昨年春、フランスのマクロン政権による年金制度改革が国民の猛反発を招いたのは記憶に新しいところです。
改革の柱は、現在満62歳となっている年金受給の開始年齢を64歳に引き上げるというもの。これに対し、世論調査ではフランス国民の実に7割が強く反対の姿勢を示したということで、政府の方針に反発する市民による抗議デモが首都パリなど各地に広がりました。
フランス経済が競争力を取り戻すため、社会保障制度の抜本的な改革を進めたいマクロン大統領。しかし、社会保障制度の充実や労働者の権利獲得を「社会の進歩」であるという考え方が根強いフランスでは、こうした措置は社会の「後退」に映るのでしょう。
実際、現在のフランスでは、55〜64歳のシニア世代の就業率は56%(2021年)と、77%のスウェーデンや72%のドイツと比べても大きな差があるとされています。
加えてフランスでは、法令により労働者の労働時間が週35時間以内と定められており、仕事をできるだけ早く引退し優雅な年金生活を送ることこそ「労働者の権利」と捉えられることも分からないではありません。その辺りは、(60歳から65歳への)定年年齢の引き上げを「良いニュース」として喜々として受け入れる日本人とは、また違った感覚なのかもしれません。
「生産性の向上」の呼び声の下、デジタル技術の活用などによりあらゆる場面でコストや時間の削減が進む現代社会。今後さらにAIやロボット技術の活用が進めば、ほんの少しの労働時間を費やすだけで、これまで以上の価値を生み出すことのできる世の中がやってくると考える向きもあるでしょう。
あらゆる社会問題が科学技術によって解決され、労働はロボットたちが代替する。技術革新が、人間を仕事や作業からどんどん解放していくバラ色の世界を思い描くのは当たり前のこと。嗚呼それなのに、なぜこれほどまでにテクノロジーが進歩しても、生活は斯様に楽になっていないのか?
12月21日の経済情報サイト「現代ビジネス」に、大阪府立大学教授の酒井隆史氏が『なぜ世界中で「クソどうでもいい仕事」が増加しているのか』と題する論考を寄せていたので、参考までにその概要を小欄に残しておきたいと思います。
1930年、経済学者のケインズは、20世紀末までにイギリスやアメリカのような国々では、テクノロジーの進歩によって週15時間労働が達成されるだろうと予測した。テクノロジーの観点からすればこれは完全に達成可能だったが、実際にはその達成が実現することはなかったと酒井氏はこの論考に綴っています。
代わりに、テクノロジーはむしろ、私たちすべてをより一層働かせるための方法を考案するために活用された。実質的に無意味な数々の仕事が作りだされ、現在では膨大な数の人間が、本当は必要ない業務の遂行にその就業時間の全てを費やしていると氏は言います。
こうした状況によってもたらされる道徳的・精神的な被害は極めて深刻で、それは、わたしたちの魂を毀損する傷となっている。しかし、そのことについて語る人間は、事実上ひとりもいないというのが氏の認識です。
ケインズによって約束された「ユートピア」は、どうして実現しなかったのか?…よくある説明は、ケインズは消費主義の拡大を計算に入れていなかったというもの。労働時間を削るか、もっと消費に邁進するかの選択肢を与えられ、人は後者を選んできたというものです。
しかし、この説明はまちがっていると酒井氏は話しています。1920年代から、おびただしい数の新しい仕事と産業が次々と生まれてきた。しかし、そのうちで、そうした消費財の生産にあたるものはごくわずかだからだというのがその理由だということです。と、すれば、これらの新しい(そしてポイントレスな)仕事とは一体なんなのか?
アメリカに関する資料を参照するならば、前世紀を通じ、工業や農業部門では、家内使用人[奉公人](ドメスティック・サーバント)として雇われる働き手の数が劇的なまでに減少したと氏は話しています。
同時に、専門職、管理職、事務職、販売営業職、サービス業は3倍となり、雇用総数の4分の1から4分の3にまで増加した。一方、ケインズの予測どおり、生産にかかわる仕事はそのほとんどがすっかり自動化されたということです。
そこで起きているのは、「サービス」部門の拡大というよりは管理部門の膨張だと酒井氏は説明しています。
このことは、金融サービスやテレマーケティングといった新産業の創出、企業法務や学校管理・健康管理、人材管理、広報といった諸部門の前例なき拡張によって示されている。また、そこに技術支援やセキュリティ・サポートを提供する仕事などが加わり、さらには、そんな仕事をする人たちを支える産業(飼犬の洗濯業者、24時間営業のピザ屋の宅配人)なども追加されるということです。
これらは全て「ブルシット・ジョブ」と呼ばれるもの。まるで、何者かが私たちの全てを働かせ続けるために、この無意味な仕事を世の中にでっちあげているかのように見えると氏は話しています。ミステリーはまさにここにある。それは、そもそも資本主義社会では「こんなことありえない」と想定されているからだというのが氏の見解です。
たしかに、非効率的なかつての社会主義国家においては、雇用は「揺るぎない権利」とか「神聖なる義務」などとみなされたため、必要なだけの仕事がでっちあげられなければならなかった。勿論、資本主義社会では、そんな問題は市場競争が解決するはず。しかし、どういうわけか、そのような事態が起こっているというのが氏の指摘するところです。
「ブルシット・ジョブ」とは、最近よく聞く言い方で言えば「クソどうでもいい仕事」というもの。なければないで問題はないのだが、現代のライフスタイルを正当化するためには欠かすことのできない存在となっている。一方、そこで得られる賃金は、無意味な仕事を通して苦しむことに対する「報酬」として、価値があるということでしょうか。
生産やサービスに寄与しない無意味な仕事に追われる私たち現代人。気が付けば、どうでもいい「ブルシット・ジョブ」に追われながら仕事をしているつもりになっているだけだと考える氏の指摘を、私も興味深く受け止めたところです。
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