オオカミになりたい(遺言)

ずっとそばにいるよ

古今名婦伝 「袈裟御前」

2018-05-15 | 豊国錦絵

袈裟御前(けさごぜん)は平安時代末期の女性

生没年未詳

文久2年(1862)出版  歌川豊国(国貞)絵

 

袈裟御前は本名を吾妻(あずま)と云う、母は衣川(ころもがわ)と呼ぶゆえ

袈裟とあだ名せり

花顔柳腰(かがんりゅうよう) 世に比(たぐい)少なき美人にて

渡邉左エ門亘(わたる)【源渡(みなもとのわたる)】の妻となる

従兄に遠藤盛遠(えんどうもりとお)という者あり

袈裟に横恋慕して口説いたが聴いてくれないので

ある時 伯母衣川に迫り刀を抜いて胸に当て

我が心に随わずば 目前の老婆を刺殺さんと云う

袈裟如何ともすること能(あた)わず婦道(みさお)を棄て

盛遠に身を汚せば暫くも世に存命がたく覚え 盛遠を欺いて云う

左エ門が世に在っては君も妾(わらわ)も姧淫の罪遁れ難い

今宵夫を賺(すか)して髪を洗わせしかじかの所に

獨(ひとり)臥せおかん 闇討ちにしたまえと語らい置きて

人目を偲び髪を浸して短く切り 亘(わたる)の真似をして臥居たり

盛遠果たして来たり 寝首を掻き外に走り出てよく見ると

恋人の袈裟ではないかと 驚き嘆きて吾が罪を悟り

引き返して亘に会って懺悔し 首差延べて断(きれ)よと言えど

亘も左右なく得も断ず故に 盛遠発心し僧となりて文覚(もんがく)と名乗り

亘も共に髻(もとどり)を拂(はら)い妻の後世を弔いたる

        (柳亭種彦記)


「顔あげよ清水も流す髪の長(たけ)」


 


古今名婦伝 「松島局」

2018-05-14 | 豊国錦絵

松島局(まつしまのつぼね)は鎌倉時代前期の女性

生没年未詳

文久2年(1862)出版  歌川豊国(国貞)絵

 

松島局の父は佐渡守・藤親㤗(とうのちかやす)なり

局(つぼね)は鎌倉御所の奥に宮仕えして容顔美麗なる名を高し

そればかりでなく性質(こころばせ)優に窈窕(やさし)く志操篤実なり

和田義盛より三男朝比奈義秀の妻にしたいとの申し入れにより

奉公のいとまを賜り、既に義秀が妻たるに定まっていたが

北条義時の二男朝時がかねてより松島に眷恋しており

今 和田氏へ婚姻することは安からざること堪え難きを

義時は不憫に思う余り 執権の威に任せ 尼将軍政子の方に内訴した

尼公も甥の胸を察し謀議を設け松島を召篭め置きて

和田へ渡さず 密かに朝時に与えんとしていたが

松島心に思うのは 他に嫁げば義秀に不貞なり

尼公の命に背けば不忠なり 忠貞兼ねることを充てはずし

ただ命を棄てて婦道を守らんと夜中 刃に伏て没す。

行年十八歳と聞えたり

義婦に逼って生命を奪うのは竒(めずらし)きことではないが

誰かはこれを惜しんでいるであろう。

      (柳亭種彦記)


『雪の松 おれくち見れば なお寒し』




古今名婦伝 「更科」

2018-05-13 | 豊国錦絵

更科(さらしな)姫は戦国時代の女性剣士で山中鹿之助の母 

永正16年(1519) - 没年未詳

文久2年(1862)出版  歌川豊国(国貞)絵

 

更科は信州村上家の家老・楽岩寺右馬助(らくがんじうまのすけ)の女(むすめ)にて

同藩相木森之助(あいきもりのすけ)の妻となる

美人にて鼎(かなえ)を揚げ 鈎(かぎ)を伸ばすほどの力量があり

ことに温柔(おだやか)にて貞心堅固であった。

牧島大九郎の横恋慕により不測の禍をかぶせられ

甲斐に護送された夫の後を追った更科は途中で産気づき

身一つにて塩尻山の麓に潜み 一子鹿之助を養育す

その児は後に山中を家號(みようじ)とし尼子十勇士の一人となる

        柳亭種彦記


其角が句に

泥坊や 花の陰にて ふまれたり