年明け早々の1月3日、国連安保理の常任理事国で核保有国のアメリカやロシア、中国など5か国が、核兵器に関する共同声明を発表し世界を驚かせました。声明では、5か国の軍事的な対立を避け外交的なアプローチを追求する姿勢が示されるとともに、核の拡散防止と軍縮に努めていくことを改めて強調しています。
中でも印象的なのは、その中にある「核戦争に勝者はおらず、決して戦ってはならない」という言葉です。声明は「核兵器の保有国どうしの戦争の回避と、戦略的なリスクの軽減が最も重要な責務だとみなしている」としたうえで、「われわれの核兵器は、他のいかなる国も標的としていない」としています。
今回の声明の発表に関し、国連のグテーレス事務総長はさっそく報道官を通じて声明を出し、「(国連による)長年にわたる対話と協力の要求に合致し、勇気づけられる」と歓迎する意思を表明したとされています。
とはいえ、(だからといって)これで人類の未来に核兵器のないバラ色の平和な未来が開けると考える人は決して多くないでしょう。核兵器は「抑止力」であり防衛目的だと言われても、(それがギャングであれ保安官であれ)銃を突き付けられたら丸腰の市民は両手を挙げて言うことを聞くしかありません。
思えば、今回の声明の「我々核保有国は、保有国同士が核兵器を打ち合い世界を破滅に導くことを避けるために(核兵器を)保有しているのであって、保有国以外に向けて使うつもりはない」「なので、現在核兵器を持っていない国が新たに作ったり使ったりすることには断固反対する」…という理屈は、論理的に破綻しているとしか考えられないのも事実です。
もちろん、「決して戦ってはいけない」のが核戦争だということは、少なくともこの5大国には(おそらく)十分わかっていることでしょう。(しかし)拳銃を突き付けあっている状態が何十年も続いているのに、それでも「もう、こんなのやめましょう」と自ら銃を下すことができないのは、そこに「信頼」がないからとしか言いようがありません。
それでは各国は、国家間、国民同士のこうした「不信感」をなくすために、今後どのような努力をしていくというのか。そこに、人と人とのきわめて人間的なつながりが必要なのは言うまでもありません。ただ単に、衝突の防止や核拡散防止を叫んでも、国民の不安を煽るような指導者の下では相互理解が上手く進むはずはないというものです。
それにしても不思議なのは、なぜ今、突然と言ってもいいようなタイミングで、こうした声明が発表されたのかということです。中国の台頭による米中対立やウクライナ問題、混乱するイスラム世界や北朝鮮による核兵器・ミサイル開発など、国際社会における核にまつわるリスクが(ここに来て)大きく高まっていることは事実です。
一方で、戦争が局地化し(電子化、無人化、サイバー攻撃など)その手法が大きく変わりつつあることで、(核兵器を際限なく打ち合うような)核戦争の効率の悪さが際立つようになっていることもあるでしょう。核兵器の使用は、大国にとってリスクが大きすぎ実用に耐えない。そのうえ管理が難しく、維持していくための政治的、社会的コストが極めて大きい。そうしたことを考えれば、声明を出した5か国の利害は(既に)一致しているということかもしれません。
そもそも、核兵器はどんな特徴を持っているものなのか。神戸女学院大学名誉教授で思想家の内田樹(うちだ・たつる)氏は、総合情報誌「GQ」に連載中の自らのコラム(「内田樹の凱風時事問答舘」2021.11.14)において、核兵器は(現在では既に)「貧者の兵器」に成り下がっていると説明しています。
デジタルなどの技術が進んだ結果、核開発は、インドでもパキスタンでも北朝鮮でも、科学技術先進国でなくても自作できる種類の技術となった。核兵器は、今や独裁的な指導者にとって(自滅覚悟であれば)それで大国から外交的譲歩を引き出すこともできる有力なアイテムに位置づけられているということです。
一方、こうした状況に伴い、現在では「核兵器の無効化」が大国にとっての喫緊の技術的課題となっているというのが氏の見解です。核兵器は、わずかなヒューマン・エラーでも人類全体に影響を及ぼすような巨大な災厄をもたらしかねない。1950〜60年代には「たぶん人類は核戦争で絶滅するだろう」という悲観的な予測がかなりリアルに語られていたと氏は言います。
幸い、最後に原爆が人間の上に投下されてから76年間、なんとか核戦争は回避されてきたが、それでもまだ安心できない。特に、政治システム、統治システムに多くのバグを抱える小さな国家までもが核を持つ時代になれば、核兵器を制御している電子システムをハッキングして使えなくする技術を開発するしか(核攻撃を回避する)方法はないということです。
さらに、今回のパンデミックは軍隊をも襲った。デジタル技術やAIの飛躍的な発展、そして何よりそこに広がる感染症のせいで、一番大きく在り方を変えるのは戦争だと内田氏はこの論考で指摘しています。
巨大な常備群を持ち、大型固定基地に大量の兵器・兵士を集積させたり、空母や戦艦に兵士をぎっしり積み込んで紛争地域に送ったりという戦争の仕方は、もはや冷戦時代の遺物と化すこととなった。国と国とが(シベリアの荒野などに)ミサイルや大砲、戦車などの近代兵器を並べて戦う全面戦争など、もはや誰も望まない時代になっているということでしょう。
さて、そう考えれば、今回の核保有5か国の共同声明が誰に向けて発信されたものかは言うまでもありません。世界を動かす国連常任理事国としては、その他の(北朝鮮やイラン、パキスタンなどの)核保有国に対しては一致して核兵器を使用する用意がある。(本当は核兵器なんて持っていたくないのだけれど)彼らの脅しに対抗するには核の力が必要で、抑止力として使うのだから、コストやリスクはみんなで分け合いましょうね…というところでしょうか。
内田氏も話しているように、1960~70年代に思春期から青春を過ごした私たちの世代の多くが、核戦争をかなり身近な危機として認識していたことは事実です。我々が想像していたその姿は、キューバ危機のような緊張関係の中で起こった(ちょっとした)トラブルなどを発端に超大国同士がICBMを尽きるまで互いに打ち合い、結果地球全体に「核の冬」が訪れるといったもの。
しかしいつしか時代は変わり、現代に生きる私たちが心配しなくてはならないのは、内外からのプレッシャーに破れかぶれになった独裁的な指導者がミサイルの発射ボタンを押してしまうことや、テロ組織のハッキングにより核爆弾が作動してしまうといった(まさに)アクシデントの発生と言えるのかもしれません。
いずれにしても、根本的な問題は全人類を何回も全滅させることができるほどの核兵器が、世界のあちこちに確実に蓄えられているという事実なのは(今更)指摘するまでもないでしょう。要らなくなったのなら、廃棄するのは当たり前のこと。私としては、やはりすべての核兵器が、この世からなくなることを願ってやまないところです。
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