祥一郎・・・・・・・・・
お前は自分の人生をどのように思っていたのだろう。とても生き切れたとは言えないお前の人生・・・・・・・・・
色々複雑な幼少期を送ったのは知っている。両親、特に父親と弟にはお前はあまり思い入れが無いようだったね。
たまに私にする父親と弟の話も、おおむねネガティブな話ばかりだった。
父親は、お前の好きだった母親をあまり大事にせず、DVじみたこともあったと話していたような気がする。
弟は弟で、兄のお前に甘えるばかり、迷惑ばかりかけられたと聞いている。「長男て損だわ。弟って面倒ばかりで、すぐ泣くし。」なんてときおり呟いていたね。
お前が早い時期に家を出て、一人暮らしをしたのはそういうことも原因だったのかな。
まあ、両親のいるまともな家庭でも、居場所が無いと感じて若い内から家を出るゲイは多いのだけれど。
かくいう私も、家族との不仲もあったけれど、ゲイであることで疎外感を感じていたから10代後半には家出同然で家を出たという側面もある。。
まあ似た者同士と言う面もあったのかもしれない。
実家を出て私と出逢う前までの暮らしの話はあまりお前はしてくれなかったね。
それでも、一人で部屋を借りて、食べる物も無いような極貧の生活をしていたとも聞いたことがあるし、好きな男ができて何度か付き合ったこともあると聞いた。
そう出逢った頃、まだ一緒に暮らす前にも、お前は誰かのマンションに居候していたね。私には血縁の人だと言っていたけれど。多分それは違うだろう。
家を出て、自由気ままな生活の見返りに、一人でなんでもかんでも抱えて苦悩するのはよくあることだ。
そして私との運命の出会いがある。
その後の暮らしも貧乏続きで、それでもお前は着いてきてくれたけれど、やりたいことも色々有っただろう。
お前が亡くなってから、血眼になってお前のツイッターやブログ、メル友とのやり取り等からそれは推し量ることができる。そしてたまにおっちゃんに何気なく呟いた言葉からも。
劇団で俳優の道をもう一度目指したかったのだろうか。
化粧品のバイヤーをして、ひと儲けして店舗でも構えたかったのだろうか。
或いはバレエの講師をして、世界中を飛び回る?
身体を鍛えるのが好きだったから、フィットネスクラブのインストラクターかな。
日焼けサロンの店長なども似合ったかもしれない。
でも、どれもチャンスに恵まれなかったね。
身体が弱くて、思うように就職活動も出来ず、不治の病も発覚し、共に暮らす私が生々流転でいたって生活が不安定。
おっちゃんも二人で食べて行くだけで精一杯で、お前の夢の為の援助など少しもしてやれなかった。
本当はね、おっちゃんにもっと経済力が有ったなら、お前に好きな事をやって欲しかったんだよ。どんなに荒唐無稽なことでもいい、失敗するのが目に見えることだっていい。おっちゃんにその力があったなら、やらせてやりたかったんだ。
お前が生きている間にそんなこと、あまりに夢物語過ぎて言えなかったけどね。
言っても淋しそうに笑って「おっちゃん、もうええねん。貧乏やし、うちの人生こんなもんやから。」なんて言葉が返ってくるのがわかっていたから。
それは別にそんな夢物語な話をしなくても、お前はたまに呟いていたものね。
「うちの人生、嫌なことばかりで、こんなもんや。」と。
「そんなこと言わずに。しょうがないやん。目の前の人生を生きて行かなしょうがないやん。おっちゃんかて夢も希望もないけど、二人でなんとか生きていかなしょうがないやん。おっちゃんはお前のこと本当に家族や思うてるんやから。」
とおっちゃんは何度かたしなめた覚えがあるよ。お前も覚えていると思う。
お前は黙ってそのおっちゃんの言葉を肯定も否定もせず、受けて止めていたね。
でもお前が人生を本当に諦めていたとは思えないんだ。
あの時の、お前の意識が遠くなっていく瞬間の、悔しそうな残念そうな顔がそれを物語っている。
「まだ死にとうない。今はまだ死にとうない。」って思っていたに違いないんだ。
46歳・・・・・生きていたらひょっとしたらその後何かがまだできたかもしれない。何か形あるものが作れたかもしれない。
おっちゃんはお前の最期の想いをそう理解しているんだ。
まだ若いのに可哀想だのと、そんな陳腐な言葉では言い表せない、お前の壮絶な最期。
生きたかった人生を生ききれなかった祥一郎・・・・・・・・・
そのことに関して、おっちゃんはどんな申し開きができるだろう。
祥一郎・・・・・・・・お前とあの世で逢ったなら、おっちゃんはお前の足に縋りついて、申し訳なくて泣き崩れるかもしれないな・・・・・・・・・。