからさらに北西にいったボロディアンカの市内でも民間人の遺体が見つかり、約200人が行方不明と報告されている。また、キーウ近郊のマカリフの町長は4月8日、ロシア軍が立ち去った町から射殺された民間人の遺体132体が見つかったと発表したと氏はしています。
こうした残虐行為を国際法違反の「戦争犯罪」として糾弾する声は、日増しに高まりつつある。ロシアはこれらの残虐行為を否定しているが、国連総会の緊急特別会合は、国連人権理事会における「ロシアの理事国資格を停止する決議」を賛成多数で採択したということです。
さて、そうした状況を前に(青沼氏の)脳裏に浮かぶのは、日中戦争から太平洋戦争にかけて、中国の戦線を渡り歩いた元日本兵の証言だと、氏はこの論考に綴っています。農作業中の農民を横目になにもない田畑を通り過ぎると、(彼らは)いきなり後ろから銃撃を受けることがあったという。農民に紛れ込んだ敵兵が、日本軍を見送ったあとに背後から攻撃を仕掛けてくる。不意を突かれて応戦する彼らには、既に誰が敵かもわからなくなっているということです。
そうなると、(自分たちの身を守るには)民間人の中に潜んだ敵兵を見つけ出さなければならなくなる。占領した街でも、一般市民の中に敵兵がいればいつこちらの命が奪われるとも知れない。必然的に民間人の取り調べは厳しいものになり、そこに自分の命の危険が絡めば、対応がエスカレートしていくこともあるだろうと氏は言います。
敵兵をあぶり出したとしても、敵側が民間人を楯にして攻撃を仕掛けてくることも考えられる。言ってしまえば、戦争こそが人を狂気におとしめる犯罪なのだというのがこの論考で氏の指摘するところです。命を奪い合うのが戦争であり、自分の命が奪われる前に相手の命を奪う。猜疑心と恐怖が強くなればなるほど残虐性は増し、最終的には命を守るため、つまり勝つためには手段を選ばなくなるということです。
いまウクライナがロシアに対して優位に戦えているのは、「ジャベリン」などの携行型の小型兵器が奏効しているからだ氏はしています。侵攻する相手に物陰や林の中などから密かに接近して撃ち込むことで、最新鋭のタンクなどにも多大なダメージを与えることができる。欧州諸国も同型の兵器の供給を強化しており、ベトナム戦争と同じようにゲリラ的な攻撃や奇襲で、既に1万人以上のロシア兵が戦場に散ったとされています。
一方、ロシア兵にしてみれば、(もちろん)不意を突かれるだけに恐怖も増したはず。仮にウクライナを制圧できたとしても、市民の中から抵抗を受ける可能性もあると氏は言います。となれば、例え残虐な行為と指摘されても、そこでは(身を守るために)「戦争犯罪」などという概念は吹き飛んでしまうかも知れない。警戒するのは身を守るために必要な措置であって、これがすなわち戦争であるとして罪の意識すら生まれないかもしれないというのが、この論考における氏の見解です。
そう考えれば、今回西側のジャーナリズムが指摘している全ての状況が事実であったとしても、それはそれでおかしくはないと氏は話しています。キーウ近郊の惨事も(もしかしたら)氷山の一角である可能性は高い。そして、こうした残虐行為は、戦争が長期化すればこれからも増え続けるだろうというのが氏の認識です。
疑いが疑いを生み、人を信じられなくなるのが戦場というもの。また、相手側を恐怖と疑心暗鬼に陥れ、狂気や混乱の中に勝機を見出すのも一つの戦術だということでしょうか。
「戦争とはそういうもの」と言ってしまえばそれまでのことかもしれません。しかし、それがいつしか当たり前のこととして世界の多くの人々が受け入れるようになり、他国の出来事と無関心になる時にこそ本当の戦争の恐ろしさがあるとこの論考を結ぶ青沼氏の指摘を、私もしっかりと受け止めたところです。
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